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あなたへ、名を呼ぶかわりに
あなたへ、名を呼ぶかわりに
乾為天女
文芸・その他純文学
2025年05月09日
公開日
2.4万字
連載中
母の死後、焼け残った一通の手紙を見つけた少年・藍。 それは、語られなかった家族の記憶の扉をそっと開ける鍵だった。 藍は文化部の名目で、旧図書館の廃棄資料から“手紙の真実”を追い始める。 協力を申し出たのは、朗読を言葉より先に感じ取る少女、マカロンで感情を和らげる少年、 記録にこだわる冷静な生徒会長、そして“見えない声”に敏感な同級生たちだった。 やがて彼は、母・瑞穂が残した日記、そしてその母――絹代の存在と向き合うことになる。 声にならなかった叫び、記録されなかった想い。 朗読劇を通して“語られなかった者たち”を舞台に呼び寄せた藍は、 それが他人のための行為ではなく、自分自身の“名を呼ぶ行為”だったと気づいていく。 誰かを記録するのではなく、 自分の声を、自分のために灯すこと。

第一章 藍の不在席通知

 午後の教室は沈黙という名の安堵で満たされていた。

 教卓の前、木製の掲示板には「生徒会・文化部代表会議」の紙が斜めに画鋲で止まっていて、書き込み欄にはびっしりと黒い字が連なっている。藍の名前もその一番下に記されていた。

 ――ただし、代理出席。

 藍自身は教室にいなかった。隣の席に座る結彩が、プリントの端を指でくるくると丸めながら、ため息をついた。

「なんであの人、ああいう時だけ目立つんだろ」

 声に棘はない。むしろ心底不思議そうだった。藍はいつも教室の隅っこにいて、ノートを開いては閉じ、誰にも話しかけず、誰にも見つからないように存在していた。

 だけど、会議にだけは、なぜか毎回出る。しかも、誰の推薦でもなく、自ら「行きます」と言い出す。

 結彩の視線の先にある空席。そこに、気配は残っていない。

「……いないのに、空気だけ座ってるみたいだね」

 彼女は独り言を呟くと、自分の机に散らばったペンとメモ帳、スティックのりのキャップをようやくまとめにかかった。床に落ちていたプリントは、どこかで踏まれて足跡がついている。

 その時、教室の後ろのドアが開いた。

「おーい、結彩! また藍いねえの?」

 声の主は玲希。髪の毛を後ろで結び、シャツを第一ボタンまで開けたまま入ってくる。制服のルール? そんなの知ったこっちゃない。

「いないよ。代理出席だって。……玲希、それ何持ってるの?」

「マカロン。新作。駅前のカフェでバイトの子にタダでくれたんだ。超うめーぞ、食う?」

 差し出されたカラフルな包みに、結彩は「後で」と首を振る。玲希は気にせず自分で一つ開けて口に入れ、しばらく黙ってから、教室の空席を見た。

「……あいつ、最近なんか焦ってるよな。顔に出てる」

「いつも出てない? 『俺ここにいません』っていう顔」

 玲希が笑った。けれど、どこか真面目なまなざしだった。

「いや。今は『俺、何か成し遂げたい』って顔してる」

 その言葉に、結彩は一瞬だけ眉を寄せた。そこにこそ、違和感があったからだ。

 藍は、いつも「いなくなりたい」ような目をしていた。それが「何かしたい」って、どういう心境の変化?

 教室の空気がゆるく波打つように、扉がもう一度開いた。

「失礼します。文化部関係者の方、いらっしゃいますか?」

 制服ではない、大人の女性が立っていた。スーツの裾が風に揺れている。

 見覚えのない顔――だけど、その後ろに立っているのは、紛れもない藍だった。

 何故か、顔に泥がついていた。


 藍は、まるで現実の景色に馴染まない影法師のように、女の後ろでじっと立っていた。

 髪は乱れて、頬のあたりに細かな傷がいくつか。制服の左袖には、こすれたような黒ずみが見える。

「……どうしたの、それ」

 結彩が最初に口を開いた。興味というより、確認のための声だった。藍はその問いに答えず、代わりに女の方が一歩前に出てきた。

「本校の生徒会顧問の先生はいらっしゃいますか?」

「生徒会顧問? この時間にはいないはずだけど……何かあったんですか?」

 玲希が眉をひそめて、マカロンを口に入れる手を止める。女は軽く頭を下げた。

「突然すみません。私は市内の旧図書館再編事業を担当している白藤と申します。実はこの生徒さん――藍さんが、図書館の取り壊し現場に入り込んで、火災報知器を鳴らした件で、少し事情を伺っておりまして」

