旅の道中、エスメラルダとヴァレンティンは、なるべく人目を避けるように慎重に進んだ。王都へ向かう街道は警護が厳しく、追手の騎士たちが巡回している可能性が高い。そのため、彼らはわざと迂回路を選び、ときには無人の小道や獣道を伝いながら宿場町を渡り歩いていた。宿を取るのも危険と判断し、夜は野宿や人里離れた廃屋で眠り、朝早くに出発する日々を繰り返す。
それでも、確実に王都は近づいていた。遠くに見える城壁や、街道を行き交う荷車の数が増えてきたことで、エスメラルダは否応なく自分が追放されたあの日を思い出す。あの玉座の間で浴びせられた罵声や、不信のまなざし。信じていたアルヴィスに突き放された記憶が胸を痛めつける。しかし今は、逃げ帰るためではなく、真実を暴くために足を踏み入れるのだ――そう自分に言い聞かせるように、埃っぽい田舎道を一歩ずつ踏みしめた。
隣を歩くヴァレンティンは疲労こそ色濃いものの、怪我の影響はほとんど感じさせないほど回復している。もともと芯の強い性格なのか、移動中も必要なときには積極的に人と交渉し、物を手に入れる術を心得ているらしく、エスメラルダは何度も助けられた。騎士たちが巡回している宿場町の入り口では、彼が隣国の訛りを上手に隠しながら商人を装い、さりげなく情報を探る場面もあった。
> 「どうやら、王都には“カリーナ聖女”の名声がますます高まっているらしい。
祝賀祭も近いとかで、城下の住民たちは盛り上がっている。
しかし、その一方で“元聖女”にまつわる不穏な噂がくすぶっているようだ。
王宮の貴族たちは、あの女――つまりエスメラルダを“反逆者”として厳重に取り締まれ、
と騎士団へ通達したという話も耳にした」
ヴァレンティンが手に入れたそんな情報を聞くたび、エスメラルダは表情を曇らせてしまう。追放されたのはずいぶん前のことなのに、“反逆者”として指名手配されたのだろうか。そうであれば、王都に入った瞬間に捕らえられるリスクもある。以前は自分の庭のように思っていた街並みが、今では敵意を孕んだ罠の巣窟に変わり果ててしまったようで、思わず肩がこわばった。
やがて、王都の外れまで来たエスメラルダたちは、最初の難関である城門の検問所にどう対処するかを相談しはじめる。昼間正面から入れば、門兵に身分の確認を求められることは必至だった。ヴァレンティンが所持している証拠書類を奪われる可能性だってある。そうかといって夜間に隠れて侵入しようとしても、近頃は巡回の兵が増強されていると聞く。下手をすると門外で捕縛される危険も大きい。
「……私が知っている通用門はあるけど、今も使われているかどうか……。あそこは普段、物資の搬入口としてしか使われないの」
エスメラルダは眉をひそめながら思い返す。聖女として王城で暮らしていた頃、こっそり抜け道を探検したことがあり、いくつか人目につきにくい裏道の存在を覚えていた。だが、年月が経った今では、警備も配置も変わっているだろう。いくら聖女だったからといって、内部事情に詳しいわけではなかった彼女にとっては、あくまで断片的な情報にすぎない。
すると、ヴァレンティンは不敵な笑みを浮かべ、少し悩ましげに首を傾げた。
「……正面突破は避けたいな。できれば余計な争いはしたくない。だが、どうしても潜入せねばならない。――ならば、街の中に協力者がいるかもしれない。たとえば“王都でお前を慕っていた人々”は、まだいるんじゃないか?」
追放されたとはいえ、エスメラルダは長く王都で暮らしてきた。その間に助けた人や、好意を抱いてくれた侍女や侍従たちもいたはずだ。思い当たる名前をいくつか挙げはじめると、その中で一人の人物の顔が脳裏に浮かんだ。――セレナ、という若い侍女だった。
