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第8話 王都への帰還を決意

 少年を助けた“奇跡”は、村の人々の心を揺り動かした。それまで追放された元聖女という噂もあり、エスメラルダを遠巻きにしていた者たちも、「あの力は本物だ」と素直に称賛しはじめたのだ。子どもの命を救うというわかりやすい功績は、彼女への敬意や感謝を呼び戻すのに十分だった。もっとも、エスメラルダ本人は再び「聖女様!」と呼びかけられることに複雑な感情を抱えていたが、それでも受け入れてくれる人々の存在に胸を温かくさせられる。


 一方で、王都から派遣された騎士たちは少年救出の現場を目撃したことで、より一層厳しい視線をエスメラルダへ向けるようになったらしい。さらに、彼らの隊長格と思しき男が一時的に村を離れたとの情報も飛び交っている。おそらく王都へ報告に戻ったのだろう、と村人たちの間では噂になっていた。追放された“はず”の聖女が、いまだに驚くべき力を行使している――その事実は、王宮やカリーナと結託した貴族たちを大いに刺激するに違いない。


 そんな状況が続く中、エスメラルダは自分の進むべき道を模索していた。村人からの敬意と、王都からの容赦ない追及。そのはざまで、果たして自分はどこまで歩けるのか。騎士の脅威が迫るなか、一度は“庇護”を求めるようにこの村に帰ってきた。しかし、もはや逃げ隠れだけでは何も解決しないことを、エスメラルダは身をもって痛感している。


 ある日の夕刻、彼女はレオンの家の裏手にある小さな畑で、薬草の手入れをしていた。村の人々のために少しでも役立ちたい――そんな思いで育てはじめた薬草が、ようやく青々とした葉をつけはじめている。もともと薬草学には興味があったが、王都で“聖女”という立場を与えられてからは、教えられた儀式や礼法ばかりが優先され、実際の草の育成に深くかかわる機会は意外と少なかった。そのため、こうした地道な作業はどこか新鮮で、心を落ち着かせる効果がある。


 しかし、その和やかな時間は長くは続かなかった。後ろから足音が近づき、低い声が彼女を呼ぶ。振り向くと、ヴァレンティンが立っていた。日は傾きかけ、空がオレンジ色に染まっている。彼はどこか思いつめた表情をしており、エスメラルダはその視線を受け止めて、はっと胸を高鳴らせた。

「……どうしましたか? 具合が悪いんですか?」

 まだ怪我の後遺症が完全に治ったわけではないため、彼の健康状態を心配しての問いだった。だが、ヴァレンティンは首を小さく横に振る。


「体はもう問題ない。それより……少し話があるんだ」

 ヴァレンティンのまなざしには決意の光が宿っていた。

「俺は、早急に王都へ向かうべきだと考えている。“陰謀の証拠”を持ち歩いている以上、いつまでもここに留まれば、いずれ追手がこの村を襲う可能性が高い。それに、早く事態を動かさないと、相手に先手を打たれてしまう」


 エスメラルダは胸がぎゅっと締め付けられる思いだった。ヴァレンティンの言う通り、証拠書類を握っている彼がこの村にとどまれば、村ごと巻き込んで危険にさらしてしまう。だが、王都へ行くという決断は、それ自体が大きなリスクを伴う。彼女自身、いまだ追放中の身であり、王都では“犯罪者”のように扱われているのだから。


「……わかっています。私も、逃げてばかりではいけないと感じていました。それに、村をいつまでも危険にさらしたくない。でも、私が王都へ戻るなんて、本当に大丈夫でしょうか」

 エスメラルダの声には、正直な不安が混じる。そんな彼女を見て、ヴァレンティンは穏やかに頷いた。


「だからこそ、一緒に行こう。お前の力と、俺の証拠があれば、王太子アルヴィスや貴族連中にも捏造を追及できるはずだ。もちろん、すんなりとはいかないかもしれない。それでも、“真の聖女”がお前である可能性を示せれば、この国の人々も黙ってはいないだろう」

 彼の言葉は彼女を鼓舞するように響くが、同時に、かつて裏切りを経験したエスメラルダには、再び王都の権力者たちと対峙する恐怖がよみがえる。あの玉座の間で、誰ひとり味方してくれずに追放された瞬間の痛みは今も忘れられない。そうした不安を抱える気持ちを察してか、ヴァレンティンは言葉を続ける。


「今のお前には、力がある。村で少年を救ったのを見ただろう? あれこそが、お前が自分の意志で起こした奇跡だ。王都で“聖女”として過ごしていたころとは違う。今度は、お前自身のためにその力を使っていいんだ。……そして、この国の未来のために」

 その言葉に、エスメラルダは小さく肩を震わせる。王都で過ごした日々は、周囲に求められる“聖女”の姿を演じるのに精一杯だった。だが、今の彼女は違う。自分の力をどのように使うか、自分で決める意志がある。そして、逃げるだけではないと決めたなら、立ち上がるしかない。


 そこへ、レオンの姿が遠くから見えた。彼もまた、二人が話しているのを気にしていたらしく、そっと近づいてくる。その目には、明らかに寂しそうな色が浮かんでいた。

「……二人で話し込んでるみたいだけど、まさか、王都へ行くっていうのか?」

 レオンはもう察しているのだろう。かつて自分の幼馴染だった“元聖女”が、どれほど危険かもしれない決断をしようとしているかを。エスメラルダは申し訳なさそうに顔を伏せる。


