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最終回

「蒼駕。あの、お訊きしたいことが、まだあるんですが――」


 だがしかし。

 そこから先を口にする前に、セオドアの心のほうがくじけてしまった。


「何を?」


 蒼駕が、にこやかな声で訊き返す。


「……いえ。いいんです」


 俯いたまま首を振り、セオドアは唇をかんだ。


『エセルという者がどうなったか、知っていますか?』


 その一言が、どうしても喉から上に浮き上がってこない。

 あのとき自分と一緒にいたのだからその行方を気遣うのは当たり前で、知りたいと思うのは当然だと思うのだが、それがうまく言葉になってくれないのだ。


 なぜか、胸がつかえて。


 途切れてしまった記憶の最後は、あの爆発の中、エセルを突き飛ばしたこと。その感触が、まだこの手に残っている気がするてて。


「さあこれを飲みなさい。痛みどめだよ」


 食後、手渡された杯の中身の青臭さについ、顔をしかめながらも、息を止めて一気に流しこむ。


 薬なのだからおいしいはずもないが、もう胸の中が焼けてむかつくほど苦くて、衝動的、戻しそうになった口元に、すかさず蒼駕が飴玉をころんと放りこんできた。


「もう寝なさい。きみの食べた粥の中身には、鎮痛作用のほかに睡眠導入効果も含まれているからね。すぐに効いてくる」


 肩を押されるようにして、セオドアは再びベッドに仰向けになった。


 無事なんだろうか?

 あのちゃっかり者のことだから、きっと、しっかり自分の身の確保はしたに違いないとは思う。でも、ならどうしてここにいない?


 いくら全部終わったからって、平気で置いていくほど、あいつはわたしのことを快く思ってはいなかったんだろうか?


 そういえば、前に同じようなことを言って、喧嘩したな。あのときとちょうど反対になったわけだ。

 あいつも、こんな気持ちになったのかな。こんな、まるで棘のついた刺草いらくさを胸の中に入れてしまったような気分に……。


 その後のどさくさにまぎれてつい、謝るのを忘れていた。あれはわたしのほうが悪かったのに。


 あのあとだってそうだ。今思い出してみると、あいつには世話になりっぱなしだった。あんな状況下にいながら、まるで面白い冗談でも言つように平然と軽口をたたくような性格で……ほんとに、認めるのはくやしいけれど、救われてもいたんだ。必要以上に深刻に落ち込まなくてすんだ。


 その礼も言わせずに去るなんて、卑怯だ。大体あいつは何かと一方的すぎる。こっちの言い分を勝手に先回りして読んで、勝手に動くんだから。いくら危ないって言ってもきかないし……絶対にあいつだって人のことは言えないそ。


 などなど。天井を睨みつけて、あとからあとから沸いてくるエセルへの不平不満を胸の中で愚痴り続ける。腹を立てて熱くなっているせいか、眠気はまるでやってこない。

 さんざん愚痴ったあとで、でも……、とセオドアは隅のほうへ追いやっていた考えを拾いあげた。


 でも、いくらそんなあいつでも、大けがをして意識不明のわたしをそのまま平然と放置していくような、薄情なやつじゃないと、思う……。


 放っておけないって、あんなにくり返してたし……。

 やっぱり、あのとき助けられなかったんだろうか。

 肩に大けがも負っていたし。あのときの漣の力は、想像以上にすさまじかった……。


 途端、言いようのない不安が胸中でよどみだす。痛みかけた胸に、シーツの中でそっと手を当てたときだ。


「ああそうだ」


 何か思い出したように、不意に蒼駕が声を上げた。


「きみにも今回の退魔に対する謝礼金がミスティア国から出ていたんだけれどね」

「礼金? ですか?」


 糾弾と処罰ではなく?


「宮の転移鏡に誤って落ちたきみは、宮に戻るべく転移鏡のあるルビアへ向かったところで今度の事件に遭遇したと、朱廻は報告している」


 その言葉に目をみはり、混乱したまま、彼の袖を掴んで引き寄せた。


「で、でもそれじゃあ――」

「きみの罪は、立入禁止区域へ入ったことだけだ。それに対する宮母さまからの処罰は、謹慎4ヵ月。 

 何も考えずゆっくり休んで、一日も早く心身を元に戻しなさいとことづかっている」

「だ、だめです、それは。そんな……それじゃあ――」


 それ以上言葉は不要だと言うように、蒼駕は首を振った。少しさみしげな光をした静かな青い瞳が、言葉よりも雄弁に皆のいたわりを伝えてくれる。

 だれもかれも、あまりに優しすぎて、泣いてしまいそうだった。


 潤みかけた目を閉じ、セオドアは、のどを焼く熱となってこみあげた感情を、ぐっとこらえて蒼駕の袖に額をこすりつける。


「……それで、礼金のことだけれどね」


 くしゃりと前髪に指をからめて、蒼駕はゆっくりと先の言葉をくり返した。


「なにか、きみに貸しがあるとか言う男が現れて、朱廻を証人に全額受けとって去っていったそうだけど……覚えがあるかい?」


 貸しがある男?


 その言葉で浮かんでくるのはエセルだけだ。


 そうか。あいつ、やっぱり生きてたのか。

 ……ああそうか。そうか、あいつ、やっぱり生きて。


 あれだけ要領のいいやつ、めったやたらといるもんじゃない。天上の神だって、あいつをそばに呼ぶくらいならこの世に置いといたほうがましだと思うに決まってる。

 大うそだってばれてるくせに、ひとの金を取っていくような図々しいやつなんだから。


 そうか。ああそう。


「嬉しそうだね」

「ええ、蒼駕。嬉しいんです」


 したたかで強靱な、生命力にあふれたエセルの姿を思い起こして、こみあげた笑いを解放する。


「礼金はかまいません。退魔をした記憶はないし、受けとるつもりもありませんから。

 それに、その男には大きな借りがあったんです。本当に。だから、いいんです」


 1度、大きく息を吸いこむ。


 何もかも今考えて、即座に行動することはないだろう。自分のしたことは自分がよく知っている。ひ

とに指図されなくとも、自分が何をするべきかくらい考えられる。どう償うべきか、それはまたあとでゆっくりと考えよう。今はただ、この気分を感じていたい……。


 それにしても、ここは本当に、どこよりも暖かい。

 満ち足りた思いでその言葉を口の端にのせる。けれど、それを全部口にする前に――いつの間にか白悧と紫欄が静かになっていたせいもあって――やすらかな眠りへと引きこまれていた。


「ゆっくりとおやすみ」


 穏やかな光を灯した瞳で見つめながら、幸せそうに蒼駕が囁く。

 きみを傷つけようとする者は、もうどこにもいないからね。


 そっと、安らかな寝顔をしたセオドアの額に口付ける。

 その前で、白悧はずっと己を縛り続けていた金縛りをようやく解き、同時に叫んでいた。


「なんだ! この、紅鋼玉色の誓血石はっ! 一体どこのどいつがいつの間にっ!」


 しっかりと柄頭の部分に嵌めこまれてあるその結晶に、こぶしどころか全身を怒りにぶるぶると震えさせる。


 その後、うるさいと蒼駕に追い出されるまで枕元で沸き上がっていた2人の魔断の、まるで天地をひっくり返したような大騒ぎにもぴくりとも反応せずに、セオドアはただ、眠り続けていた。


 やがてくる、己の魔断との再会と、そして新たな闘いのために……。








『魔断の剣1 碧翠眼の退魔師 了』

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