「セレナは、私が聖女になる前から一緒にいてくれた子なんです。村の出身が同じ……ってわけじゃないんですけど、立場のちがう私にも優しく接してくれました。私が追放されたあと、どうなったのかはわからないけれど……もしセレナがいるなら、きっと力になってくれるかもしれません」
その言葉に、ヴァレンティンもうなずく。まずはセレナの所在を探り、合流できればいい。王宮の内情に通じる人に助けてもらえれば、裏門を使うにしろ、正門から入るにしろ、選択肢は広がるはずだ。
こうして二人は、やむなく危険を承知で王都の外壁を回り込み、城下町へと通じる商業区のほうへ足を向けた。城壁に囲まれた王都は、かつてエスメラルダが目にした景観と同じように美しい屋根瓦や石造りの建物が並び立ち、道ゆく人々はどこか華やかな雰囲気をまとっている。郊外とは異なる賑やかな声、商人の掛け声が辺りに満ち、その活気は追放される前の記憶そのものだ。しかし、そこに身を置くエスメラルダの胸には、複雑な痛みが走る。懐かしさと、取り戻せない日々への喪失感。さらに、いまだ自分が厳重に指名手配されているかもしれないという恐怖心――それらが入り交じって、頭がくらくらしそうになる。
だからこそ、今はヴァレンティンの存在が大きい。彼は隣国の王子でありながら、目立つ豪奢な服装を避け、あくまで質素な外套を纏い、商売人を装っている。特に商人や旅人が集まる酒場や宿で隠密裏に行動し、セレナの居場所を探るための手掛かりを集めていた。
ある夕暮れ、二人は城下町の外れにある小さな居酒屋へ足を運んだ。ここなら貴族や騎士が来ることは少なく、旅人や商人が情報を交換する場でもある。喧騒が落ち着き始める時間帯を狙い、ヴァレンティンはそっと酒場の女将に声をかける。
「……すみません。ちょっと人を探しているんですが……セレナという名の侍女を知らないでしょうか。王宮で働いていたという話なんですが」
女将は最初こそ警戒したものの、ヴァレンティンが渡した銅貨を手にすると、知っていることをぽつりぽつりと話し始める。
「確かにセレナという娘がここの常連さんにいたけど、最近はとんと姿を見かけないねえ。前は“お城で侍女をやってるんだけど、大変でさあ”なんて愚痴ってたっけ……。そういえば、最近、城内で“新聖女”様が騒がれているせいか、侍女も交代が多いって噂を耳にしたよ」
新聖女――カリーナ。彼女のもとで侍女たちの配置替えが頻繁に行われている、という話は偶然にも先ほど他の客からも耳にしたばかりだ。もしかすると、セレナはカリーナ陣営の内部事情を知っている可能性がある。その一方で、もしセレナが“新聖女”を批判するような姿勢を見せていれば、厳しく処罰されているかもしれない。カリーナが本当に聖女としての奇跡を起こす力を持っているのか、エスメラルダは疑問視している。となれば、必ず影で口封じや情報操作が行われているはずだ。
しばらく女将と話を続けていると、一人の男性客が興味を示して近づいてきた。
「セレナって侍女のことを聞きたいのか? ……そういえば、最近彼女は城下の診療所あたりで目撃されたって噂を耳にしたぞ。どうやら、自分の身内をそこに匿っているとか何とか……」
その言葉に、エスメラルダは思わず反応してしまいそうになる。王宮で勤務していた侍女が、どうして診療所に? 身内が病に伏せているのだろうか。それとも、自分自身がケガでもしているのか。
診療所――そこは王都の中でも、比較的庶民や下層の人々が利用する小規模な治療施設だ。かつてはエスメラルダ自身も、聖女として巡回診療に訪れたことがある。もしセレナがそこに足を運んでいるなら、今でも行き来している可能性は高い。ここまで情報がはっきりしているのなら、もうあとは直接足を運んでみるしかない。
