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第7話 聖女としての覚醒

 澄み渡る青空の下、村にはさわやかな風が吹いていた。こんな日こそ農作業日和なのだが、どこか空気が慌ただしい。というのも、村の周囲を警戒している騎士たちが日に日に数を増やし、往来を厳しくチェックしているという噂が広まっていたからだ。エスメラルダはレオンの家に身を潜めながら、いつまでもこのままではいけないと焦りを感じていた。


 隣国の王子・ヴァレンティンは怪我の回復が順調で、日中は納屋の奥で証拠書類の整理や情報交換を行い、夕方以降は鍛錬を兼ねて少し外を歩いて体を動かしている。いずれ王都へ向かわねばならない以上、体力を取り戻すのは急務だった。エスメラルダもまた、「聖女の力」をどううまく制御すればいいのか、あれこれと試行錯誤を繰り返している。追放されてから自信を失ったとはいえ、負傷したヴァレンティンを癒やせた事実が、彼女に小さな希望を与えていた。


 そんなある日のこと――午後も深まった頃、村の中央広場から悲鳴にも似た声が聞こえた。エスメラルダは家の窓から外を覗き込み、レオンも慌てて様子をうかがう。すると、遠くに見える人々の集まりの中で、誰かが倒れ込んでいるらしい。慌ただしく人だかりができているのがわかった。


「大丈夫か、何があったんだ……?」

 レオンが呟き、彼はすぐに外へ駆け出そうとする。だが、エスメラルダは一瞬躊躇した。この村に潜伏している自分が人混みに出てしまえば、騎士たちの目に留まるかもしれない。しかし、苦しんでいる人がいるのなら放っておけるはずもない。彼女はわずかな逡巡の末、決意を固めるとレオンと共に家を飛び出した。


 広場に近づくにつれ、倒れているのは村の少年だという声が聞こえてきた。病気持ちで虚弱体質だった彼は、以前からエスメラルダに薬草のことで相談してくれていた子でもある。すぐにでも手を打たなければ、危険な状態に陥りそうだ。人垣をかき分けて中へ進むと、少年は顔色を青くし、喉を押さえたまま呼吸がうまくできない様子だった。


「誰か、助けてくれ……!」

 母親らしき女性が泣きそうな声を上げ、周囲の者たちもどうすることもできずに立ち尽くしている。村には専門の医師がいるわけでもなく、応急処置すらままならない。以前なら“聖女エスメラルダ”に救いを求める声が真っ先に上がっただろう。だが、今や彼女が追放された事実は、王都からの噂として村人の耳にもそれとなく届いている。誰もが気まずそうに視線を落としているのは、「本当に助けを求めてもいいのか?」という戸惑いからかもしれない。


「エスメラルダ……!」

 少年の母親が彼女に気づいたのか、はっと目を見開いた。周囲の人々も次々とエスメラルダに注目する。追放された聖女がなぜここにいるのか、彼女が本当にまだ“力”を持っているのか――疑問や戸惑いが濃厚な空気を作り出す。だが、当のエスメラルダはそんな視線を構わず、少年のそばに膝をついて抱き起こした。


「大丈夫、落ち着いて。呼吸を合わせましょう」

 彼女の柔らかな声が響くと、少年は泣きそうな表情のまま、わずかに瞳を潤ませた。必死に息をしようとしているが、胸を押さえて苦しみが増している様子がはっきりわかる。エスメラルダは咄嗟に手を少年の背にあて、かつて王都の神殿で習った呼吸を整える術を思い出しながら、低く祈りの言葉を口にしていった。


 すると、彼女の手のひらが微かに温かい光を帯び始める。以前、ヴァレンティンを治療したときよりも、もう少しはっきりとした輝きが見える。息詰まるような沈黙の中、村人たちは驚いたように息をのむ。少年の苦しげな咳が少しずつ和らぎ、肩の動きが落ち着いてきたのだ。


「……エスメラルダ、まさか……」

「すごい、本当に……!」


 ざわめきが広場を満たす。騎士たちはというと、遠巻きにこの光景を見つめながらひそひそと何かを話し合っているようだ。彼らが“聖女の奇跡”を目にするのは初めてなのか、その反応はあからさまに戸惑いを隠せずにいた。確かに追放された聖女が村で当たり前のように力を使うなど、想定外の出来事なのだろう。


