潜入調査開始の日、カシワギさんが地下の車庫から引っ張り出してきた赤い車? ‥‥は、クラシックを通り越して、もはや骨董品。もちろん車輪がついてて、AIの自動運転もない(屋根もない。雨降ったらそうするんだろ。濡れるよ)。
それになにより、動かす時に車の前に棒を刺して回転させないとエンジンがかからないという謎仕様。けたたましい音がして動いたと思ったら、後ろから黒い煙が‥‥機知室の人達はAIエアカーが嫌いなんだろうか。
「‥‥よう」
私の顔を見たカシワギさんが言った言葉はそれ。もしかしておはようの略?
「朝か‥‥最悪な時間帯だな」
そう言って頭をかいてから大きなあくびをする。
「あんたもまだ眠そうだな」
「‥‥‥‥」
いや、バリバリ目が覚めてますが。
「ん?」
私をじっと見る。ちゃんと制服ではなく、潜入用の服に着替えてある。
「‥‥へえ、やるじゃん。ちゃんと女の子にも見えるな」
「‥‥は?」
にも‥‥って‥‥デニム生地の紺色のワンピース‥‥こんな服を着た男の子がいたら見てみたいものだ。
そう言うカシワギさんは、青っぽいスリムズボンに、襟のついたスーツ‥‥ネクタイはしてるけど、やっぱり上ははだけてて、何の為のネクタイなんだか分からなくなってる。腕はしっかりとまくってる。やたらと背が高いので、手足が細長く見える。その上についてる顔は何だかいつもにやけた感じだし。‥‥機知室の人だと知らなければ、絶対に近寄らないタイプの人だ。
とても公務員には見えないんですけど。
「‥‥‥‥」
私は黙って助手席に乗る(二人乗り)。
「じゃ、ちょっくら行きますか」
「!」
車はいきなりダッシュ。AI運転では絶対にありえない。
「待‥‥」
機知室のビルの地下車庫からの出口付近、そこから右に曲がらないと壁に激突。でも車のスピートは落とす気配がないんですけど。
「あー? 何だって?」
車はスレスレで曲がり、外へと出た。二車線の車道を、明らかにスピードオーバーで走っていく。
「あの‥‥慎重に行きません?」
あーあ‥‥珍しくきちんとしてきた髪が、風でバサバサと逆立ってる。
「ん?‥‥慎重ってのは、つまらない奴の趣味だろ」
「‥‥‥‥」
駄目だ、この人は。
「‥‥‥‥そういえば」
カシワギさんがボソっと呟いた。
「何ですか?」
珍しく真面目な顔になってる。
「昨日から何も食ってねえや。そりゃ、体も重いわけだ」
「は?」
どういう事?
「宇宙は広いのにな。俺の財布だけブラックホールだ」
「‥‥‥‥」
片手でハンドルを握って笑ってる。財布というのは、世界が昔、まだ貨幣経済だったときに使っていた、お金というものを入れていた小物入れ(実物を見た事はない)。
「‥‥宇宙規模の壮大な話にすり替えてますが、それはつまり使用できるポイントが無いという事では?」
「‥‥そうとも言う、な」
カシワギさんは笑って前を向いた。
「なあ、ちょっとした投資話なんだけどさ‥‥俺にポイント貸してみない?」
「‥‥‥‥は?」
初日にいきなり新人にポイントをせがむ先輩とは‥‥。
「女は男の金を使うもんだと思ってたけどさ‥‥たまには逆でもいいだろ?」
「‥‥‥‥」
一応、女子扱いはしてくれるようだけど‥‥。
このまま隣でお腹が鳴りっぱなしでも困るわけで‥‥。
私はため息をついたの。
「‥‥いいですよ‥‥少しなら‥‥」
まだ見てないけど、機知室からのポイント加算があるはず。特に使う当てがないんだけど、まさか、最初に使うのが先輩への食事のおごりとは‥‥。
「じゃあ、遠慮なく‥‥一番高いヤツ頼んでいいんだよな?」
「‥‥‥‥」
屋根の無い車は、次々と車を追い越していく。
まだ任務が始まってないのに、何か疲れた‥‥。
