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第6話 成長する絆

 夜の闇が明け、やわらかな朝日が村を照らし始めるころ。レオンの家の納屋では、隣国の王子ヴァレンティンがゆっくりと体を起こしていた。深く刻まれた疲労はまだ抜けきってはいないが、昨夜よりは明らかに顔色がよくなっている。彼の呼吸が落ち着きを取り戻しているのを見て、エスメラルダもほっと安堵の息をついた。


「少しずつ動けるようになってきたな、ヴァレンティン。無理はするなよ」

 レオンが声をかけると、ヴァレンティンはわずかに首を縦に振って応じる。もともと負傷が深刻だった割には驚くほど回復が早いが、それはエスメラルダの“祈り”の力が大きく影響しているのだろう。追放されてから彼女自身が失ったと思い込んでいた力は、まだ細々と息づいていた。半ば本能的に――人の苦痛を見れば手を差し伸べずにはいられない、という彼女の優しい性格こそが、その力を呼び覚ましているかのようだ。


 一方、ヴァレンティンも、自分の体に起きている不思議な癒やしの感覚に気づいていた。彼はうっすらと目を開き、まるでエスメラルダの力を確かめるように彼女へ視線を向ける。

「……お前のその力、やはり尋常ではないな。『聖女』と呼ばれていたのも納得できる」

 そう呟いたヴァレンティンの声には、素直な畏敬の念が感じられた。


 その言葉を受けたエスメラルダは、一瞬言葉に詰まる。王都から追放された今、自分を“聖女”と呼ばれることには抵抗があったのだ。けれど、彼のまっすぐなまなざしに嘘や打算は見当たらない。彼女は戸惑いながらも、少しだけ微笑みを返す。

「私の力は……まだ完全じゃない気がします。もともとは、もっと多くの人を癒やせると信じていたんですけど……追放されてからは、うまく力が引き出せないんです」

 それは決して弱音ではなく、今の自分を正直に表す言葉だった。かつて聖女として国中の尊敬を集め、奇跡を求められた日々。それが一夜にして崩壊した今、彼女には「本当に自分にそんな偉大な力があったのだろうか」という疑いさえある。だからこそ、彼女は自分の力がどれほど残っているのか、試しながら手探りで進まなければならない。


 その後、レオンは村の仲間から聞き集めた情報をヴァレンティンに伝え始めた。どうやら村の入り口付近や主要な道では、王都から来たらしい騎士たちが張り込みを強化しているようだ。彼らは“怪しい旅人や追放された女”を探している、と公言しているという。

「俺が見たところ、あいつらは村人を脅すような真似まではしてない。だがもし“それらしい女”を見つければ、すぐに拘束しそうな雰囲気がある。油断はできねえよ」

 レオンの厳しい表情が、そのまま状況の険しさを物語っていた。


 エスメラルダは下唇を軽く噛む。自分を探す追手たちは、ここまで根気強く村を嗅ぎ回っている。放っておけば、いずれこの納屋の存在を怪しむ者が出てくるかもしれない。レオンや村人がどれほど庇ってくれようと、いつまでも隠れ続けるわけにはいかないのだ。王都で陰謀を暴くために動かなければならない――それは彼女も、昨夜のやり取りで腹をくくったはずだ。だが、いざ動こうとすると、ほんの少しの不安や恐怖が湧き上がってくる。自分が再び理不尽な目に遭うだけでなく、この村の人々まで巻き込むのではないかという思いが、彼女の歩みを鈍らせていた。


 そんな彼女の心を見透かすかのように、ヴァレンティンが声をかける。

「エスメラルダ……もしよければ、今夜少しだけ時間をくれないか。俺もまだ本調子ではないが、外に出てこの村を見たい。今のこの国を、もっと知っておきたいんだ」

 まさか、こんな状態で外を歩くというのかと、レオンは難しい顔をするが、ヴァレンティンの眼差しはまるで“自分は少しでも前に進まないといけない”と言わんばかりの決意に満ちている。エスメラルダも、彼が体を壊すことを恐れながらも、同時にその意志の強さに突き動かされるものを感じた。