酒場をあとにし、エスメラルダとヴァレンティンは喧噪の街を抜けて、徐々に人通りの少ない区域へと向かった。王都の中心に近い華やかな通りとは違い、建物の老朽化が目立ち、貧しい人々が暮らす裏通りに差しかかる。子どもたちが物乞いの手を伸ばし、汚れた服を纏った老人が道端でため息をつく。かつて聖女として救おうとしていたはずの人々だが、追放された今のエスメラルダは何もしてあげられない。胸の痛みを覚えつつ、彼女は足を止めない。
やがて目指す診療所の看板が見えてきた。その扉は年季が入り、窓からこぼれる明かりも心許ない。診療所自体があまり繁盛していないのだろうか。辺りを見回し、敵の気配がないかを探ったうえで、ヴァレンティンが静かに扉を押し開ける。
「……すみません、夜分に失礼いたします。診療を受けるわけではないのですが、こちらを利用している方をお探しで……」
中には薬草の香りが漂い、少し異国風の調合器具が所狭しと置かれている。小さな待合スペースには誰もおらず、奧からか細いランプの光と話し声が聞こえてきた。控えめに声をかけると、一人の医師風の初老の男が出てくる。
「ここは夜間の診療はほとんどやっていないんだが、どうしてもというなら簡易な応急手当くらいは――」
訝しげに言いかけた医師に、ヴァレンティンが手短にセレナを探している旨を伝えると、彼は不思議そうな表情で目を瞬かせた。
「セレナ? ああ、あの侍女さんか。確かにここを何度か訪れているが……今はいないぞ。昨日までは体調不良の友人を看取るために来ていたが、今日は姿を見せない。もしかして、もうお城に戻ったのかもしれんな」
その言葉に、エスメラルダは落胆しかけるが、まだ諦められない。何かセレナに繋がる手掛かりは得られないだろうか。そう思っていると、医師は「そういえば……」と何かを思い出したように眉根を寄せた。
「彼女、ここに来るたびに“都合で身分を隠してる人”について、妙に詳しく聞いてきたんだよ。城内でも不正に紛れ込んでいる人間がいるらしいとか、そういう噂があるんだとね。……きっと、王宮が変だと感じたんじゃないか。最近は新聖女様のために、人員の配置替えがやたら激しいからな。違和感を覚えた侍女たちが次々と辞めていく、なんて話もよく聞くし」
違和感を覚えた侍女たちが辞めていく――それはカリーナが“偽りの聖女”だからではないだろうか、とエスメラルダは思わず拳を握りしめる。もしカリーナに本物の力がないのだとしたら、それを間近で仕える侍女なら当然疑問を抱くはず。今の権力者たちが彼女を聖女として擁立しようとしているなら、真相に気づいた侍女たちを口封じしたり、あるいは自主的に辞めさせたりしている可能性が高い。
セレナがそうした“真実”を探るうちに、何らかの危機に巻き込まれた――そんな不安が頭をよぎった。捜索を続けるのは危険かもしれないが、彼女こそがエスメラルダとヴァレンティンにとって決定的な仲間となりうる人物だ。深まる夜の闇を背負いながら、二人はひとまず診療所を出て、建物の外で小声で作戦を練る。
「セレナがここに来ているなら、今後も再訪する可能性がある。俺たちはしばらく周辺を張り込みしてみるか? あるいは、お前が城内の侍女仲間を直接あたるのも手かもしれない。ただ、それだと自分の正体が即座に露見しかねないが……」
ヴァレンティンの言葉に、エスメラルダは迷いを見せる。正攻法で侍女に接触すれば、門兵や騎士団の目に留まり、指名手配されるのはほぼ確実だ。危険は避けられない。しかし、セレナを見つけ出せなければ、カリーナの“偽り”を証明する有力な裏づけや、王宮内の状況把握が困難になるだろう。
そのとき、夜陰に紛れて足音が近づいてきた。二人が警戒して身をこわばらせると、現れたのは一人の若い女性だった。フードの下から見える金の髪、怯えたような瞳――しかし、その奥には決意の火が燃えているようにも見える。