「ええ。やはり私たちに、ここへ留まる選択肢はないと思うの。村の皆さんに、これ以上迷惑はかけられないし……何よりも、私自身がもう一度、正面からこの問題に向き合いたい」

 その答えを聞き、レオンは苦い表情を浮かべながら小さくため息をついた。彼はエスメラルダを守りたかった。王都で傷ついた彼女の心が、故郷の村で少しずつ癒えていくのを見守りたかったのだ。けれど、そんな穏やかな時間が続かないことは、彼も薄々わかっていた。


「そうか……。お前が決めたのなら、俺も止めはしない。ただ……戻ってきたときには、またこの村で笑ってくれよ。俺は……お前がいない村なんて、想像もつかないからな」

 レオンの言葉には、彼なりの愛情がこもっている。幼少期から共に過ごした時間、王都へ旅立ってからの空白を経て、追放されて帰郷した彼女を温かく受け入れた想い。どれもこれも、口下手なレオンにとっては立派な“愛の表現”だった。エスメラルダは思わず目頭が熱くなるのを感じ、ぎこちない笑顔を返す。


「ありがとう、レオン。必ず……必ず帰ってきます」


 こうして、エスメラルダとヴァレンティンは“王都への帰還”という危険な道のりを選ぶことになる。だが、出発の前にもう一つだけ、やらなければならないことがあった。ヴァレンティンの体は随分と回復したとはいえ、まだ長旅に耐えられるほど万全ではない。そこで、エスメラルダとレオンが中心となり、村人たちにも協力を募って物資や薬を準備することになったのだ。騎士の目をかいくぐりながらの作業は骨が折れるが、少年を助けた一件以来、エスメラルダに協力的な村人も増えており、皆が知恵を出し合って二人をサポートしてくれる。


「お前が本当に聖女様かどうか、俺たちにはわからない。でも、そんなのはどうでもいいのさ。優しい子を助けてくれた恩は消えない。……気をつけて行っておくれ」

 ある年配の女性が、旅の支度をするエスメラルダに声をかけ、握り飯をいくつも包んで手渡す。少し前までは彼女がこんな風に協力してくれるなど考えられなかったが、少年を救った奇跡は村人の心を溶かしたのだろう。エスメラルダはその好意に感謝し、力強く頭を下げる。


 出発の日は、太陽が昇りきる前に決まった。騎士たちが夜間の警戒を解いている時間帯を狙うためである。ヴァレンティンは村人の作った簡易の杖を頼りに、かろうじて自力で歩ける状態だ。だが、その瞳には明確な意志があり、エスメラルダが隣を支えるように立っている姿は、まるで不思議な連帯感を漂わせている。

「ありがとう。みんな、本当に世話になった。いつか必ず、この国を正しい方向へ導いてみせる」

 ヴァレンティンは村人たちに向かい、敬意を込めておじぎをした。隣国の王子であることは公にはしていないが、その立ち居振る舞いには気品が感じられ、村の人々も思わず感心した様子を見せる。


 レオンは別れ際、エスメラルダとヴァレンティンを見つめ、複雑そうに肩をすくめた。

「やれやれ、こんな小さな村に“王子”まで潜んでいたなんてな。……まあ、今さら驚きゃしねえが。じゃあ、俺たちの平穏を守ってくれよ。無理せずにな」


 エスメラルダは笑顔でレオンに向かって手を振り、その手はわずかに震えていた。久しぶりに戻ってきた故郷を、また離れることになるとは思わなかった。けれど、今の彼女にはこの別れが“一時のもの”であると信じる理由がある。王都で自分を貶めた陰謀に立ち向かうことは、傷ついたまま放置してきた過去との決着でもあるのだ。


「必ず戻ってくるわ。約束する」

 あらためてそう誓い、エスメラルダはヴァレンティンと共に村を出発した。背後では、小さくなるまで手を振っているレオンや村の人々の姿が見える。太陽の光を浴びながら、二人は未だ見ぬ困難に向かって歩みを進めていく。


 ゆっくりと、しかし確実に前へ進む足取り。エスメラルダの中には、あの王都で聖女と呼ばれたころとは違う強さが芽生えていた。追放という苦難を経て、守りたいと思える仲間に出会い、信じられる人を得た。その事実こそが、これからの戦いを乗り越える糧になるだろう。ヴァレンティンもまた、隣国の王子としての責務を超え、彼女と運命を共にすることを選んだのだ。


 こうして、“元聖女”と“隣国の王子”は、それぞれの想いを胸に抱きながら、ついに王都へ向けて旅立つ。そこには、アルヴィスやカリーナ、さらに彼らの背後で蠢く者たちとの本格的な対決が待ち受けているだろう。彼らが望むのは“復讐”でも“栄光”でもなく、“真実を示し、この国を守りたい”という切なる願い。追放の痛みを乗り越え、エスメラルダはまさに“真実の聖女”として、もう一度この国に奇跡をもたらせるのか。


 風が優しく二人の背中を押し、空にかかった雲の切れ間からは眩い陽光が降り注ぐ。王都への帰還は、決して容易な道のりではない。それでも、エスメラルダとヴァレンティンの決意は揺るがない。ふたりの行く先に、きっと新たな使命と出会いが待っているはずだと信じて――。




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