午後の教室は沈黙という名の安堵で満たされていた。
教卓の前、木製の掲示板には「生徒会・文化部代表会議」の紙が斜めに画鋲で止まっていて、書き込み欄にはびっしりと黒い字が連なっている。藍の名前もその一番下に記されていた。
――ただし、代理出席。
藍自身は教室にいなかった。隣の席に座る結彩が、プリントの端を指でくるくると丸めながら、ため息をついた。
「なんであの人、ああいう時だけ目立つんだろ」
声に棘はない。むしろ心底不思議そうだった。藍はいつも教室の隅っこにいて、ノートを開いては閉じ、誰にも話しかけず、誰にも見つからないように存在していた。
だけど、会議にだけは、なぜか毎回出る。しかも、誰の推薦でもなく、自ら「行きます」と言い出す。
結彩の視線の先にある空席。そこに、気配は残っていない。
「……いないのに、空気だけ座ってるみたいだね」
彼女は独り言を呟くと、自分の机に散らばったペンとメモ帳、スティックのりのキャップをようやくまとめにかかった。床に落ちていたプリントは、どこかで踏まれて足跡がついている。
その時、教室の後ろのドアが開いた。
「おーい、結彩! また藍いねえの?」
声の主は玲希。髪の毛を後ろで結び、シャツを第一ボタンまで開けたまま入ってくる。制服のルール? そんなの知ったこっちゃない。
「いないよ。代理出席だって。……玲希、それ何持ってるの?」
「マカロン。新作。駅前のカフェでバイトの子にタダでくれたんだ。超うめーぞ、食う?」
差し出されたカラフルな包みに、結彩は「後で」と首を振る。玲希は気にせず自分で一つ開けて口に入れ、しばらく黙ってから、教室の空席を見た。
「……あいつ、最近なんか焦ってるよな。顔に出てる」
「いつも出てない? 『俺ここにいません』っていう顔」
玲希が笑った。けれど、どこか真面目なまなざしだった。
「いや。今は『俺、何か成し遂げたい』って顔してる」
その言葉に、結彩は一瞬だけ眉を寄せた。そこにこそ、違和感があったからだ。
藍は、いつも「いなくなりたい」ような目をしていた。それが「何かしたい」って、どういう心境の変化?
教室の空気がゆるく波打つように、扉がもう一度開いた。
「失礼します。文化部関係者の方、いらっしゃいますか?」
制服ではない、大人の女性が立っていた。スーツの裾が風に揺れている。
見覚えのない顔――だけど、その後ろに立っているのは、紛れもない藍だった。
何故か、顔に泥がついていた。
藍は、まるで現実の景色に馴染まない影法師のように、女の後ろでじっと立っていた。
髪は乱れて、頬のあたりに細かな傷がいくつか。制服の左袖には、こすれたような黒ずみが見える。
「……どうしたの、それ」
結彩が最初に口を開いた。興味というより、確認のための声だった。藍はその問いに答えず、代わりに女の方が一歩前に出てきた。
「本校の生徒会顧問の先生はいらっしゃいますか?」
「生徒会顧問? この時間にはいないはずだけど……何かあったんですか?」
玲希が眉をひそめて、マカロンを口に入れる手を止める。女は軽く頭を下げた。
「突然すみません。私は市内の旧図書館再編事業を担当している白藤と申します。実はこの生徒さん――藍さんが、図書館の取り壊し現場に入り込んで、火災報知器を鳴らした件で、少し事情を伺っておりまして」
「……火災報知器?」
「そうです。幸い火は出ていませんが、警備の記録によると内部で何かを探していた様子でした。生徒手帳からこちらの学校に連絡をしまして……」
その場の空気が、一気に硬直する。
玲希が舌打ちした。
「おい藍、お前、また変なことやってんのかよ」
藍は、初めて口を開いた。
「……俺、燃えてなかったから、壊れてないかもって、思って……」
「何を?」
「……手紙、です」
彼の目は、黒板の上を過ぎ、教室の天井に向いていた。誰の目も見ず、言葉だけが教室の空気を引っ掻くように浮いていた。
結彩が、低い声で問い返す。
「誰の手紙?」
しばらくの沈黙のあと、藍はただ一言、言った。
「……母の」
玲希が手にしたマカロンを机に叩きつけるように置いた。
「は? お前、家燃えてんのって去年だろ? それ今さら何を――」
「母さん、死んだのは、火事のせいじゃないかもしれないって、昨日知った」
その瞬間、結彩の視界がぐらりと揺れた。藍の声が震えていないことに気づいて、逆に恐ろしくなった。
火事のせいじゃない。
じゃあ、なぜ彼女は死んだのか。
女――白藤が控えめに口を挟んだ。
「その手紙、というのがどこにあるか、彼は図書館の奥に保存された文書の中にあると信じていて……ですが、取り壊しはすでに始まっており、立ち入りは禁止区域です。今回は特例で警告に留めますが、今後は……」
その声が、白い壁に空しく反響する。
藍は視線を足元に落とした。
だが、次の瞬間には、その目に確かな光が灯っていた。
「――次は、壊される前に探します。正式に」
玲希が目を見開き、結彩が思わず「はぁ!?」と声を上げた。
だけど、誰よりも驚いていたのは、藍自身だった。
目立つのが苦手で、いつも空気にまぎれていた自分が、こうして人前で、意志を持って言葉を吐いたことに。
白藤が、やや感心したように藍の顔を見つめた。
「……では、正式に申請書をお出しください。生徒会を通じて、協力できる範囲で動きます」
「ありがとうございます」
