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第2回

 がっ、と天をにらみつけるような表情を刻んで、男が水に浮かんでいた。


 食いしばった歯茎から血を流し、丸く、穴のあいた喉から血を流し。ざっくり腹まで裂けた肩から赤い流れを作って暗い水の流れを割っている。その奥で右の壁に背をもたせかけた死体は、恐ろしい力で壁に押しつけられたように胸から上をつぶされていて、この薄闇の中、それがだれであるかなどとても判別がつきそうになかった。


「ひどいな……」


 風はなく、辺り一面に漂っている、むせかえるような濃い血臭に口をおおい、目をそむけたセオドアの頭を抱き寄せて、肩を貸したエセルがつぶやく。


 一方朱廻は、一瞬息を飲んだもののさすがにこういう場には慣れているのかざぶざぶと水の中へ入ると、浮かんでいる死体へと近寄り、片膝折って傷を覗きこんだ。


「無理やりつかみ出していますね。心臓ごと直接生気を喰らった、というところですか」

「力ずく、か。魎鬼みたいな真似をするとはな。よほどあせっているとみえる、あの魘魅」


 とは皮肉。


 動物並の知能の魎鬼が、一体どうやって井戸の側壁へと続くこの道に入れる? しかも魎鬼は人の生気の源が心臓部であることも分からないため滅茶苦茶に体を喰い荒らす。ところがこの殺し方は心臓が狙いなのは明らか。出血部を調べても、死後と思われる傷は一切ない。


 やったのは当然沐巳だと見越した上でだ。


「おい、大丈夫か?」


 この光景に衝撃を受け、滅入ってしまっているセオドアへと声をかける。


「ああ。なんとか――」


 気丈にそう答え、エセルの肩から顔を上げた瞬間。

 聞き逃してしまいそうなほどかすかな悲鳴と、ばしゃんっと水の高くはねる音が聞こえた。


 それが空耳ではないと、互いに目を合わせて確認をとる。次の刹那、3人は同時に走り出していた。



◆◆◆



「ひいっ、ひいいいい」


 先までは漲っていた戦意がもはや感じられない、おびえた目をして自分を見る男の喉を片手で悠々と吊り上げて、冰巳は不快気に眉を寄せた。


 素手で心臓部を貫き、えぐり取って吸収する。およそ、瀟洒しょうしゃであるとは言い難い。

 だが今の彼女に手段を選択しているだけの余裕はなかった。

 傷つけられ、欠けた依り代からはこうしている間にも力が抜け落ちていく。修復も、新しい依り代を手に入れるのも今の自分には不可能であれば、せめて力を絶やさぬよう常にそそぎ続けねばならない。


「ちいっ。生気のみを抜き出す、それだけの力も衰えたとはな……」


 漣さまの恩寵を受け、第一の従者を誇るこの冰巳が、こんな下級魅魎のごときあさましい真似をよもやすることになろうとは。


 いら立ちにあかせて吊り上げた腕の力を強める。それほど入れたつもりはなかったが、ごきり、と鈍い音がして、だらりと首を横に傾けた男はそれ以上もがくのをやめてしまった。

 これが最後の1人。残りの2人はすでに周囲の水面を埋めた冰巳の長い髪に身をゆだね、心臓から生気を奪い取られている。


 完全に抜き取られて輝きを失った死体を脇に放棄し、かわりの新しい死体を落とすと、まるで髪一筋一筋が生きた蛇のように与えられた餌へと巻きついて、着衣をものともせずにその心臓を貫いた。


