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エスメラルダが故郷の村へ追放されてから、幾度かの月夜が過ぎ去った。その間に、村には重苦しい空気が漂いはじめている。見知らぬ男たち――王都から派遣された騎士らしき者たちが、村のあちこちを探り回っているという噂は、日に日に広まっていた。村人の多くは「エスメラルダは戻ってきているのだろうか?」という疑念こそ抱いても、はっきりとしたことは何も口にしない。それはレオンの存在が大きいかもしれない。彼が「エスメラルダを見かけたことはない」とうまく取り繕ってくれているおかげで、今のところ村全体に余計な混乱が広がることは避けられている。
一方、レオンの納屋で手当てを受けていた“謎の男”は、奇跡的な回復力を見せていた。深い傷を負い、意識のない時間が長かったとは思えないほど、今ではある程度言葉を交わすことも可能だ。なにより、不思議なことにエスメラルダが触れると傷の痛みが和らぐようで、彼は感謝と警戒が入り混じった複雑な瞳を彼女に向ける。そうして徐々に回復へ向かう過程で、彼はいくつかの断片的な言葉を口にするようになった。
> 「ヴァレ……ンティン……」
「……隣国……証拠……カリーナ……」
まだ完全には意識がはっきりしていない様子だが、聞き慣れない名前や単語が漏れるたびに、エスメラルダの胸には小さな波紋が生まれる。彼女の過去を知らないはずの男が、まるで“追放の原因”とも深く関わりがあるような言葉を発するのは偶然ではない気がするからだ。もしかすると、彼が倒れていた森まで来た理由は、“新たな聖女”カリーナの存在や、エスメラルダを陥れた何者かの陰謀に関係しているのかもしれない。それを確かめたいという衝動と、彼が回復するまで無理をさせたくないという思いが、彼女の中でせめぎ合っていた。
ある夜、エスメラルダは昼間の疲れを癒やすために自宅で横になっていたが、窓から差し込む月明かりと遠くの馬の嘶(いなな)きが妙に胸騒ぎを伴って迫ってくるのを感じた。眠れずにいると、唐突にドアがノックされる。
「エスメラルダ、いるか?」
レオンの声だ。彼女は掛け布を跳ねのけ、慌てて扉を開ける。そこには深刻そうな表情を浮かべたレオンが立っていた。
「どうしたの、こんな夜更けに……」
「すまない、寝ているところを。実は……あの男がようやくまともに話せるようになった。それでお前のことを呼んでるんだ」
「私を……?」
エスメラルダは自分の胸に手を当て、心臓の鼓動が早まるのを感じた。男は回復の兆しを見せてはいたが、まだ長く会話を続けられるほどの体力があるようには見えなかった。それなのに、なぜこの夜更けに呼ばれているのか――。
レオンに案内されて納屋へ向かうと、そこには月明かりを受けながら、男がきつい痛みに耐えているように息を荒くして横たわっていた。だが、その双眸は不思議なほど澄んでいる。彼はエスメラルダの姿を見るなり、弱々しく微笑んだ。
「……助けてくれて……ありがとう。礼を……言いたかった」
確かに彼の声には消え入りそうな弱さがある。それでも、しっかりと彼女を見据えているその視線に、エスメラルダは圧倒されそうになる。
「あなたは、どこから来たの?」
エスメラルダが恐る恐る尋ねると、男は少し首を振り、口を開いた。
「名は……ヴァレンティン。……隣国の、第二王子……と言えば、通りはいいのかもしれない」
「隣国の……王子、ですって……?」
レオンが驚きの声を上げるのも無理はない。村の納屋で看病していた相手が、まさか他国の王子とは。身元が割れれば、国同士の外交問題にも発展しかねない事態だ。
しかしヴァレンティンは構わず続ける。
「俺は……この国に、ある調査のために来た。そして、森で追手と戦って……そのまま、力尽きて倒れたらしい。……お前たちに拾われなければ、たぶんもう助からなかっただろう。……本当に、感謝している」
