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第4話  影から忍び寄る陰謀―

第四節:影から忍び寄る陰謀―

 レオンの納屋で保護した“謎の男”は、相変わらず意識がはっきりせず、ほとんど眠りについたままだった。エスメラルダが再三にわたり手当てと祈りを施したおかげか、止血はうまくいき、高熱も徐々に引いてはいるものの、彼の身体にはまだ大きな負担がかかっているらしく、目覚めてもすぐに意識を手放してしまう。彼女は毎日のように納屋へ通い、古い椅子に腰掛けては湿布を交換したり、薬草茶を口移しで飲ませたりと、献身的に介抱を続けていた。


 そのおかげで、謎の男の容態は少しずつ回復に向かっているようだ。レオンも農作業の合間を縫って、黙々と手伝ってくれる。納屋には家畜の臭いがうっすらと漂い、吹き抜ける風はひんやりと肌を撫でる。昼間は作業の音や鶏の鳴き声が聞こえてくるが、夜になると静寂に包まれ、彼の苦しげな呼吸だけが際立つ。そんな中で、エスメラルダはせめてもの安らぎを与えられるようにと、夜通し何度も布団の具合を直し、熱を測っては冷やしていた。


 ある日の夕暮れ、レオンの家から納屋へ向かおうとすると、外の空気がいつになく重く感じられた。遠くの空は厚い雲に覆われ、風の冷たさが頬を刺す。まるで天気が崩れる前触れのようにも思えるし、何か不穏な出来事が迫っている予感さえする。エスメラルダは一瞬足を止め、王都での嫌な記憶がよみがえってくるのを堪えながら首を振った。これ以上は過去の恐怖に縛られたくない。そう言い聞かせるように、自分の胸を軽く叩いて気持ちを奮い立たせる。


 納屋の扉を開けると、かすかに男の呻き声が聞こえてきた。相変わらず汗で髪が額に張り付き、目も焦点を結ばない。しかし、今朝までよりはいくらか反応がはっきりしている気がした。エスメラルダは安堵の表情を浮かべつつも、氷嚢を取り替えるための水を汲みに出ようと、もう一度納屋を出る。すると、外の空気に混じって、聞き覚えのない馬の嘶(いなな)きが聞こえた。おそらく村の馬ではない。少なくともこの辺りには、そんな高価な馬種を飼っている家はないはずだ。


(……旅人かしら? それとも商人……?)


 そう思いながら、エスメラルダはこっそりとレオンの家の物陰から表通りを覗いてみた。そこには見慣れない男が二人、重厚そうなマントを身にまとい、馬の手綱を引きながら村人に何かを尋ねている姿があった。異様に鋭い視線、そろいの装いはまるで王都の下級貴族か、あるいは軍の一員のような雰囲気を漂わせている。


 村人たちは、見知らぬ来訪者に少し戸惑っている様子だ。ここは人の往来が少ないため、余所者が来ればすぐに目立つ。彼らは何やら、若い娘について尋ねているようだった。エスメラルダは息を呑む。

(私のこと……? まさか、王都からの追手がもう来たの?)


 自分を追放した王都が、彼女の存在を完全に消し去ろうとする可能性は、十分に考えられた。今や“新たな聖女”として祭り上げられたカリーナが本当に聖女かどうかは疑わしい。もし「元聖女」であるエスメラルダが生きていて、いつか真実を暴かれるような事態になれば、その陰謀に加担した者たちにとっては都合が悪いはずだ。彼女は自然と背筋に冷たい汗が滲むのを感じた。


 その時、レオンの家の裏口から、勢いよく人影が現れた。レオンだ。彼もこの異様な空気を察して出てきたらしく、物陰に隠れているエスメラルダを一瞥して小声で言う。

「……あいつら、明らかに騎士か何かだ。エスメラルダ、お前のことを探してるのかもしれない。とにかく納屋に戻れ。目立つな」


 エスメラルダは頷くと、戸口の裏手を回り込んで納屋へ戻り、扉を閉めて息を殺す。心臓が早鐘を打ち、手がわずかに震えているのがわかった。脳裏には王都での光景が焼き付いて離れない。追放を宣告するアルヴィスの冷たい瞳、それに同調する貴族たちのあざけるような視線――あの悪夢が再び形を変えて襲ってきたのかもしれない。


 そのまましばらく待っていると、レオンが静かに納屋へ入ってくる。扉をそっと閉めてから、彼は低く声を潜めた。

「聞こえたか? 村の入り口で何か言ってたみたいだが……どうやら“王都から落ち延びた女”の情報を探っているらしい。名前までは言わなかったが、それがエスメラルダだとしても不思議じゃない」

