ひどい。それはあまりにひどすぎる。
おもちゃ……玩具だと? おびき寄せる餌?
私たちを何だと思っているんだ! 同じこの世界へ生まれた命を
確かに人間は無力だ。あんな、目に見えない強大な力など持たないし、
退魔師と呼ばれる者たちの持つ力でさえ、魔断の力を借りなければ何もできない。
だが、だからといって
たとえかなわないと分かっていても魅魎へ
魅妖への怒りよりも、今までに魅魎に殺された退魔師たちへの悲愴な思いがこみあげてきて、セオドアはきりりと唇を噛みしめた。
――いいや!
ぎゅっとシーツを握りしめた手を引き寄せて、彼らへの哀れみを必死に拒絶する。
「……たしかに魅魎はそうかもしれません。けれど、少なくとも人は、命の貴さを知っています。世界に生まれた命の、その意味を。
だって、人は、生きることに懸命じゃないですか。この広大な砂漠に幾度埋もれようと、彼らはくじけず手を取り合い、新たに町を作り、作物を作り、護ろうと努力し、そして何より短い生涯であろうとも生きるために命を大切にしている……。
魅魎は人の体に宿る生気を唯一の食物とし、それを得るために人を
飢えも知らず、己の力にあかせて必要以上にこの世界に生まれた命を狩り、冷酷にも血を流すことを好む……そんな輩を放置しておいていいはずがありません!
魅魎すべてからではなくて、そんな残忍な魅魎から護る、そのために人間へのささやかな牙として神からこの力を授かったのだと……彼らから、この世界で生きるための尊厳を護るためにあるのだと……そう、思えませんか? ルチア……」
最後はおそるおそる、ルチアの反応を伺うように言葉を切ったセオドアに、ルチアは弱々しいながらもほほ笑んだ。
「今のあなたを見られないことをとても悔しく思います、セオドア。やはり血なのでしょうか、同じようなことをかつて、あなたの母親であるアスールも言っていました。
私たちの力は私たち個人のためでなく、この生きづらい世界でも懸命に生きようとする者たちを支援するためのものなのだと……」
その、わずかに昔を懐かしむような響きを含んだ言葉に驚き、なぜ母を知っているのかと訊き返しそうになる。
だが、母も彼と同じミスティア国の退魔師だったこと、母とあまり歳も離れていないことを思えば納得がいくことでもあり、開いた口を再び閉じた彼女の左手を、手探りでルチアは引き寄せた。
「これは、アスールの……、形見、ですか?」
どうやら彼女が死んでいることまでは知らなかったらしい。蒼駕から聞いた、ミスティアの風習を思い出して、「はい」と短く答える。
「彼女とは、18年前、王都が魅魔の襲撃を受けたとき、各町から収集された者同士として知り合いました。彼女は私より2つ上で……幻聖宮で見かけることはあっても、口をきいたのはそのときが初めてでした。
つらく、苦しい戦いの中、果てがないと思われた戦いも、おびただしい数の仲間たちの死と引き換えにようやく終焉を迎えて……。私はルビアの町へ、あの方は王都へと戻りました。
そのとき別れて以来、二度と会うことはありませんでしたが、当時、どんなときもくじけず、心の強さを失わない彼女に、密かに憧れていたのですよ。
だから娘のあなたと会えて、本当に嬉しかった。そして、彼女の娘があなたであることを、とても嬉しく……思います」
長引く会話に、苦痛に歪んだ顔に浮いた汗をぬぐう朱廻の手が、反対側から伸びた。
「今回あなたをわざわざお呼びたてしたのはもうひとつ。これを渡したかったからです」
そう、新たに話を切り替えたルチアの震える指が差し示したのは、鈍色をした彼の魔導杖だった。
聞かされていなかったらしい、朱廻も驚きに目を見開いて、手にしていた布を落とす。
「操主! 一体何を――」
黙するように、とルチアの手が朱廻の眼前に上がった。
「俺は、もう駄目だ。分かるだろう? 体の大部分が闇に侵されてしまっている。
