「……全然、覚えてないんです。魅妖の力の直撃を受けて、できる限り庇ったんですけど、降ってきた天井とか壁の瓦礫とかまでかわしきれなくて……」
そこで、一度迷うように言葉を止める。
今思えば、過去の自分だという彼の言葉は何の確証もない、ただの夢と思いこみにも思えるし……冥界の入り口から連れ戻してくれた母のことなんかは特に、蒼駕には話しづらかった。
操主である退魔師と魔断の結びつきが強いのは知っていたけれど、あそこまでとは思っていなかった。
長命種の魔断の一生に対して、人間の生涯はあまりに短い。それが退魔師であるならなおさらだ。必然的に、魔断は己の操主をその生涯に数十人持つことになる。
だから強いのだと、思っていた。
いつのときも毅然としていて、だれもに平等に優しくて、命の大切さを知っている……。
だが、どの魔断もその生涯を平和に終えてはいない。退魔師とともに魅魎に狩られ、喰われた者ばかり。
それは、ひとえに退魔師の判断ミスだと思っていた。それゆえに彼らあんなにも慎重に己の操主となる退魔師のランクを選ぶのだと。
あんなに強いつながりとは、思っていなかった!
置いていかないで、と言っていた。
退魔師が己の死の間際、魔断を次代へと残すのは、務めだ。残される側には残される側のつらさがあることを考えていなかったわけじゃないが、あまり考えないようにしていたのは確かだ。
自分だってきっと、そのときがきたなら魔断を残すように動くと思う。生きてほしいと思うだろう。それが、たとえ残された魔断本人を苦しめることになったとしても。
……でも、そうして残された蒼駕は、まだだれとも組もうとしない。
彼の操主だった母が死んで、16年たつ。
その間、彼は1度も感応式に出ようとさえしなかった。
16年が、心を落ちつけるのに不足な年月だとは思わない。たとえ魔断と人の一生が比較にならないほど違っていようとも、過ぎる時間が心に及ぼすものは、同じなのだから。
母のことを言葉少なに話してくれるとき、彼はいつも遠くを見るような目をして自分を見ていて、それにこちらが気付いたのを知ると、いつも静かにほほ笑む。もしや、母のことを愛していたのではないかと思えるほど、それはせつなげで……。
母の遺言を守り、こんな自分でも見捨てずに娘のように育ててくれた蒼駕。
そんな自分の感応式といえど、出席しようとまでしてくれた、ようやく片付きはじめた心を、自分などの稚拙な言葉で乱していいはずがない。
やめよう。母がわたしを見守ってくれているというのは、彼も信じていることだし。わざわざまくしたてることじゃない。
そう決心して、セオドアはそれ以上失っている記憶に対して考えることはやめることにした。
今、自分は生きてここにいる。それ以上に大切なことなどないだろう。なくなっているのも傷のショックによる一時的なものかも知れないし、そうでなくとも自分のしたことだ。いつか記憶は戻ってくる。あせってもしかたがない。
それより、今はもっと大事なことがある。
「朱廻とともに戻されたと言いましたね? 蒼駕」
「言ったよ。彼は操主を失った。一昨日、正式にミスティア王に任を解かれ、今は与えられた部屋できみと同じように体から闇の気を抜いている」
ではルチアは死んだのだ!
あんなに懸命に、ルチアを救いたいと願っていたのに。
朱廻は失ってしまったのだ……。
「セオドア、大丈夫だよ」
打ちひしがれてしまったセオドアの背に手を回し、さすって蒼駕がそうさとす。
「今はまだだれにも会えないほどつらい悲しみにとらわれているけれど、彼はこの世界において課せられた、己の義務を知っている。きっと立ち直る。
寂しいことかも知れないけれど、本当の哀しみから自分の心をとり戻すのは、自分にしかできないんだよ。
彼の心を救うことに、わたしたちは何もできない。けれど彼は、やがてそんな自分を独りという哀しみから救うことのできる人とまためぐり逢うんだ。己の命賭けて守ろうと思える、相手と。
それが、本当の強さだよ」
「……本当に? 本当に彼は、救われるでしょうか?」
「わたしがそうであったようにね、セオドア」
セオドアの不安に、蒼駕はめったに見せない極上の笑顔でそう返した。
それだけで、その言葉は全信頼を預けるに値する。
「……なら、いいんです。それなら……」
かみしめるように、そう口にしたときだ。
突然バタバタとこちらへ向かって廊下を駆けてくる足音が聞こえてきた。
「目を覚ましたって!?」
勢いつけて開かれたドアが内側の壁に当たってたてた、けたたましい音とともにそんな言葉が飛びこんでくる。
青銀色の髪をした、それが白俐であると知った直後、遅れて紫蘭が駆けこんでくる。
「もおっ! 走らないでくださいっ。私が何を持っているか、分かってるんですかっ?」
非難たらたらの言葉をこぼすが、食べ物は絶妙のバランスで彼の手にしたトレイの上で、すべてこぼれることなくきちんと器の中におさまっている。