「……火災報知器?」

「そうです。幸い火は出ていませんが、警備の記録によると内部で何かを探していた様子でした。生徒手帳からこちらの学校に連絡をしまして……」

 その場の空気が、一気に硬直する。

 玲希が舌打ちした。

「おい藍、お前、また変なことやってんのかよ」

 藍は、初めて口を開いた。

「……俺、燃えてなかったから、壊れてないかもって、思って……」

「何を?」

「……手紙、です」

 彼の目は、黒板の上を過ぎ、教室の天井に向いていた。誰の目も見ず、言葉だけが教室の空気を引っ掻くように浮いていた。

 結彩が、低い声で問い返す。

「誰の手紙?」

 しばらくの沈黙のあと、藍はただ一言、言った。

「……母の」

 玲希が手にしたマカロンを机に叩きつけるように置いた。

「は? お前、家燃えてんのって去年だろ? それ今さら何を――」

「母さん、死んだのは、火事のせいじゃないかもしれないって、昨日知った」

 その瞬間、結彩の視界がぐらりと揺れた。藍の声が震えていないことに気づいて、逆に恐ろしくなった。

 火事のせいじゃない。

 じゃあ、なぜ彼女は死んだのか。

 女――白藤が控えめに口を挟んだ。

「その手紙、というのがどこにあるか、彼は図書館の奥に保存された文書の中にあると信じていて……ですが、取り壊しはすでに始まっており、立ち入りは禁止区域です。今回は特例で警告に留めますが、今後は……」

 その声が、白い壁に空しく反響する。

 藍は視線を足元に落とした。

 だが、次の瞬間には、その目に確かな光が灯っていた。

「――次は、壊される前に探します。正式に」

 玲希が目を見開き、結彩が思わず「はぁ!?」と声を上げた。

 だけど、誰よりも驚いていたのは、藍自身だった。

 目立つのが苦手で、いつも空気にまぎれていた自分が、こうして人前で、意志を持って言葉を吐いたことに。

 白藤が、やや感心したように藍の顔を見つめた。

「……では、正式に申請書をお出しください。生徒会を通じて、協力できる範囲で動きます」

「ありがとうございます」

 その言葉が、はっきりと聞こえた。

 藍が教室の中にしっかりと“在る”と感じられたのは、きっと、この瞬間が初めてだった。


 旧図書館の記録室は、市街の北端――坂の上にある。

 地元住民でもほとんど訪れないこの場所に、藍は今、一人で立っていた。

「……空気、重いな」

 フェンス越しに見える建物はすでに周囲を囲われ、資材の仮置きスペースになっている。

 数枚のトタンの裏に隠れるようにして、藍はフェンスに沿って歩いた。立入禁止の立て看板の向こう側――その先に、記録室がある。

 彼の手には、学校から正式に発行された調査許可証と、文化部代表の署名が入った申請書があった。

「本当に、協力してくれるとは思わなかった……」

 呟きながら、ポケットの中のスマホを握りしめる。

 それには、先日――結彩が撮ってくれた「文化部の正式な活動として、手紙の由来を調べる」ための発表会資料の画像が入っていた。

 あの日、結彩が唐突に言ったのだ。

「じゃあ、文化部として正式にやればいいじゃん。手紙の真偽調査、みたいな名目で」

「そんなの、誰も協力してくれないだろ……」

「いいよ、私が書く。うちの部、書類上は“言語表現研究会”だし」

“言語表現研究会”。存在すら忘れられていた部活。

 だがそれが、藍を支える言葉になった。

 記録室の扉は、すでに取り外されていた。

 そこから入る風は、湿った紙の匂いと、埃の刺激を鼻に残した。

 瓦礫に足をとられながら、藍はかつて「保存区域」と呼ばれていた奥へ進む。

 棚の中、崩れかけた資料ファイル、茶封筒、金属製の書類ケース――。

 片っ端から手に取り、開けては次を探す。

 だが、母の名前が記された文書は出てこない。

「……なにか、手がかりだけでも」

 不意に、棚の奥に押し込まれた古い封筒が目に入った。

 他の書類と違い、ホチキス留めではなく、リボンで結ばれている。

 封筒の端には、うっすらと滲んだインクで名前があった。

「……高城瑞穂」

 藍の目が見開かれる。

 それは、彼の母の旧姓だった。

 震える手で紐を解き、中身をそっと取り出す。

 薄紙の便箋に書かれた文字は、所々に焦げ跡があり、全体を読むことはできない。

 だが、確かに書かれていた。最後の一行に――

「……どうか、あの子には真実だけでも、届きますように」

 藍は膝をついた。

 涙ではなかった。息が詰まり、身体の芯が凍りついたような感覚だった。

 母は、何を知っていた?