 やがて、少年の体を包んだ光がゆっくりと消えていく。同時に、少年は深い呼吸を取り戻し、苦しげだった表情がやや安堵の色を帯びるようになった。母親は涙ぐみながら、何度も「ありがとう」を繰り返す。少年がはっきりと意識を取り戻す姿は、まるで奇跡そのものだ。集まっていた村人たちも徐々に嬉しそうな笑みを浮かべ、中には手を合わせて拝む者すら現れた。


 一連の様子を見届けたエスメラルダは、少年の頭をそっと撫で、安心させるような優しい笑みを向ける。そして、「ひとまず涼しい場所に運んで、水分を摂らせてあげてください」と母親に声をかけた。村の男衆が協力して少年を支え、彼を家へ運んでいく。彼女はその場に残される形となり、ほっとしたのか、思わず地面に手をついて深呼吸をした。かつて当たり前のようにやっていた癒やしの奇跡だが、今の彼女にとっては――いや、村人たちにとっても――大きな出来事に違いない。


 その瞬間、何者かの足音がエスメラルダの背後に迫った。冷やりとした気配が背筋を撫でる。振り返ると、そこには重厚な鎧を身につけた騎士らしき男が立っていた。王都の紋章が刻まれた兜を小脇に抱え、軍靴で地面を踏みしめる彼の姿は、明らかに権力を帯びた高位の存在を示している。

「お前……その力は何だ? まさか、本当に“追放された聖女”なのか?」

 低い声でそう問いかけると同時に、騎士の周囲にいた数人の従者も身構える。エスメラルダの顔をまじまじと見つめ、明らかに不審者を見る目をしていた。


 思わぬ事態に周囲の村人たちも息を呑む。エスメラルダの正体を知らなかった者はもちろん、噂をうっすらと聞いていた者も「まさか本当に……」と困惑の色を示す。レオンが急いでエスメラルダのそばへ駆け寄り、なんとか間に割って入る。

「こ、こいつはただの村の娘です。少年の具合が悪そうだったから助けただけで……」

 取り繕うように言うが、騎士の冷徹な眼差しはまるで氷のように鋭い。彼はレオンの言葉を一蹴するかのように口を開いた。

「この国の聖女は、先の儀式により“カリーナ様”であると公式に認められた。追放されたエスメラルダなどという女には、もう聖女を名乗る資格も権利もない。――そのはずが、今の奇跡は何だ? 説明してもらおうか」


 じりじりと詰め寄る騎士たちの姿に、村人たちは恐怖を感じ、後ずさりしてしまう。少年を助けてくれた恩人が、今度は危険な存在として追及されようとしている――あまりにも理不尽な光景だ。しかし、王都から派遣された人間に逆らえば、村全体がどんな処罰を受けるかわからない。だれもが声を上げられず、息をこらしたまま凍り付いている。


 エスメラルダの心臓は激しく鼓動していた。逃げ出したい気持ちもあるが、ここで背を向けてしまえば村人たちが疑いの目を向けられるかもしれない。ならば、何かを言わなければならない――そう思うが、恐怖から声が出ない。記憶に蘇るのは、あの玉座の間で浴びせられた蔑みや疑念の目。追放されるときの怒号。アルヴィス王太子すら自分を信じず突き放した場面がフラッシュバックする。


(……だけど、それでも私は――)


 苦しむ人を前にして、そのまま立ち去ることはできなかった。そうして手を伸ばしたからこそ、少年は助かった。自分が助けたいと思った相手を救った。それが“聖女”と呼ばれようが呼ばれまいが、嘘の力などではない。エスメラルダはそう自分に言い聞かせ、わずかに震える唇を噛みしめる。そして騎士の鋭い視線に耐えながら、かすれた声で答えようとした――そのときだった。


「その質問に答えるのは、彼女だけの役目じゃないだろう」

 低く落ち着いた声が割って入る。すべてが静まり返った空間を割るようにして、納屋から出てきたヴァレンティンが姿を見せたのだ。痛みのせいか、足取りはまだおぼつかない。けれども、その目ははっきりと騎士たちを見据えている。

