翌日の放課後、僕は学校帰りに音無家に向かっていた。知ってる街の知らない道を、音無さんの後ろについて歩く。ストーカーみたいに離れて。噂とかされると恥ずかしいし。
それはともかく約束通り、まずは試しに二人でホラーゲームをやってみるのである。もちろん配信は無し。僕は黙って見るだけ。今も音無さんの麗しき後ろ姿を黙って見るだけ。うむ、時折振り返る姿も美しい。見返り美人と言うやつだな。
今日一日で、音無さんに関する情報はある程度耳にしていた。
初日から別のクラスの男どもが見物に来た。学級委員に一人だけ立候補した。入試のスコアトップクラス。芸能事務所にスカウトされてるのを見た。大学生と付き合っている。有名俳優の隠し子。デザインチャイルド。異世界のエルフ。未来から来たアンドロイド。
だが眉唾なゴシップですら、実は人気Vtuberという真実にはかすりもしていなかった。
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「ここが自宅です」
「……マジか」
僕は、その豪邸を見上げた。
庭付き一戸建て、という表現で収まるレベルの代物ではない。なるほど、これなら収益化なんて必要ないわけだ。
「ご両親は?」
「どちらも出張で不在なんです。家より海外にいることが多くて」
思わず喉を鳴らしてしまった。
美少女クラスメートの自宅に呼ばれて二人きり、なんて緊張して当たり前だ。
音無さんが玄関の戸を開ける。玄関もデカい。
「ただいま戻りました」
パタパタとスリッパの音がして、誰かが出てきた。髪をハーフアップにした、若い女の人だ。
「おかえりなさい、澄乃ちゃん。その子は?」
「彼はクラスメートの朝陰君です。朝陰君、こちらはお手伝いの
佐田と呼ばれたその人は、おそらく二十代半ばくらい。さすがにメイド服は着ていないが、大人らしい落ち着いた服装の女性だった。
というか二人きりではなかったのか……。何かを期待して……無くはなかったが、総合的には少しホッとした。
ともかく、挨拶だ。
「こんにちは、朝陰真といいます」
「こんにちは。佐田です」
挨拶が終わるのを待って、靴を揃えた音無さんが佐田さんに話しかけた。
「紅茶を二つ、スタジオにお願いします」
「はい。彼が例の……?」
「今日は試しです」
「なるほど。頑張ってね」
含みのある会話をして、佐田さんはお茶を淹れに行った。
僕の家の二倍は高い天井を見上げ、僕の家のものより十倍は高そうなスリッパを履いて音無さんの後を歩く。お上りさんみたいにキョロキョロしながら、気になったことを聞いた。
「スタジオまであるの?」
「スタジオというより防音室ですね。私が産まれる前に父が使っていたそうです。ギターとかドラムとか。本人はもう使ってないので今は私の配信用です。両親はただの趣味の部屋だと思ってますが」
「佐田さんは知ってたみたいだけど」
「配信のことを知ってるもう一人が、佐田さんなんです。というより中学生の頃に佐田さんが提案してくれたんです。運営方針や設定も一緒に考えてくれて……」
なるほど、あの人が元凶か。というかあの人、仮にも雇い主の娘相手にサキュバスVtuberを勧めたのか……レベル高いな。
「それなら佐田さんにいてもらえばいいんじゃないの?」
「佐田さんもホラーが苦手で、頼んだんですけど断られました」
すると僕の存在は、佐田さんにとってもありがたい……ということか。そう思うと、この豪邸の空気も多少吸いやすくなった気がした。
音無さんが廊下の奥の、重々しいドアを開ける。
「ここがスタジオです」
テレビで見たようなモノを想像してたけど、思ったよりは狭かった。八畳くらいか。デカいパソコンと最新の家庭用ゲーム機、電動昇降デスクと高そうなゲーミングチェアがある。しかも。
「トリプルディスプレイか、いいなあ……。ていうか音無さんて普段からゲームやるの?」
「物心ついた時から父がやっているのを見てましたので、ゲームは昔から好きなんです。朝陰君すみません、これ運ぶの手伝ってもらえますか?」
細い指が指したのは、壁沿いの二人掛けソファ。
「いいけど。どこに?」
「パソコンの前です。あ、椅子どかさないと」
……もしかして。
「行くよ、せーのっ……っと」
「ありがとうございます。これで二人でできますね」
やっぱりか。
「椅子並べてやると思ってたけど……」
音無さんが上目遣いで睨んできた。
「だ、だってくっついてないと意味ないじゃないですか!」
「何が?」
「そ、存在してるか不安になって怖いでしょう!?」
「はあ、存在?」
「私はゲーム画面見てないといけないんですよ!? その間に朝陰君が消えてるかもしれませんし!」
いや消えないが。幽霊か。
しかし音無さんにとっては深刻な問題のようだ。
それに正直なところ。
「別に、くっつくのはいいんだけどさ……」
自分の言葉がむず痒くて、目線を床に落とす。
というか、音無さんはどうなんだ? 不可抗力とはいえ、クラスメートの異性とくっついて座ることに思うところは無いのだろうか? 僕のように。
音無さんの顔を見直す前に、スタジオのドアがノックされた。
「失礼します。紅茶をお持ちしました」
「俺が行くよ。準備してて」
「あっ、すいません。お願いします」
佐田さんから紅茶とお菓子のお盆を受け取ろうとして、囁かれた。
「澄乃ちゃんのこと、よろしくね。あの子が友達連れて来るの、初めてなの」
「はあ……」
パチリとウインクして、佐田さんは出ていった。第一印象はクールな人かと思ったが、素は気さくなお姉さんなのかもしれない。
しかし音無さんはどう考えてもスクールカースト上位なのに、家に友人を呼ぶ機会もなかったんだろうか?
首を傾げながら振り向くと、音無さんがメガネをかけていた。
その破壊力たるや。
シンプルなセルフレームも彼女がかければ、知性を輪郭にした魅惑の額縁。額装された瞳は名画だ。なるほど、ここはルーブル美術館だったのか。友人を呼べないのも頷ける。
「紅茶、ここでいいかな」
「はい、ありがとうございます。……準備できました。どうぞ」
ソファに座った音無さんが左横の座面をポンと叩いた。僕は慌てて目を逸らす。黒ストッキングが目の毒だ。
僕は音無さんをあまり意識しないようソファに腰を下ろした。ぎゅ、とソファカバーの下の革が鳴る。
右横から、何か言いたそうな空気を感じた。
「……距離がありますね」
「ゲーム始めてからでいいでしょ」
本当は、僕に勇気がないだけだ。半人分の距離が、今の僕の精一杯。それすら落ち着かない。
当たり前だ。家族以外、親しい女性なんて僕にはいない。いたこともない。
……僕は変じゃないだろうか?
冷や汗って臭うんだっけ?
鼻毛は出てないかチェックしておけば良かった。
「紅茶、いただくよ」
「どうぞ」
カップの水面は凪いでいる。内心の緊張は、やっぱり表に出ない。
紅茶の香りに混じって、あの時と同じいい匂いが鼻をくすぐった。