「……まさか、本当にあなたがここにいるなんて……エスメラルダ様?」
胸が高鳴る。思わず声のするほうへ振り返ると、そこには確かにセレナの面影があった。以前よりやつれ、頬もこけてしまったが、その声と面差しは間違いなく王宮の侍女として仕えていたころの彼女のものだ。息を呑むエスメラルダを前に、セレナは震える声で続ける。
「噂を聞きました。エスメラルダ様が、まだご存命だと。私は……私は信じたかった。あなたが悪女なんかではないと。あの日、カリーナ様と取り巻きの貴族たちが何か企んでいるらしいとは思っていたのですが、何もできなくて……ごめんなさい」
再会を喜ぶ余裕もない。セレナが懺悔するように涙を浮かべて頭を下げるのを、エスメラルダは慌てて制する。
「そんな……謝らなくてもいいの。私こそ、あなたを助けられなくてごめんなさい。何があったの? カリーナの正体について、何か掴んでいるのね?」
セレナは周囲を警戒するようにキョロキョロと視線を巡らせたうえで、小さな声で答える。
「カリーナ様は聖女としての力を持っているとは思えません。儀式で示された奇跡の数々も、どうやら貴族たちが手をまわして偽装しているらしいんです。私はそれを確かめようとしましたが、仲の良かった侍女たちは次々と解雇され、中には行方不明になった人も……。私もいつ命を狙われるかと思うと怖くて……」
その背筋を凍らせるような証言に、エスメラルダは拳を握り締める。自分を追放しただけでは飽き足らず、王国上層部はカリーナを聖女に仕立て上げるために、あらゆる反対意見を力ずくで排除しているのだ。まさに陰謀が渦巻いている現場。ヴァレンティンが掴んだ書類の証拠とも合致する話であり、それがこの国を内側から腐らせようとしていることは火を見るより明らかだった。
「セレナ……あなたは王宮に戻らない方がいい。それでもこの国を救う手助けをしてくれるなら、私たちと一緒に――」
エスメラルダが言いかけると、セレナは悲しそうに微笑む。
「私も、失ってしまった友人たちのために戦いたいです。でも……ごめんなさい、私は“あの人”に仕える義務があります。そろそろ時間がありません。詳しいことは後日、必ずお伝えします。私は……どうしても、もう一度だけ城の中に戻らなくてはいけないの」
それだけ言うと、セレナは足早に去ろうとする。エスメラルダが呼び止める隙すら与えず、夜の闇に溶け込むようにその姿を消してしまった。まるで“私を信じて待っていてほしい”とでも言わんばかりの瞳だった。
突然の再会と、唐突な別れ。あまりの展開に、エスメラルダもヴァレンティンも言葉を失う。だが、ひとつだけ確かなことがある。それは“カリーナが偽りの聖女である”可能性がほぼ確定的だという事実。セレナが証拠をつかんで戻ってきたとき、そしてヴァレンティンが抱える書類とあわせれば、王都を揺るがす決定打になるかもしれない。
ふと、路地の先から騎士の巡回らしき明かりが見え、二人はあわてて身を隠す。エスメラルダは胸を抑えながら、王都に戻ることへの覚悟がますます強まったのを自覚する。隠された真実は、セレナが握っている。そして彼女がそれを持ち帰る前に、こちらも準備を整えておかなければならない。
自分が嘗て立っていた場所、王城の広間で、多くの人々が目を逸らしてきた闇を、いまこそ照らすときが来たのだ――。
夜の王都の喧噪を背に、エスメラルダとヴァレンティンは足早にその場を離れる。遠く、城壁の向こうにはかすかな灯りが揺れていて、そこに隠された陰謀の炎が妖しく燃え上がっているかのようにも思えた。だが、逃げ帰る道はない。もうすぐ大きな逆転劇が、この王都を巻き込んで始まろうとしている。