「あなた方が思うように、彼女は“公式には”追放されたかもしれない。だが、俺が見てきたのは、確かに人を救う力を持ったエスメラルダの姿だ。……その力が本物である以上、彼女を貶めるような理不尽な仕打ちは、いずれ必ず大きな歪みを生むだろう」


 騎士たちは、一見ただの旅人のように見えるヴァレンティンを訝しげに見やる。彼が何者なのか知る由もないだろうが、その物腰や言葉の端々にただならぬ威厳が漂っているのは明らかだ。エスメラルダは、思いがけず助け舟を出してくれた彼の姿に安堵する。しかし同時に、彼が正体を知られてしまうのではないかという不安も拭えない。


「……貴様は何者だ?」

 騎士の一人が警戒を露わに問いただすが、ヴァレンティンは答えずに口元に微かな笑みを宿しただけだ。

「すぐにわかることさ。だが、今はこの村の人々を安心させてやってくれないか。子どもが助かったのは紛れもない事実だ。彼女が“偽りの聖女”であれば、あのような奇跡は起こせないだろう」


 騎士たちはしばし言葉を失い、互いに視線を交わしている。上からの命令とはいえ、ここで少年を救ったエスメラルダを連行するのは、村人の反発を買うリスクが高い。村を完全に敵に回せば、余計な混乱が広がるだけだ。騎士の長らしき男は渋々とした表情で周囲を見回し、鼻を鳴らすように「ふん」と言い捨てると、部下に退却を命じた。


 彼らが去っていくと、広場にいた村人たちは大きく息を吐き、肩の力を抜く。エスメラルダはその場に膝をつき、安堵と疲労感に襲われながらも、しっかりと生きる少年の姿を思い出していた。ああ、私にはまだ人を救う力があるんだ――そう実感できた瞬間でもあった。


 村人の一人がエスメラルダに近づき、おずおずと頭を下げる。

「今まで……私たち、あなたが追放されたって聞いて、どう接していいかわからなかったんです。だけど……ありがとう。本当にありがとう」

 その言葉は、たった一言とはいえ、エスメラルダの胸を熱くする。自分が“真の聖女”かどうかは今は関係ない。ただ、助けを求める人の力になれた。それだけで彼女は、神殿にいた頃の自分を取り戻したような――いや、あの頃よりももっと自由で、自分の意思で行動できる存在になれたような感覚を覚えていた。


 そんな彼女に、ヴァレンティンがそっと手を差し伸べる。まだ痛む体を押して駆けつけてくれたのだろう、顔色は冴えないが、その瞳には優しい光が宿っている。

「お前の力は本物だ。あの少年を救った。それだけは疑いようがない。それこそが、お前がずっと探していた証じゃないのか?」


 エスメラルダは小さく笑みを返す。追放という過去に縛られながらも、人々を救いたいという思いは死んではいなかった。ここにいる誰かのために、そしてこの国で苦しむ人々のために――自分はまた前に進んでいける。その思いが、今、胸の奥で確かな希望へと変わっているのを感じるのだ。


 しかし、すべてが解決したわけではない。彼女の奇跡を目の当たりにした騎士たちは、きっと王都の上層部に何らかの報告をするだろう。カリーナと貴族たちが絡む陰謀が明るみに出るのを恐れて、彼女を再び陥れようと策を巡らせるに違いない。そもそも、王太子アルヴィスがこの真実をどのように受け止めるのかは未知数だ。

 だからこそ、エスメラルダは逃げずに立ち向かうことを選ぶ。自分がもはや“聖女”と呼ばれなくても、誰かを救う力があり、そして共に支え合う仲間がいる。ヴァレンティンやレオン、それに村の人々。彼らの力を借りながら、陰謀を暴き、真実を示すための旅が、もうすぐ始まろうとしているのだ。


 “追放された聖女”ではなく、自らの意思で“人を救う存在”として。エスメラルダの心に、かつてないほど強い決意の炎が燃え上がろうとしていた。




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