まだ身体の自由がきかないのか、ヴァレンティンは苦しそうにしながらも懸命に言葉を絞り出している。エスメラルダはその姿を見て、かつて自分が王都で行っていた“聖女の務め”を思い出した。傷病人を癒やし、苦しむ者の声に耳を傾けることは、自分にとって当たり前だったはず。でも今は追放され、その身分は失っている。それでも、彼を助けたいという気持ちに嘘はない。
「追手……というのは、王都の者だったのですか?」
エスメラルダが静かに尋ねると、ヴァレンティンは弱々しく頷く。
「そうだ。俺が持っている“ある証拠”を、連中は奪おうとしていた。……これだ」
ヴァレンティンはそばの枕の下から、血の滲んだ小さな袋を取り出す。その中には複数の書類と印章、そして何かの断片らしきものが入っている。手早く目を通したレオンが怪訝そうな顔をする。書類には王太子アルヴィスの名前と、聖女カリーナの名が幾度となく記されているらしい。しかも、文章は王都の重臣たちが取り交わした密約を仄めかすような内容になっている。
「これは……いったい……?」
「“カリーナが本物の聖女だ”と公式に認めさせるための陰謀、それに関わった者たちの署名や印がある。……おそらく、お前たちの国の上層部がぐるになって仕組んだことだ。だが、そこにはまだ隠された事実がある。このまま放っておけば、お前たちの国は内部から腐り落ちていく可能性が高い。……俺は、それを止めたかった」
言葉こそ断片的ではあるが、ヴァレンティンの語気には強い意志が感じられた。隣国の王子である彼が、なぜこの国の陰謀を暴こうとするのか。エスメラルダは、その問いを口にしようとしたが、何かしら事情があることは明白だと感じ、ひとまず呑み込む。
一方で、書類に出てくる名前――アルヴィス、カリーナ……。それはエスメラルダが聖女の地位を剥奪される際、目の前で悪意を向けてきた人々だった。その連中が手を組んで進めている陰謀があるというのなら、その裏にはきっと、エスメラルダを追放した理由も含まれているに違いない。
「私が追放されたのも……この“陰謀”とやらに関係しているんですね? きっと、カリーナを聖女に仕立て上げるために、私を排除したかったのでしょう」
思わずそう呟いたエスメラルダの瞳には、冷たい悔しさが滲んでいた。王都での悲惨な思い出が蘇るたび、彼女は胸の奥底に沈んでいる怒りと悲しみを突き上げられる感覚を覚える。
ヴァレンティンはわずかに首をかしげ、苦しげに呼吸を整えながら、言葉を探すように声を振り絞った。
「……実は、俺はこの国の……“聖女制度”そのものに興味を持っていた。隣国でも、似たような奇跡や伝承は多く伝えられているが、ここまで権威的に扱われる例は少ない。だからこそ、王都に潜入して調べを進めるうちに……カリーナや貴族たちの怪しい動きを掴んだんだ。……そして、それを暴こうとした矢先に、あの襲撃を受けた」
そこまで語ると、ヴァレンティンは力尽きたように目を閉じ、かすかに唇を噛む。彼にとっては、どこまで話してよいのかも定かではないだろうし、そもそも体力自体が限界に近いのかもしれない。しかし、彼が示した書類の数々が真実を語っていることは、レオンにもエスメラルダにも感じ取れた。実際、追手がわざわざ森で奇襲を仕掛けてまで奪おうとした代物なのだ。そこには、この国を揺るがすほどの重大な秘密が隠されているはずだ。
そんな中、エスメラルダの脳裏にひとつの疑問が浮かぶ。
「どうして、そこまでして私を助けようと……? 私が陥れられた陰謀まで調べてくれていたということは、あなたは私が追放された経緯を知っているのでしょうか」
彼女がそう問うと、ヴァレンティンは辛うじて首を縦に振った。
「……ああ。聖女が追放された――そんな事態は、隣国でも大きな話題になった。それに、もしお前が本当に“真の聖女”であるのなら、この国だけの問題にとどまらない。……国同士の協力のためにも、できることなら、お前の無実を証明してやりたかった」
その瞬間、エスメラルダの胸中には複雑な思いが交錯する。自分一人では証明できなかった無実を、遠い隣国の王子がわざわざ証拠を掴もうと尽力してくれたというのだ。感謝の念もあるし、驚きもある。何より“真の聖女”という言葉を、彼が当然のように使っていることに、どう反応すればいいのか分からない。
