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第3話 新たな出会い

 エスメラルダが村へ帰ってきてから、数日が過ぎた。王都の華やかな生活とは全く異なる、地味で素朴な日々。だが、彼女にとってこの村での生活は、必ずしも苦しみだけではなかった。朝早く起きて水汲みに行き、道端の雑草を抜き、昼には簡単な食事を済ませてから村人の手伝いをする。そんな当たり前の営みを繰り返すうちに、わずかながら心の傷も癒やされていく。レオンのように手を差し伸べてくれる人々もおり、彼女の帰郷を温かく受け止めてくれたのだ。


 もともと“聖女”と呼ばれたのは、生まれつき人を癒やす力に秀でていたからだ。だが、追放された今、その力を証明する地位も証人もない。エスメラルダは自分から「かつて聖女だった」と公言することを控えていた。幸い村人たちは、彼女の穏やかな人柄を知っているため、必要以上に踏み込んでくることはない。それが心地よかったし、同時に少し寂しくもあった。


 そんなある日の早朝、エスメラルダは家の周りの草むしりをした後、山裾の森へ薬草を摘みに行くことにした。王都にいるころにも薬草を学ぶ機会はあったが、当時は忙しく、なかなか実践する時間がなかった。自分の力が衰えていないか確かめたいという思いもあり、森へ入り込むのは少し怖かったが、いつまでも恐れに閉じこもっていては先へ進めない。心を奮い立たせるように自分に言い聞かせて、太陽が昇り始めたばかりの空を見上げた。


 村の外れを抜けてしばらく歩くと、木々がだんだんと生い茂ってくる。鳥のさえずりと木漏れ日の優しさに、少しだけ緊張がほどける。幼いころ、この森を探検して蝶を追いかけたことを思い出し、エスメラルダは何とも言えない懐かしさを覚えた。王都では味わえなかった自由な空気が、ここには確かにある。


 やがて傾斜のある小道を登った先で、良質な薬草が群生している場所を見つけた。深緑の葉に淡い白い花が咲いていて、痛み止めや解毒の効果が高いとされる品種だ。エスメラルダは村人のため、少し多めに摘んでおこうと屈み込み、丁寧に手で摘んでいく。昔のように聖女として人を癒やす立場にはないが、それでも少しでも役立ちたいという思いが彼女の背中を押していた。


 すると、どこからか低いうめき声が聞こえる。小動物でも怪我をしたのだろうかと、エスメラルダは耳を澄ませた。だが、どうやら人間の声らしい。彼女は神経を研ぎ澄ませ、声の方向を探るように立ち上がる。森の奥深くから聞こえるかすかな声に導かれ、慎重に足を進めていくと、大きな木の根元で男性が倒れているのが見えた。


 年の頃はエスメラルダより少し上だろうか。肩まで伸びた黒髪を持ち、王都の騎士や貴族とも違う独特の装いをしている。彼の左腕からは血が滲み、服にも濃い赤い染みが広がっていた。傷は相当に深そうだったが、必死に意識を保とうとするのか、うめき声をあげている。

「大丈夫ですか?」

 エスメラルダは無我夢中で駆け寄り、彼の上半身を抱きかかえるようにして声をかけた。しかし、返事はない。失血で意識が混濁しているのだろう。すぐにこの場で応急処置をしなければ危険だ。彼女は咄嗟に自分の上着を脱ぎ、傷口を縛るようにして止血を試みる。次いで、持ってきた薬草を使い、傷にあてがいながら懐かしい“祈り”の言葉を呟こうとした――。


 けれど、あの王都での追放劇を思い出すと、今も胸が痛む。もしここで聖女としての力を使えば、また同じような陰謀の標的になるのではないだろうか。そんな恐れが一瞬、彼女をためらわせる。だが、それでも目の前で苦しむ人を見過ごすわけにはいかない。エスメラルダはぎゅっと目を閉じ、自らの内に残る力にそっと触れるように祈りを捧げた。


 白く柔らかな光が、うっすらと彼の腕を包む。かつて王太子アルヴィスや王宮の人々を癒やしていたころの輝きに比べれば、ずいぶんと弱い。追放のショックで力が衰えたのかもしれない。それでも、動脈からの出血はどうにか落ち着き、男の荒い呼吸が少しずつ穏やかになっていく。彼女は大きく息を吐き、手のひらに残る微かな光をじっと見つめた。まだ、少しは人を救う力が残っているのだと、ほっとする気持ちが湧いてくると同時に、聖女だった自分を思い出す苦さに襲われもした。


 無我夢中で処置を終えると、彼をこのまま放置しておくわけにはいかない。ここは魔物が出るときもある場所だ。せめて村まで連れ帰りたいが、エスメラルダ一人の力で運ぶのは難しそうだ。どうしようかと思案していると、傷だらけの男の唇がかすかに動いた。