「やっぱり……」

 彼女は青ざめた顔をする。これまで村人に対しても自分が追放された聖女だとは大っぴらに話していないが、その噂が広まるのは時間の問題だろう。もし彼らが“聖女エスメラルダ”の追放について詳しく知っているなら、この村に着くまでにその手掛かりを集めてきた可能性が高い。ほんの些細な目撃情報を辿ってやって来たとしても、いつか確実に彼女の存在へ行き着くはずだ。


「でも、どうして今さら追いかけてくるの……? 私なんて、もう聖女の地位も何も失ったのに」

 エスメラルダが苦しそうに呟くと、レオンは眉根を寄せた。

「さあな。お前がまだ何か“余計なこと”を知っていると思っているのかもしれない。とにかく、あいつらがお前を見つければ、ただじゃ済まないだろう」


 混乱しかける頭を必死で整理しながら、エスメラルダはほうけたまま横たわる“謎の男”に目をやった。この男は一体何者なのだろう? 森で倒れていた当初、その服装や持ち物から、どこかこの国の風習とは違う雰囲気を感じた。もし彼が隣国の者だとすれば、王都から追われる立場と何か関係があるのだろうか。そんな疑念さえ浮かんでくる。


 だが、今はそんなことを考えている余裕はない。エスメラルダは戸惑いと不安を抱きながらも、レオンに決意を込めた目を向けた。

「私、ここを出た方がいいかもしれない。もしあの人たちが本当に私を探しているなら、村に迷惑をかけたくないわ。みんなだって、いわれのない追及をされたら困るもの」


 彼女の言葉に、レオンは一瞬口を開きかけたが、すぐにぐっと堪えて首を振った。

「いや、それは早まるな。お前が逃げたら“やっぱり怪しい”って思われるだけだ。むしろ村を徹底的に調べ回る可能性がある。俺たち村人も下手をすれば罰せられかねないんだぞ」


 確かに、レオンの言うとおりだ。無闇に逃亡すれば状況を悪化させる恐れが高い。村人が事情を知らないまま、彼女をかくまった罪で厳しく問い詰められたり、罰金を科されたりする展開だってあり得る。下手をすれば、彼女を危険分子として扱う“噂”が広まり、人々の生活を脅かすかもしれない。そうなれば、結果的にエスメラルダ自身も行き場を失うだけだ。


「とにかく、少し様子を見よう。あいつらがどれほどしつこい連中なのか、何を目的に村を回っているのか……。確認してから動いたって遅くはない。大丈夫だ、エスメラルダ。俺も村のやつらも、お前をそんな簡単に見捨てはしない」

 レオンの力強い言葉に、エスメラルダは一瞬目を潤ませた。家族を失い、王都での地位も愛も奪われた彼女にとって、こうして誰かが自分を守ろうとしてくれるのは、あまりにも救いが大きい。かといって、それは彼女ひとりの負担を増やすことにもなる。だが彼のまっすぐな瞳を見ていると、やはり甘えるしかないのかもしれないと、胸の奥から温かい何かがこみ上げてくる。


 そこへ、不意に納屋の片隅から小さな声がした。

「……行かせない……」

 今の今まで眠り込んでいたはずの“謎の男”が、うわ言のように呟いている。エスメラルダとレオンが驚いて駆け寄ると、男は苦しげに眉を寄せながらも、かすかに目を開いていた。瞳はまだ焦点が定まっていないが、その一言だけは聞き取れた。


「……俺は……こんなところで……」

 男は途切れ途切れに言葉を発し、また意識を失いかける。まるで何かから逃れようとしているのか、それとも何かを守ろうとしているのか――エスメラルダには判断がつかない。だが、その声音からは強い意志や焦りのようなものが感じられた。


 嵐の前の静けさとはよく言ったものだ。村に入り込んだ怪しい訪問者、彼らが何を目論んでいるのかは分からないが、エスメラルダが追放された背景には、まだ解き明かされていない陰謀が渦巻いているように思える。もしそうなら、あの王都から離れた片田舎の村であっても、完全な安息は得られないのかもしれない。


 密やかな闇が迫りつつあることを感じつつも、エスメラルダは一つの決意を固めた。どんな困難が待ち受けていても、今度こそ自分の無実と誇りを守るために立ち上がるのだ――そうでなければ、追放されて故郷に戻ってきた意味など見いだせない。彼女のまなざしには、かすかながらも光が宿りはじめていた。


 遠くの空で雷鳴のような音が低く響いた。まるでこれから訪れる波乱の幕開けを告げる合図のように、重々しく空気を振るわせる。その音を聞きながら、レオンはエスメラルダの肩にそっと手を置き、囁くように言う。

「大丈夫。俺たちで乗り越えよう。……絶対にな」


 そして彼女も、震えそうになる唇をきゅっと引き結んだ。追放されてもなお、運命に抗う道を進まなければならない。その先には、きっと自分の力で掴むべき真実と、まだ見ぬ希望が待っているはずだ。




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