もし、万が一命が助かったとしても、もう退魔師としての力はない。それどころか、闇の側の存在となってしまうだろう。
この体は、魅魎の干渉を、受けすぎた……」
闇の傷は、目に見える外傷よりも、心に刻まれた見えない傷のほうが恐ろしい。
浄化をせずに放置したまま固着してしまった傷は、心の中に
それだけではない。深層意識にさえ深く関与し、どうしても本来の性質を歪められる。それどころか実に、〈道〉を開くことさえあるのだ。
つまりは、彼がいる限りその町は常に魅魎の襲撃の危機に
命を助けてもらったことを感謝し、彼の能力を絶賛した口で、町の者たちはこぞって彼に出て行くことを強要するだろう。外傷が癒え、体力を取り戻す間も与えずに。
それを責めることはできない。町の長は町の者を守る義務があり、彼らには自分の命の安全を第一に考える権利があるのだから。
思い沈むセオドアの前で、左の手のひらを使い、ルチアが、トン、と、さほど強くもない微妙な衝撃を柄頭の所に当てる。すると彼の意図を理解し、それを認めるように、そこに嵌めこんであった紅鋼石色の誓血石を魔導杖は吐き出した。
「これを……おまえに、返そう」
震える指が朱廻の額の辺りを探り当て、それを押しつける。しかし、朱廻の意志がそれを拒んでいるように、血誓石は外れてシーツの上へと落ちた。
「い、や、です……」
ようやく絞り出せた声で、朱廻は力なく首を振る。頬を伝う涙を悟られまいと、顔をそらしてぬぐう。
シーツの上の彼の手に触れ、ルチアはそっと言った。
「今まで20年間ご苦労だった。思えば、ずいぶん世話をかけてきたな。こんな不甲斐ないやつがおまえの操主となっていたことを、ずっと謝りたかった。俺は最後まで、三流の退魔師でしかなかったからな……。
幻聖宮へ戻って、新しい主人を見つけろ。今度の操主は、きっと、おまえの力を十全に引き出してくれる」
「な、にをばかな! そんな、ばかなこと、言わないでください……。
あなたは、私の誇りです。今までの操主とかわりなく、私は、あなたの魔断として存在することを、何よりも誇りにしてきているのです……」
ようやくといった様子でそこまでを口にして、朱廻は声を失った。2言3言、唇を震わせたが、どれも言葉にならず、あやふやなまま消えていく。
「セオドア。どうか、これをお願いします。幻聖宮へ、あなたの手で、還してください。私にはもう、それができそうにない……」
差し出された魔導杖を、セオドアは一瞬ためらったが、ルチアの願いを尊重し、
「あなたはとても強い方です。疑ってはいけません。あなたはだれよりも強く、賢く、そして優しい退魔師となるでしょう。魔導杖などなくとも、あなたはすでに立派に退魔師として一番大切な、心を持っていらっしゃるのですから。
……本当は、この町の人のためにも、朱廻共々あなたに感応していただきたかったのですが、残念ながら、私の魔導杖にそれだけの器はありませんし、あなたも、もう心に決めた方がおありでしょう」
はたして自分などの力に見合う器かどうかは別として、ルチアの言葉どおり、受け取った魔導杖はセオドアの欲する魔導杖ではなかった。
それに、これはルチアの物だ。朱廻も、この魔導杖自身も、まだそれを望んでいるのが分かる。たとえ個対個であろうと、そんなバラバラの心で感応しようと試みたところで失敗に終わるのは分かりきっていた。
「預からせていただきます。
あなたの体が回復するまで」
それはまずあり得ないと訴える心の大部分を強引に奥へと追いやって、底に残ったわずかな希望にすがるように、固い声でセオドアは言った。
その言葉が静かな安堵を彼の心に満たしたのか、ルチアの心そのもののような、はかないほほ笑みが浮かぶ。
「よろしく、お願いします……」
言葉のほとんどを唇の先のみでつぶやいたルチアは、これでもう心残りはないというように深呼吸し、まるで最後に残っていた光のかけらを自ら手放すように、全身から力を解いた。