 その日の夜、月が上るのを待ってから、エスメラルダはヴァレンティンを支える形でそっとレオンの家を抜け出した。納屋に隠れている彼を夜のうちに動かすことは危険だと思ったが、逆に夜闇に紛れた方が騎士たちの目を逃れやすい。村の外れは街灯が少なく、森との境界にはほとんど人目がない。


「無理しないでくださいね。やはり、まだ完治してはいないんですから」

 エスメラルダがそう声をかけると、ヴァレンティンは笑みを浮かべて首を振る。

「大丈夫だ。こうして立って歩いていられるのも、ほとんどお前の力のおかげだからな……。感謝してる」


 その一言が、彼女の胸に温かな灯火をともす。長く失われていた“人を癒やす歓び”を、今、ほんの少しだけ取り戻しているのかもしれない。賑やかな王都で聖女と呼ばれていたころとは違い、ここには見守ってくれる大勢の人々はいない。けれど、誰かひとりに「ありがとう」と言われるだけで救われる思いがある――エスメラルダはそんな気持ちを噛みしめる。


 二人は夜の草原を抜け、ひっそりとした森の入り口まで歩を進めた。月明かりに照らされて揺れる草花、遠くから聞こえてくる虫の声。王都とは別の、素朴で静かな息吹がそこにはあった。エスメラルダにとっては、幼い頃に遊んでいた思い出の風景でもある。

「ここ、すごく落ち着く場所なんです。追放されて帰ってきたときは、ただ懐かしいだけだったけど……今は、守りたいって思うんです。この森も、村のみんなも……」

 彼女の言葉に、ヴァレンティンはまるで感慨深げに周囲を見回した。


「隣国でも、こんなふうに草木が豊かな地方はある。だが、俺が生まれ育った都はもっと乾燥していて、森が少ないんだ。だから、お前の故郷が羨ましい……とても穏やかで、美しい」

 そう言って微笑むヴァレンティンの顔には、王子という立場を感じさせない自然体の魅力がある。敵の追手に狙われている状況にもかかわらず、こうして素直に喜びや感動を表現できるのは、彼がこれまでどんな人生を歩んできたからなのだろうか。エスメラルダは少しだけ興味をそそられた。


 しばらくすると、ヴァレンティンは腰掛けられそうな切り株を見つけ、そこで休むことを提案した。怪我の影響もあって、長時間立っているのはやはり辛いらしい。エスメラルダも傍らに並んで座り込むと、夜風がさわやかに肌を撫でる感触が心地よかった。しんと静まり返った森の奥からは、小動物の気配も感じられる。


「……エスメラルダ。お前は、どうして聖女になったんだ?」

 ふいに、ヴァレンティンがそんな問いを投げかけてきた。彼女は思わず目を見開き、過去を思い出す。

「私、子どものころから病弱な人を見ると、放っておけなかったんです。両親も早くに亡くなってしまって、その時の後悔……何もできなかった悔しさがずっと胸にあった。それで私と同じように苦しんでいる人を見たら、せめて少しでも助けたくて。そうしたら、王都の神殿にこの力を認められて、“聖女”として迎えられたんです」


 そこには、確かに純粋な気持ちがあった。最初は華やかな地位や名声を求めていたわけでもなく、ただ人を助けたい――それだけの思いだった。けれど、人間の欲望や権力が絡んだ聖女制度の中で、いつの間にか大勢の期待を背負わされ、彼女の“想い”は別の形に捩じ曲げられようとしていた。結果的に、陰謀に巻き込まれ、追放されるに至ったのだ。


「でも、私にはまだわからないんです。どうしてアルヴィスは私を信じてくれなかったのか。陰謀があったとしても、あんな形で切り捨てられるなんて……」

 言葉の端々に滲む悲しみは、まだ癒えていない。ヴァレンティンは小さく息を飲み、エスメラルダの思いを察するように天を仰いだ。


「俺はアルヴィス王太子に会ったことはない。だが、一国の王太子という立場なら、重圧と責任感も相当なものだ。人の本質というのは、そういう極限の状況でこそ露わになる。……たとえお前が大切な存在だったとしても、彼が“王国を守る”という名目で別の選択をしたのなら、そこに愛を優先する余地はなかったのかもしれない」

