「おはようございます」
「おはようございます、佐倉さん」
地方銀行の支店。
いつものスーツに身を包み、真緒は淡々と事務仕事に取り掛かっていた。
(ベッド、あともう少し耐久上げたほうがいいかも……。あの木の素材に変えたら練度の上がり方違ったよね……。)
指先は帳票をめくりながら、頭の中は完全にティレノアだった。
──そして、やってしまった。
「ええと、入金伝票、間違えて……あれ?」
後輩から渡された伝票に、真緒が作ったミスがひっそりと記されていた。
金額の小さな入力ミス。
数字の桁を一つずらしている。その時、斜め後ろから静かな声がかかった。
「佐倉さん、これ──」
顔を上げると、黒髪の短髪、眼鏡をかけた先輩社員・黒瀬蓮が伝票を軽く持ち上げて、優しく差し出していた。
「ちょっとだけズレてたよ。大きな影響はないけど……。一応、再チェックお願い。」
蓮は、怒ったり責めたりはしない。ただ、淡々と、けれどきちんと指摘してくれる。
「す、すみません……!」
真緒は慌てて頭を下げた。ミスに気づいてくれたことが、ありがたくて、そして情けなかった。
(ダメだ……現実まで頭がダンジョン素材でいっぱいになってる……!)
机に戻るとき、背後で蓮がふっと小さく笑うのが聞こえた。
「……寝不足、だめだよ。」
声は低く、冗談めいていた。けれど、心に少しだけ沁みた。
(……うん、ちゃんとしなきゃ。)
真緒は心の中で、ひとつ深呼吸する。ティレノアも大事だけど、リアルをちゃんと生きるのも、きっと、同じくらい大事だ。
そんな当たり前のことを、ちょっとだけ忘れそうになっていた。
背中を丸めて夢中になった夜も、静かに注意してくれる誰かがいるこの日常も。
──たぶん、どちらも大切なんだ。
午後の光が、真緒のデスクに、ふんわりと差し込んでいた。
フィールドやダンジョンがついに攻略され、熱気に包まれるプレイヤーたち。
次々にボス戦へ挑んでいく者たちをよそに、Maoの姿は相も変わらず閑散とした初期フィールドの静かな木立にあった。
「……よし、ツールがグレードアップしたから大分伐採作業がいい感じになったねぇ~ストレスなくすいすいだ。」
キツネの獣人アバター、Maoは今日も今日とて伐採と加工に余念がない。
敵がいないわけではないが、器用に攻撃をもらわないようスキルを駆使しながらモンスターを倒しながら素材ルートを確保。
手に入れた木材をその場で加工し、クラフトログにコツコツと記録を積み上げていく。一定クエスト達成で作れるようになった持ち出しアイテムのおかげでフィールドでも加工ができるようになったことで持ち物の圧縮が図れるようになったのは大分大きい。
そして、その瞬間は突如としてやってきた。
《SYSTEM:プレイヤー「Mao」が「陽彩の木洩れ日セット①」の練度を極めました!》
《新機能「個人店舗開設」が解放されました》
そのアナウンスは、全体チャットを通じて全プレイヤーに届いた。
[スライム好き]:「……は?」
[絶対寝ないマン]:「えっ、何のアナウンス?」
[Nox_Vivere] 「陽彩の、なに?」
[紅蓮の斧戦士]:「ってかMaoって誰?」
[鬼嫁と同居中]:「そんなレシピ攻略サイトにないんだけど?」
全チャに混乱が走る。
そんなさなかに一つのつぶやきが上る。
[おでんの精霊]:「わかった!禿氏の白狐だ!」
本人はというと、その頃Maoは静かにログを眺めていた。
「……やった、店舗と店舗装飾レシピって楽しみすぎる!やっぱ最初はラフレア草原の素材からかぁ。簡素って言えば簡素だけどその分色付ければいいよね!何色にしよう!微妙な濃淡つけたいから色が足りないよぉ~!染色師のカラバリ増やすためにもっとフィールド走るべきかなあ?」
嬉しそうにアバターのしっぽがふわりと揺れる。
「さて、次は店舗の装飾作らなきゃ!木材を取りに行かないと!」
と、次なる素材を確認し必要なものとその入手ルートを考える。
「さ、頑張るぞぉ!」
チャットのログなんて知らない。サーッと流れ行くそれを追いかける時間がもったいない。人様に迷惑をかけてるわけじゃない。それよりも次のワクワクを追いかける真緒であった。