 微弱な灯が、髪先を伝い、冰巳の体へと流れこんでいく。


 ほのかに燐光を発し始めた彼女の美しい肢体が闇に白く浮かぶ。だがその光は次の瞬間失われ、冰巳の目は強く見開かれていた。


 なまじ整いすぎた造形をしているだけに、その仮面のように凍りついた表情には凄絶な雰囲気が漂っている。

 もしこの場においてそれを見る者があれば、それが誰であれ、背筋を走る悪寒を覚えるだろう。それほどに凄まじい形相で、冰巳はぎりぎりと歯を噛みあわせた。


「おのれ……」


 噛み切れた口端から流れ落ちる血の糸にも気付かない様子で、己の手のひらを凝視する。


「この程度の輩ではやはり無駄か。館へ翔ぶどころかこの場しのぎにもならん。分かってはいたが、あまりに貧相すぎる。

 下衆の生気はやはり下衆でしかないかということか……。

 普段であれば触れるもおぞましい、こんな賎劣な虫けらの生気を、この冰巳がじかに手をかけ、我慢して喰ろうてやったというに……ええい、くずが!」


 5人もの命を奪いながらなんとも傲慢な、あまりに利己的すぎる、冷酷な言葉だった。

 その声には塵ほどの哀れみも見出せない。ただ己を満足させられなかったものに対する憎悪とれた思いがあるだけだ。


 3つの死体を周囲の壁へと叩きつける。怒りにあかせて凍結し、それらを粉々に粉砕して憤りをまぎらわせていたときだ。

 その身から放出する莫大な気を隠そうともせず、3人がその場に到着した。




 決して狭いとは言い難い水路一面に長い髪を散らせた漆黒の魅魎、魘魅の冰巳がいた。


 昨日の夕刻初めて町の一角で対峙し、昨夜ルチアを傷つけ、今また5人の人間の生気を喰らった魔物。魅妖・漣によって造られた、その全てが整いすぎた容姿は到底自然であるとはいえない造形をしており、周囲と全く相入れない。そのかもしだす強烈な違和感が、そのまま力となって3人を威圧してくる。けれど、今さらそんなものに気圧されるほど彼ら怒りは半端なものではなかった。


「魘魅!」


 宙にいる彼女の周囲を埋める、崩れた氷像の残骸のような骸に一目でここで何があったかを悟り、内より懇々こんこんと沸き起こる激しい憎悪をたたきつけるように朱廻が叫ぶ。

 冰巳は、彼らの姿を見た一瞬だけ、その強大な気にわずかにおびえらしきものを見せたが、瞬く間にそれを光輝をたたえた瞳へと変化させた。


 なんという輝きをした生気だろう。強すぎて、核である心臓の形が見えないほどだ。


 特に自分の消滅に関わるこのようなときは、ことさらにそう見えるのだろう。

 男達からの返り血に、くっきりと紅色に染まった形の良い唇に浮いた湿りを見せつけるように舐め取ると、その闇色をした双眸で3人の姿を見下ろした。


「ククッ。私は本当に運がいい。このような場で、おまえたちほどの輝きを持つものとまみえることができるとはね。しかもおまえ!」


 吐き出された言葉とともに、激しい疾視しっしがまとわりつくヘビのように朱廻の体を縛りつけようとする。


「生きながら、喰ってやるよ。このような傷を私に負わせた、その償いをしてもらおうか。

 それだけの強い生気を保有してきた体だからね。きっと肉一片にまで力が脹っているだろうから、特別にその血をすすり、じわじわと肉を裂き、最後に心臓を喰ってあげよう。そうすれば館まで翔ぶ力にはなるだろうからね。

 そしてその礼に、最後の一片が失われるまで、おまえに死の安息を与えてはやらぬことにしようか……」


「そんなふうに長々と、希望的観測でものを言わないほうがいい」


 冰巳の禍々しい、呪咀めいた言葉と迫力に少しもひるむ様子を見せず、あっさりそう返すと朱廻は肩を竦めてさえ見せた。


「その姿を保つのもやっとの身で魔断を相手にして、それでも楽に勝てる夢などに浸っているのはおまえの自由だが、あまりあなどりすぎると現実に手痛い平手をくらい、無理矢理目を覚まさせられることになるぞ」


 昨日のことを思いだせ、とばかりに見据える。だが、冰巳はそんな姿を鼻で笑い飛ばした。


「ふん。持ち主である退魔師もおらぬ魔断など、ただのナマクラよ。もはや気にかけるほどの力も持たぬ。

 配下の者でありながら己の主を守ることもできず、あまつさえ放置してこのような所までのこのこやってくる、そんなガラクタを恐れるやつがどこにいる?」


 嘲る冰巳のこの言葉には、朱廻の気がかすかに反応するのが見えた。

 内の、血が逆流するような怒りを面に表さないのはさすがだが、やはりルチアをあのような目にあわせた魘魅とこうして対峙した以上、このまま捨て置くことなど朱廻には到底できはしないだろう。

 それに、こうなってしまっては、彼女を倒さないでここを通過することは不可能だ。


 大元である魅妖を退魔する上で、先に倒さねばならない相手。

 どうせ闘うのであれば朱廻にそれを主張する権利があるが、彼女の言うとおり、たしかにルチアのいない今の朱廻の力では丸腰では不利だ。


 そう判断し、へたに刺激しないようにゆっくりと腰から破魔の剣を剣帯ごとはずしたとき。

 セオドアは、この場に近付きつつある不穏な気配にいち速く気付いて、周囲にぐるりと目を向けた。


 どこだ……一体どこから?


 背後へ向けて目を走らせた、その瞬間セオドアは完全に自身に関して無防備になっていた。

 突然、何かに鋭く足をすくわれる。


 「なっ……」

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