土曜の午後。
僕は、土産を携えて音無家の玄関にいた。
「これ、うちの母さんからクッキー」
「ありがとうございます」
出迎えてくれた音無さんに紙袋を渡す。
こんな豪邸に手作りクッキーかよ……なんて考えは吹っ飛んでいた。音無さんの私服と、ポニーテールによって。
音無さんは白いハイウェストワンピースにパステルブルーのカーディガンを羽織り、脚にはいつもの黒ストッキング。
僕の目は、ハイウェストで強調された白ワンピの膨らみに奪われる。それはさながら、純白の氷山。そこから垂れるカーディガンの裾が、まるで
「佐田さんに紅茶を入れてもらいましょう」
心が南極に飛びそうになった僕を、音無さんの声が引き戻す。
上げた目線は、ピンクのシュシュから伸びるポニーテールにさらわれた。
「お邪魔します」
ふわふわスリッパをパタパタと、僕は音無さんの後ろを歩く。高い天井に微かな音が反響する。
僕の視線は
眩しさに目線を下げれば、そこには60デニールという名の……極夜。
秘めた熱い心は抑えきれず、音無さんという名の南極大陸へ飛んだ。永久凍土が溶け、海面上昇が加速する。
「どうぞ」
僕をリビングに迎える音無さんが、こちらに半身を向けた。白い大陸の上空で、再びオーロラが揺らめく。
ああ音無さん、そして太平洋の島国よ。すまない。愚かなアサシン、夜の狭間で極光に死す。
■
高級な紅茶となら、食べ慣れたクッキーもおいしく感じるから不思議だ。ポニテの音無さんとテーブルを挟んでいるなら、なおさらである。
打ち合わせの必要はもう無かった。当然だ。僕はただ存在していればいいのだから。人形と同じだ。
だからこの期に及んで、僕は奔放院ユリーザの配信を見ていない。キャラ設定も魔界から来たサキュバスという以外知らない。
配信者としての実績も、リスナーと接する経験も、音無さんの方が圧倒的に上。予習としてアーカイブを見る意味がない。本人に止められているなら、なおのこと。
そしてプレイするゲームも、今日この場で伝えられた。
「
「ヌルリンチョ、か……!」
カップを置き、僕は天を仰いだ。
「変な名前だけど、それでホラーゲームなの?」
キッチンに立つ佐田さんが困惑している。ゲームには詳しくないようだ。だが、せめてこのゲームの立ち位置くらいは知っておいてもらおう。
「ヌルリンチョは変な名前~、で済むゲームじゃないですよ」
「そうなの?」
「まずヌルシリーズっていうのがあって……」
可愛い女の子に釣られたプレイヤーを震え上がらせ、リタイアが続出したことで話題となった一作目『Null』。通称“ヌルイチ”、“ヌルワン”、“無印”。
後味の悪いエンディングで賛否の分かれる二作目『Null ―
そして歴代最
「なるほど。なんかヤバそうなゲームだね。澄乃ちゃん大丈夫?」
「今回から心強い味方がいるので。朝陰君はヌルのプレイ経験はありますか?」
「一作目だけ。中二の時かな。休み休みやったからクリアまで一年くらいかかったよ。怖すぎてさ」
「君も怖くないわけじゃないんだね」
佐田さんが意外そうな顔をする。
「俺としてはめちゃくちゃ怖いですよ。妹からは“これを無反応でやってる方が怖い”って引かれましたけど」
「朝陰君、妹さんがいるんですね。私は一人っ子なので、羨ましいです」
「そう? 口うるさいだけだよ。今日も服装にめちゃくちゃダメ出ししてきたし」
「コーディネートしてくれたんですね」
「逆に恥ずかしいよ」
もしその英文入り黒Tシャツとデニムで女の子の家に行ったら縁を切る。そう主張する妹の指示より、僕はグレーの無地ロンTと淡い緑のパーカー、紺のスリムパンツという出で立ちだった。曰く、平凡顔は平凡がお似合い、とのことだ。大きなお世話だ。
ため息をついた僕は、音無さんがなんだか楽しそうなのに気付いた。
「……なに?」
「えっ? 何がですか?」
「音無さん、ニコニコしてるから」
「そ、そうですか? むしろ緊張してると思うんですが……」
両手で頬を押さえて
……いいな。
「澄乃ちゃんはね。高校に入ったら友達とこういう他愛のない話がしたい、って言ってたんだよ」
「佐田さん!」
「洗濯物取り込んできま~す」
「……もう!」
音無さんは、今度は頬を膨らませた。
うん……いいな。
■
勉強は週末課題の消化で切り上げ、スタジオへ向かう。時刻は夕方。いよいよ奔放院ユリーザのライブ配信だ。
ソファに座った音無さんはポニーテールを結い直し、メガネとヘッドセットを着けて深呼吸した。
ポニテ黒スト私服メガネ。最強だ。
ディスプレイではすでに待機画面が配信され、リスナーたちが奔放院ユリーザを待っていた。
「じゃあ朝陰君、お願いします」
「うん」
僕もイヤホンを着けてソファに、音無さんの横に座る。半人分の距離は、まだ埋められない。
デスクの上には、意思疎通のための五枚のカード。少し横には、マウスを動かす細い指。人差し指に力が入れば、このスタジオが世界と繋がる。
「――始めます。準備はいいですか?」
僕は【肯定】のカードを指し、音無さんが頷いた。
静音のはずのクリック音が、やけに大きく聞こえた。