「……誰だ……?」

 その問いに、エスメラルダは少しだけ笑みを返す。

「村の者です。あなたは怪我をして倒れていたんですよ。命に関わる大怪我だったけれど、応急処置をしました。もう少しゆっくり休んだ方がいい」


 彼はしばらく焦点の定まらない目をしていたが、やがて微かに息を整えると、自分の傷を見て驚いたようだった。血が止まっていることに気づき、不審そうな顔をするが、すぐに体の痛みが勝ったのか苦悶の表情に変わる。

「あなたは……何者なんだ……そんな、短時間で止血できるなんて……」

「ただの……薬草を扱える村の女性です。でも、まだ安静にしていないと、傷が開いてしまいます。今は、言葉を交わすより休んでください」


 そう言われても、彼の眼差しには、ただの村娘とは思えない何かを感じ取った様子があった。王都で陰謀に巻き込まれた過去を持つエスメラルダは、彼の探るような視線に小さな不安を覚える。ここで余計なことは話さないほうがいいと判断し、とにかく彼を安全な場所へ運ばねばと思い直した。 


 そこへ、まるで運命の悪戯かのようにレオンが姿を現した。彼はエスメラルダを心配して後を追ってきてくれたらしい。森の奥まで来るのは気がかりだったようで、道すがら探し回っていたのだという。

「エスメラルダ、こんなところにいたのか! ……そっちの人は……大丈夫か?」

 一度に状況を把握しきれないでいるレオンに、彼女は手短に説明する。するとレオンは二つ返事で助け船を出してくれた。

「そいつは何より。しばらくうちの納屋にかくまってもいいし、村の人に見つかる前に手当てしてやろう。とにかく安全な場所に移さなきゃな」


 レオンの頼もしい申し出に、エスメラルダはほっと息をつく。こういう時にこそ、彼の実直な人柄が光る。迷いや疑いを差し挟むことなく、目の前の怪我人を助けようという一心で行動できるのが、彼の長所でもあった。かつての聖女として培った慈愛の心と通じるものを、エスメラルダは彼に感じる。


 二人がかりで何とか男を支え、森を出るまでにはかなりの時間を要した。途中で男が意識を失いかける場面もあり、そのたびにエスメラルダは祈りにも似た気持ちで彼の生命力を確かめた。王都を追放されて以来、彼女がこれほど必死に人を助けようとしたのは初めてだったかもしれない。かつては当たり前のようにやっていた“聖女の務め”に、今はどこか新鮮な緊張感を感じる。


 村の入口まで戻ると、幸い人通りは少なく、ひとまずレオンの家の納屋へ男を運び込んだ。村には簡単な医務室に相当する小屋もあるが、追放されたエスメラルダのことを含めて余計な噂が立たないよう、まずは人目につかない場所で休ませる方がいいと判断したのである。


 男は荒い呼吸を繰り返しながらも、どうにか落ち着きを取り戻しつつある。レオンが離れた隙に、エスメラルダはそっと手を男の腕へかざし、小さく祈りを口ずさむ。微かな光が滲み出るように男の体を包み込み、今度は少しだけ強くその光が輝いたように見えた。力が戻りつつあるのだろうか。それはエスメラルダ自身にもはっきりわからない。しかし、彼の苦しそうな顔から次第に安堵の表情が浮かんでくるのを見て、彼女の胸も静かに鼓動を刻む。


「ありがとう……」

 弱々しい声が、突然静寂を破る。男の意識はまだ朦朧としているが、エスメラルダを見上げながらそう呟いた。まるでその一言にすべての感情が込められているかのようで、彼女の心は不思議なほど温かくなる。

「ゆっくり休んでください。今はそれだけで十分です」

 そう答える彼女の瞳は、ほんの少しだけ潤んでいた。散々な目に遭っても、誰かを助けることができる――その事実が、今の彼女に小さな自信を取り戻させてくれている。


 こうして、王都での失意を抱えた“元聖女”エスメラルダと、謎めいた傷を負った旅人との出会いは、ひっそりとした村の納屋で幕を開けた。彼女はまだ、彼が何者なのかも知らない。自分が聖女であった過去を知られたら、どんな反応をされるのだろう――そんな不安も拭えない。しかし、彼女の救いの力に確かに感謝の念を示した瞳だけは、嘘偽りなく本物だった。


 新たに生まれたこの奇妙な縁が、エスメラルダの運命をどのように変えていくのか、彼女自身もまだ知る由もない。ただ、漆黒の闇に覆われていた道にかすかな光が灯ったような、そんな予感がしたのだった。



第三節:新たな出会い





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