音無さんは、ヘッドセットを外した。
僕は、ソファを降りた。
音無さんは、残念ながらメガネを外した。
僕は、床に正座した。
音無さんは、こちらを向いた。
僕は床に手をつき、頭を……。
「あ、朝陰くん!? 何してるんですか!」
「いや、今回のマナー違反に関して、俺なりの誠意とケジメをつけなければと……」
あの時見た後れ毛と、汗ばんだ赤さ。そしてそこに許可なく顔を近づけ囁いたのが、マナー違反でなくて何であろう。
「や、やめてくださいそんなの!」
「いやでもマナーを」
「あの、みっ……お、鬼の館の件なら、緊急自体でしたから……」
……僕は、許されるのか?
顔を上げる。音無さんは顔を背けているが、ヘッドセットを外したばかりの耳が赤い。
「……音無さん、怒ってない?」
「怒っては、いません」
「俺は、役に立った?」
「私としては……はい。とても」
肩の力が抜ける。自分で思っていた以上に、気を張っていたのかもしれない。
音無さんが向き直り、ソファの座面を叩いた。僕は半人分よりさらに離れて座る。
「……距離があります」
「もう配信は終わってるし」
「……朝陰君、の」
言葉が続いてこない。
……なんだ?
音無さんを見る。組んだ両手の親指同士を擦り合わせながら、俯いている。
「あ、朝陰君の気持ちは……どうなんですか?」
「え? 俺の、気持ち?」
「朝陰君は……その、い、嫌じゃなかったんですか?」
……?
一体何を言ってるんだ音無さんは。嫌なわけが無い。むしろ良いに決まってるのに。
「嫌じゃないけど」
「じゃあ……じゃあなんでそんなに距離を取るんですか?」
「え?」
「私は朝陰君から楽しいとか嬉しいとか、聞いたこと無くて、その、ふ、不安で……!」
……え。僕、言ってなかったっけ?
「でもこの間、時計塔で励ましてくれたり……今日だって! 私がホラーゲームを嫌々やらされてるかも、って。だったら配信なんてするなって言ったのは、朝陰君の優しさでしょう!? ゲームのあとも、私の役に立てたかどうかって……でも、そればっかりで……」
……そうだ。確かにそうだ。
鬼の館の時も。ヌルリンチョ……つまりついさっきも。役に立てたかしか、聞いてない。
音無さんの声に、涙が混ざる。
「私を助けてくれるのに、いつも謝って! 今もそう! 勉強の時も、お礼か謝罪のどっちかだけで! 朝陰君は“楽しい”とか“面白い”って、一度も言ってくれないんです!」
「……」
思ってた。
思っては、いた。
ずっと、最初から。
あの、時計塔の密室に、二人きりになった時から。
始めて一緒にゲームした時も、秘密の相談してる時も、勉強会の時も、私服でお茶した時も、音無さんが奔放院ユリーザになってる時も。
ドキドキワクワクして、音無さんと過ごすのを楽しんでいた。
でも、口には出しては、いなかった。
伝えてはいなかった。
一度も。
「私、怖くて……! 朝陰君は優しいから、嫌々なのに付き合ってくれてるんじゃないかって、ずっと……」
「違う」
胸の奥に溜まったものが、吐き出せない。この期に及んで、僕は……
「嫌じゃない」
「……本当に?」
「本当だよ。楽しんでるし、面白いよ。それに嫌なら、やるわけ無いよ」
「……ごめんなさい。分からないです。いつもと同じすぎて、それが本心なのか、それとも優しいウソなのか……」
俺も分からない。
どう伝えればいいのか分からない。
「……どうやって言葉や態度にすればいいのか、分からないんだ。ごめん」
「……」
音無さんの目が……ああ、ダメだ。
そんな目で僕を見ないでくれ。
スタジオの床に視線を落とす。
もう無理だ。
終わりだ。
もうここには来られない。
三つのルールも、五枚のカードも、勉強会も、全部終わりだ。
陰キャが調子に乗るべきじゃなかった。登録者0人の底辺配信者が、人気Vtuberの美少女と関わるなんておこがましかったんだ。
すべては、あの時、自己紹介でイキったせいだ。そのせいで今、音無さんを傷付けている。
こんなことになるなら、僕は独りで、誰にも伝わらない配信を続けているべきだったんだ。
そういう、人間なんだ。
……でも誰か。
もし誰か助けてくれるなら、助けてくれ。
僕を救ってくれ。
僕の心を、誰か聞いてくれ。
……。
「……アサシンチャンネル」
「……え?」
音無さんの声。
「アサシンチャンネルのダッシュボード、見てますか?」
「いや、入学式の日以来、見てないけど」
「見てください」
「?」
「今この場で、見てください!」
わけがわからないまま、スマホを手に取る。
ダッシュボードを、久々に開く。
1。
音無さんを見た。
「これ、チャンネル登録者……」
「喜んでくれると思ってたのに、なんで見てくれないんですか……」
「え、まさか……」
「第一号、ですよ」
音無さんは自分の胸に手を当て、そう言った。
息を呑む。
お情けとか、義理とか、そんなのどうだってよかった。大事なのは事実だ。僕の、記念すべき
「それは、ありがとう」
「……朝陰君は、今嬉しいんですね?」
もちろん、飛び上がるほど嬉しい。
「うん、もちろん」
「本当に、ものすごく嬉しくてたまらないんですね?」
「うん」
「じゃあ……」
音無さんが、僕の両肩を掴んだ。強引に向きを変えられて、僕はスマホを取り落とす。
でもそれを気にする余裕はなかった。
僕の胸に、音無さんが顔を寄せたからだ。
「お、音無さん……」
「しっ……!」
シャツ越しに、耳の熱さが伝わってくる。
音無さんの香りを、今までで一番強く感じる。
「……聞こえます。朝陰君の心臓の音が。……すごく、ドキドキしてます」
当然だ。
僕自身にも聞こえるほどの、このドキドキには、何重もの意味がある。それを音無さんも、聞いている。
「音無さ……」
「喋らないで下さい」
「……」
「今……聴いているので」
一秒が、とんでもなく長く感じる。
胸に感じる熱さはその温度を増して、だから止まりそうな鼓動は、いつまでも収まらない。僕は両手を虚空に彷徨わせながら、スタジオの天井を見上げた。
音無澄乃の、秘密のスタジオ。
彼女の絶叫は、ここから世界に届くけど、僕の鼓動はその彼女一人にしか届かない。でも、届いている。
確かに今、届いている。