 ヴァレンティンの言葉には、自分も王子として育ってきたからこそ理解しうる重みがある。自分の感情や大切な人を守りたい一心だけでは、国を動かす立場にはなれない。大きな権力は、多くの人間を巻き込む。それが善なる力になるか、悪に傾くかは、結局のところ使い手次第なのだろう。


 エスメラルダはしばらく沈黙したまま俯いていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。

「私、今でもアルヴィスを恨んでいるかもしれません。でも、同時にわかるんです。もし私がもっと周りを見て、きちんと証拠を掴んでいれば……自分の潔白を示すだけの力があれば……こんな追放劇にはならなかったんじゃないかって」

 後悔は、どうしても拭えないものだ。だが、その後悔こそが、今のエスメラルダを奮い立たせる原動力でもある。


「……もう一度、立ち向かうんですね」

 ヴァレンティンがまっすぐ彼女を見つめる。声に宿るのは、同じ意志を分かち合う仲間を見つけた喜びのようだった。エスメラルダは小さく頷く。

「はい。私は王都へ戻らないわけにはいかない。たとえどんな目に遭っても、今度こそ自分で真実を掴みたいから。私の力も、あなたの“証拠”も、全部無駄にはしたくないんです」


 彼らは見つめ合い、互いの思いを確認する。その眼差しの奥には、数日前まで想像もしなかった“共闘”という絆が芽生え始めていた。ヴァレンティンは隣国の王子として、この国の闇を暴きたいという使命感を抱いている。一方のエスメラルダは、失った名誉ではなく“本来の自分”を取り戻すために戦おうとしている。二人の目的は表面的には異なるが、その核となる思いは“何かを救いたい”という点で重なっているのだ。


 しばらくして、涼しい夜気が彼らの体を包み込む。ヴァレンティンの身体もまだ本調子には程遠い。エスメラルダは、もう少し休む必要があると彼を説得し、ゆっくりと家まで戻ることにした。切り株から立ち上がるとき、彼はほんの一瞬だけバランスを崩し、エスメラルダの肩に寄りかかる。

「……すまない。助かる」

 軽く笑みを返しながら、エスメラルダは彼の腕を支える。二人が寄り添うようにして歩き出す姿は、ほんの少しだけ恋人たちのようでもあった。だが、お互いに自覚する余裕はまだない。戦いを前にした心の緊張感と、まだ傷を負ったばかりの境遇が、それ以上の気持ちを押し込めているように思えた。


 その夜、納屋へ戻った後も、二人は短い会話を交わしてから眠りについた。エスメラルダは自宅に帰る途中、ふとレオンの家の窓から灯りが漏れているのを見つける。おそらく、レオンも心配で眠れずに待っていたのだろう。それを思うと胸が少し痛んだ。自分が引き寄せている危険を、レオンや村の人々に背負わせてしまっている――その申し訳なさが募る。けれど、彼女には立ち止まることができないのだ。


 翌朝、村の空は快晴だった。前日の夜、森へ出かけて得たわずかな自信が、エスメラルダを少しだけ軽くする。ヴァレンティンも「今日は体を慣らしがてら、少しでも動きたい」と口にし始めた。少し先では、追手の騎士たちがまだ村周辺にいるとのことだが、エスメラルダは彼と共に証拠を整理し、動き出す準備を進める決意を新たにする。


 こうして“元聖女”エスメラルダと隣国の王子ヴァレンティンは、お互いを必要とし合う仲間としての絆を深めていくのだった。互いの痛みを知り、互いの目的を尊重し合いながら、少しずつ前へ進む二人。まだ疑惑や危険は絶えず、不安の雲は晴れないものの、その胸に芽生えた光は確かに輝きを増しつつある。王都を巡る陰謀と、追放という傷跡を抱えながらも、彼らは新たな使命に向けて共に歩み始めるのだ。




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