 なぜ、それを遺すためにここに?

「真実……って、何……?」

 その時、背後から小さな物音が聞こえた。

 誰かの足音――

 振り返ると、そこには、懐中電灯を持ったひとりの女生徒が立っていた。

「……やっぱり、いると思った」

 華枝だった。

「勝手に来たの、怒っていいよ。でも、気になったの。……あの手紙、どうなったんだろうって」

 藍は何も言えなかった。

 ただ、その場に、彼女が来てくれたことが、少しだけ心を軽くした。

「わたし、記録読めるの得意なんだよ。文化祭の準備で古文書漁ったことあるし。……手伝おうか?」

 ――この瞬間、藍の中に、ひとつの覚悟が芽生えた。


 教室の掲示板に、新たな紙が一枚、貼り出された。

 それは、結彩が印刷して持ってきた「文化部調査報告会・第一回案内」だった。

 タイトルの下に添えられていた小さなサブタイトルには、こうあった。

「焼け残った手紙に隠された真実」

 ──旧図書館文書資料にみる過去と現在の交錯

「……なんか、すごいタイトルにしちゃったなあ」

 結彩はプリントを貼り終えると、少し離れて眺めて、眉をしかめた。

 隣で見ていた華枝は、小さく頷いた。

「でも、いいと思う。藍くんの話、ちゃんと形にしようとしてるって伝わるし。……なにより、面白そうだよ」

「ねえ、あのさ。結局さ、その“真実”ってなんなの? あの手紙に書いてあったこと、全部は読めなかったんだよね?」

「うん。でも、“あの子には真実だけでも届きますように”って書いてあったって藍が言ってた」

「じゃあ、その“真実”っていうのが何なのかを、これから探すんだ」

 二人の会話を横から聞いていた玲希が、手帳にマカロンのシールを貼りながら口を挟んだ。

「俺さ、あの藍がこんな行動すると思わなかったよ。つーか、“あの子には真実だけでも”って、それ結構重くね? 重くても気づかないふりしてた方が楽な時もあるじゃん?」

「うん。でも――」

 結彩が言葉を止めて、藍の席を見た。今は空席ではない。本人が、ちゃんと“そこにいる”のだ。

「……知りたいって思ったなら、もう戻れないんだと思う」

 玲希が鼻で笑った。

「ったく、真面目か。まあいいけどな。俺は“真実”より“今”が楽しい方がいい派だから」

「玲希、協力はしてくれるの?」

「するよ? 俺、資料室の鍵、今でも職員室の棚から勝手に借りられるし」

「それ、協力っていうか犯罪に近くない?」

「気にすんなって。あとで返せばセーフ」

 結彩が肩をすくめる。玲希の協力は“信用ならないけど頼れる”という、妙なバランスで成り立っていた。

 その日の放課後。

 文化部の活動記録として、藍・結彩・華枝・玲希の4人は、正式に旧図書館の保存資料閲覧申請を提出した。

 申請理由は、「文化的遺産の記録と家族の記憶に関する調査」。

 提出時、対応した教頭が小さくため息をつきながらも「……面白いこと考えるな」と漏らした。

 許可は降りた。

 ──そして、数日後。

 学校の視聴覚室にて、「調査報告会準備会」が開かれた。

 ただし、参加者はまだ四人だけ。

 だが、その中央に立っていた藍の表情は、最初に比べて明らかに変わっていた。

 静かだけど、確かに何かを信じて前を見ている顔だった。

「今日から、僕たちはこの“手紙”を軸に、母が遺そうとしたものを掘り起こしていきます」

「それはきっと、個人的なことに見えるかもしれないけど、誰にでもある“家族の記憶”や“記録の意味”とつながるはずです」

 壇上のスクリーンに映し出されたのは、焼け焦げた便箋の写真と、その最後の一文。

 教室は静まり返ったまま、誰もが息を飲んでいた。

「……では、始めましょう。文化部として、最初の報告会を」

 藍の言葉と共に、プロジェクターのライトが再び強く輝いた。


(第一章 完)


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