予定時刻よりかなり早く目的地に到着(あれだけ飛ばしてれば、それはそうかと)。
ここは指示のあった第九零網区の入り口。申し訳程度の金網があって、後ろには普通にビルの林。そしてこれから進む先には、錆びた金属の古そうな建物が見える。空は繋がってるはずなのに、何だかこの先の空気は淀んていて、体に悪そうに見える。今まで気にもしてなかったけど、新都心はそれなりに清潔感が保たれてたんだね。
「じゃ、行くとするか」
カシワギさんが鉄柵の門を押すと、軋んだ錆びた音が、思ってた以上に大きな音を立てた。
「‥‥‥‥」
私は黙って後をついていく。
バックアップって、具体的に何をしたら良いか分からないけど、つまりカシワギさんの指示通りに動けば良いって事でいいのかな。‥‥不安だし、結構、ビクビクしてる。
「さすが室長が見込んだだけの事はあるな。こういう状況でも表情一つ変えずにAIの演技を続けてる。悪くない‥‥そのまま続けな」
「‥‥‥‥」
いや、演技してるつもりはなくて、素でこんなんだけど。
足元のアスファルトはひび割れてて、隙間から雑草が生えてきてる。あちこちに見えるのは鉄の家かと思ったけど、茶色の壁は錆びたトタンで、穴だらけ‥‥こんな所に人が住んでるんだろうか。
今は夏かと思うほどに暑いけど、冬になったらそうはいかない。こんな建物じゃ雪は防げないかと。ドラム缶があちこちに転がってる。何の音かと思えば、ドラム缶が風で揺れる音か。
家のガラスはほとんど割れてる。どう見ても廃墟‥‥こんなとこに住んでる人が?
「ここまではただのジャブだ‥‥本番は、もっと奥にある」
ちょっと猫背の姿勢のカシワギさんは両手をポケットに突っ込んだまま、軽い足取りで奥へと進んでいく。
しばらく進むと、大通りに出た。
結構、人がいる。出入口付近で予想してたより意外とちゃんとしてる。果物(赤‥‥りんごかな?)や野菜を売ってる店があるけど、店内じゃなくて、外にせり出した台に簡易的な屋根をつけた物(屋台だったかな? 歴史で習った)で売ってる。
「こんなとこでポイントがどうとか言えると思うか?」
「携帯を読み取る機械はなさそうですね」
「ここじゃ、正義も友情もキャッシュ次第‥‥笑えるだろ?」
「‥‥‥‥」
確かに‥‥。ここでMITの身分証をかけてたら‥‥笑えるかも。
思ってたより普通の服装だけど‥‥なんとなく、こっちを見る目が鋭い。
「‥‥‥‥」
ううん、今の私はAIドール。余計な不安や考えを持っちゃいけない。
‥‥ほんとのドールもそうだったんだろうか?
私は‥‥AIみたいだ‥‥と、ずっと言われ続けてきたのに、いざAIのようにしようとしても、どうして良いのか分からない。
「‥‥‥‥?」
カシワギさんは不意に立ち止まった。
「俺、そんなに人気あったっけ?」
「?」
いきなり何を言ってるんだ?
「‥‥いや、人気ものはあんたか」
意味不明な事を言ってまた歩きだす。
屋台の並ぶ通りから裏路地へと入っていった。
狭い道の上には三階建てくらいの低い家が壁のような圧迫感。上には服が紐にかけてある。どうして外に出しているのか意味不明。
「今日は囲み取材らしい」
カシワギさんは手をポケットからゆっくりだして、ニヤ‥‥と笑った。
「‥‥‥‥!」
物陰から人がぞろぞろと出てきた。
手には‥‥大きなナイフ。鉄の棒を持った人とか、とにかく武器を持ってる人が五人‥‥六人‥‥全員男性。
どう見ても友好的には見えない。‥‥どうしよう!
内心、慌ててた私の方に、不意に顔を向けてきた。
「あんたのそのポーカーフェイス‥‥よっぽと修羅場慣れしてんな」
「‥‥は?」
こんな時にこの人は何を言ってるんだろうか。