だが、その深い戸惑いの一方で、エスメラルダの中にかすかな光が灯った。かつて王都で「偽物扱い」され、一夜にしてすべてを失った自分。それでも、自分を必要としてくれる人や、真実を信じてくれる人がここにいるかもしれない。そんな思いが、彼女の体をじんわりと温めてくれるようだった。
レオンが意を決したように、そっと口を開く。
「この書類が本物だとしたら、エスメラルダの無実を証明する大きな手がかりになるかもしれない。だが、どうやってこの村から王都まで運ぶ? 騎士の連中が村の周りをうろついてるって話だし、下手に動けばすぐに見つかる」
その問いはもっともだ。ヴァレンティンが抱えていた“証拠”を活用するには、王都でしか得られない追加の情報や、あるいは公の場での訴えが必要になる。しかし、今のエスメラルダは追放処分を受けた身。正面切って王城に乗り込むなど不可能に近い。さらに、外には追手が潜んでおり、迂闊に動けば命を狙われかねない。難題ばかりが山積みだ。
そのとき、エスメラルダははっきりとした決意の眼差しを見せる。
「それでも……私は自分の手で無実を証明したい。もともと、追放されてからはずっと“どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのか”と嘆いてばかりだった。でも、ここで立ち止まっていても何も変わらない。あの頃の私みたいに、何も知らないまま権力に翻弄される人が増えてしまうだけかもしれない。……だから私、動くわ。ヴァレンティン、あなたと一緒に“陰謀”の正体を暴きたい」
その言葉に、ヴァレンティンは沈みがちな目をわずかに見開いた。彼自身、隣国の王子としてこの国の闇を暴こうとしたのは事実だが、今は思うように体を動かせない。兵の援護もなく、味方と呼べるのはレオンやエスメラルダと、あとはこの村の善良な人々くらい。それでも、エスメラルダの瞳に宿った強い意思が、不思議と彼の心を奮い立たせる。
レオンは二人のやり取りを見守りながら、少し複雑そうな顔を浮かべる。幼馴染として守りたかった相手が、再び危険な場所へ足を踏み入れようとしているからだ。だが、彼もまたエスメラルダの性格をよく知っている。ひとたび決意した以上、誰が何を言っても、彼女が退くことはないだろう。
「……俺は、村を守りたいと思っている。けど、お前たちを見捨てるつもりはない。この土地で休む必要があるなら、しっかり整えよう。追手の動きは俺が村人に協力を仰いで探ってみる。だから、お前たちも無理はするな」
レオンの不器用な愛情を感じ取りながら、エスメラルダは小さく微笑んだ。
こうして、追放された“元聖女”と隣国の王子ヴァレンティンは、思いがけず手を取り合う形となった。王都での陰謀の証拠は、いま彼らの手元にある。それをどう活かし、どのように真実を証明するのか――その道のりはきっと平坦ではない。けれどエスメラルダは、この行動が単なる復讐や感情の発露ではなく、“過去を取り戻すため”でも“単に聖女の地位を欲するため”でもなく、正真正銘“人を守る”ための闘いとなると信じたかった。
夜更けの納屋に、かすかな月明かりが差し込む。その柔らかな光の中で、ヴァレンティンの呼吸は以前よりも幾分落ち着いているように見える。明日になれば、少しは体力も戻ってくるかもしれない。そうなれば本格的に動き出す準備を整えられるはずだ。
追放という苦しみの底で、エスメラルダは思わず笑みを浮かべる。今の彼女の目には、たとえわずかでも“希望”という光が見え始めている。自分がかつて聖女として、人々を救いたいと願ったあの日の純粋な気持ちを、この村で再び取り戻せるかもしれない。いや、もう失うものは何もないのだ。だからこそ、踏み出す勇気を得られたのだろう。
そうして、夜が深まる中、彼女はヴァレンティンの手の中にある書類をそっと撫でた。封印を解かれることを待っている秘密が、そこには確かに眠っている。暗い雲が晴れて、いつかこの国に真実の光が降り注ぐときが来るのか――まだ見ぬ夜明けを信じながら、エスメラルダは確かに胸を高鳴らせていた。