「セオドア。ほんとに大丈夫か?」
紫蘭の不平はまるっきり無視して、蒼駕とは反対側へ回りこみ、のぞきこんでくる。遅れて横に着いた紫蘭と交互に2人を見て、セオドアは蒼駕の先の言葉を思い出しつつ答えた。
「ええ。ずいぶん心配をおかけしてしまたみたいで……すみませんでした」
やはり声は無愛想だったが、彼女の不器用さに無理解な者は、ここにはいない。
「いーって、いーって。そうして目を覚ましてくれて、元気なら、それでいいんだよ」
「そうです。あなたが無事で、本当に良かった。居場所が分からずにいた間に比べれば、目覚めを待つことくらい、なんてことありません」
心から満足気にそう言い合う。
にっこりとその砂糖菓子のような笑みを浮かべた紫蘭は、手にしていたトレイを膝上へと乗せてきた。
病人食で、椀は小さくて中身も粗末な物だったが、それでも今のセオドアには十分の量である。
まだ温かな湯気をたてているそれを覗きこんで、漂ってくる匂いに目を細めた。
椅子にかけ直した蒼駕が、食べなさい、と目で促してくる。
ねばねばした、青臭い匂いのする緑の液体の入った杯は遠ざけて、わずかに指先が痺れている左でぎこちなく手にしたスプーンで、半ば以上が汁にとけて糊状になっているそれを口に運びながら下げた視界に、例の魔導杖が入った。
右手はまだ痺れが強くて、力を入れにくい。なのにどうしてこんなにもしっかりと握りこめているのか自分でも不思議だったが、とにかく左手で右手の指を1本1本開かせる。
すると蒼駕の手が伸びて、魔導杖を取り上げた。サイドテーブルに置かれた専用の箱の中へそれを収納する。
それを見て。
「本当に、まだ信じられないな。前々から強烈な波動は感じていたけど、でもまさか、きみがあの伝説の竜心珠の魔導杖の退魔師だったなんて」
感服している声で、白悧が言った。
(伝説? そこまですごいのか?)
よく煮こまれていて、半ば以上とろけてゼリー状になっている粥を口に運びながら内心驚く。
まあ、たしかにあんな奇妙な魔導杖は2つとなさそうだが。
それにしても、過去の持ち主がそうだったから今度の自分もそうに違いない、というのは間違いだ。
冗談ならまだしも本気ならなおのこと、それは買いかぶりすぎだ。
そう返そうとしたのだが、白悧はすっかり興奮してしまっていて、今何を言ったところで自分の言葉など耳に入れそうにない。
目があった紫欄が、なぜこんなにも白悧が興奮するのか、説明をしてくれた。
「竜石の瞳を持つ者が唯一その資格を持っているらしい、と伝え語りにあるんですけれど、竜石のような色の瞳の人間は、数は多くありませんがこの幻聖宮内にも数名いますからね。
幻聖宮から失われて、最後の持ち主が消えたのが500~600年ほど前ですし、その間1度も見つからなかったものですから、もう砕けてしまったに違いない、というのがもっぱらの定説だったんですよ。
まさかルビアにあって、まだ実存していたとは……」
それを聞いて、セオドアは視線をとなりの箱へと移した。
箱のふたは開いたままで、それは艶々とした高級そうな
まだピンとこないが、どうやらこれは相当すごい物らしい。どうしてそんなすごい物が、よりによってこんな落ちこぼれの自分なんかの手に収まっていたんだろう?
紫欄も言ったように、同じ目を持つ退魔師候補生は、ほかに何人もいるのに。
その不思議さに首を傾げる。
横では、何もかも見通していると言うように、蒼駕が静かにほほ笑んで彼女を見ている。
それに気付いて顔が熱くなったとき。
白悧が唐突に手を伸ばしてきた。
「それ、よく見せてよ。セオドアがずっと手放さなかったから、まだだれもちゃんとした形で見てないんだ。
自分の収まる魔導杖は、よく見ときたいし」
「まだあなたとは決まっていませんよ」
しっかりと紫蘭が釘をさす。
「わたしである可能性もあるんですから」
「うるさいなっ。ちゃちゃ挟むなよ」
そのやりとりに、まだ自分の感応の話は完全には流れていないのかと、ぼんやり考えながらセオドアは魔導杖へと手をかけた。
右手はまだ痺れが強くて、力を入れにくい。なのにどうしてしっかり握りこめていたのか自分でも不思議だったが、とにかく魔導杖を取り出して白悧の手に乗せた。
「どうぞ」
「ありがとう。
うわあ。おい紫蘭、本当に竜心珠の魔導杖だぜ。どこも欠けてないし、ひびひとつない。
すごいな。相当の年月を感じるのに、まるで薄れた気配がないぞ。こうして触れてるだけで、内包した力の強さが伝わってくる。前の
「ええ。すさまじい力を感じますよ。近くにあるだけで肌がピリピリするというか……吸い込まれそうになる。
これなら伝説化するのも分かりますね。かつて魅魔を断ったこともある、というのも頷けます」
などなど。勝手に話している2人から目を離して黙々と粥を食べる。そして、食べ終わったトレイを膝の上から壁に備えられた作り付けの棚のほうへと移動させる蒼駕の背に、セオドアは意を決めて口を開いた。