その言葉が、はっきりと聞こえた。
藍が教室の中にしっかりと“在る”と感じられたのは、きっと、この瞬間が初めてだった。
旧図書館の記録室は、市街の北端――坂の上にある。
地元住民でもほとんど訪れないこの場所に、藍は今、一人で立っていた。
「……空気、重いな」
フェンス越しに見える建物はすでに周囲を囲われ、資材の仮置きスペースになっている。
数枚のトタンの裏に隠れるようにして、藍はフェンスに沿って歩いた。立入禁止の立て看板の向こう側――その先に、記録室がある。
彼の手には、学校から正式に発行された調査許可証と、文化部代表の署名が入った申請書があった。
「本当に、協力してくれるとは思わなかった……」
呟きながら、ポケットの中のスマホを握りしめる。
それには、先日――結彩が撮ってくれた「文化部の正式な活動として、手紙の由来を調べる」ための発表会資料の画像が入っていた。
あの日、結彩が唐突に言ったのだ。
「じゃあ、文化部として正式にやればいいじゃん。手紙の真偽調査、みたいな名目で」
「そんなの、誰も協力してくれないだろ……」
「いいよ、私が書く。うちの部、書類上は“言語表現研究会”だし」
“言語表現研究会”。存在すら忘れられていた部活。
だがそれが、藍を支える言葉になった。
記録室の扉は、すでに取り外されていた。
そこから入る風は、湿った紙の匂いと、埃の刺激を鼻に残した。
瓦礫に足をとられながら、藍はかつて「保存区域」と呼ばれていた奥へ進む。
棚の中、崩れかけた資料ファイル、茶封筒、金属製の書類ケース――。
片っ端から手に取り、開けては次を探す。
だが、母の名前が記された文書は出てこない。
「……なにか、手がかりだけでも」
不意に、棚の奥に押し込まれた古い封筒が目に入った。
他の書類と違い、ホチキス留めではなく、リボンで結ばれている。
封筒の端には、うっすらと滲んだインクで名前があった。
「……高城瑞穂」
藍の目が見開かれる。
それは、彼の母の旧姓だった。
震える手で紐を解き、中身をそっと取り出す。
薄紙の便箋に書かれた文字は、所々に焦げ跡があり、全体を読むことはできない。
だが、確かに書かれていた。最後の一行に――
「……どうか、あの子には真実だけでも、届きますように」
藍は膝をついた。
涙ではなかった。息が詰まり、身体の芯が凍りついたような感覚だった。
母は、何を知っていた?
なぜ、それを遺すためにここに?
「真実……って、何……?」
その時、背後から小さな物音が聞こえた。
誰かの足音――
振り返ると、そこには、懐中電灯を持ったひとりの女生徒が立っていた。
「……やっぱり、いると思った」
華枝だった。
「勝手に来たの、怒っていいよ。でも、気になったの。……あの手紙、どうなったんだろうって」
藍は何も言えなかった。
ただ、その場に、彼女が来てくれたことが、少しだけ心を軽くした。
「わたし、記録読めるの得意なんだよ。文化祭の準備で古文書漁ったことあるし。……手伝おうか?」
――この瞬間、藍の中に、ひとつの覚悟が芽生えた。
教室の掲示板に、新たな紙が一枚、貼り出された。
それは、結彩が印刷して持ってきた「文化部調査報告会・第一回案内」だった。
タイトルの下に添えられていた小さなサブタイトルには、こうあった。
「焼け残った手紙に隠された真実」
──旧図書館文書資料にみる過去と現在の交錯
「……なんか、すごいタイトルにしちゃったなあ」
結彩はプリントを貼り終えると、少し離れて眺めて、眉をしかめた。
隣で見ていた華枝は、小さく頷いた。
「でも、いいと思う。藍くんの話、ちゃんと形にしようとしてるって伝わるし。……なにより、面白そうだよ」
「ねえ、あのさ。結局さ、その“真実”ってなんなの? あの手紙に書いてあったこと、全部は読めなかったんだよね?」
「うん。でも、“あの子には真実だけでも届きますように”って書いてあったって藍が言ってた」
「じゃあ、その“真実”っていうのが何なのかを、これから探すんだ」
二人の会話を横から聞いていた玲希が、手帳にマカロンのシールを貼りながら口を挟んだ。
「俺さ、あの藍がこんな行動すると思わなかったよ。つーか、“あの子には真実だけでも”って、それ結構重くね? 重くても気づかないふりしてた方が楽な時もあるじゃん?」
「うん。でも――」
結彩が言葉を止めて、藍の席を見た。今は空席ではない。本人が、ちゃんと“そこにいる”のだ。
「……知りたいって思ったなら、もう戻れないんだと思う」
玲希が鼻で笑った。
「ったく、真面目か。まあいいけどな。俺は“真実”より“今”が楽しい方がいい派だから」
「玲希、協力はしてくれるの?」
「するよ? 俺、資料室の鍵、今でも職員室の棚から勝手に借りられるし」
「それ、協力っていうか犯罪に近くない?」
「気にすんなって。あとで返せばセーフ」
結彩が肩をすくめる。玲希の協力は“信用ならないけど頼れる”という、妙なバランスで成り立っていた。
その日の放課後。
文化部の活動記録として、藍・結彩・華枝・玲希の4人は、正式に旧図書館の保存資料閲覧申請を提出した。
申請理由は、「文化的遺産の記録と家族の記憶に関する調査」。
提出時、対応した教頭が小さくため息をつきながらも「……面白いこと考えるな」と漏らした。
許可は降りた。
──そして、数日後。
学校の視聴覚室にて、「調査報告会準備会」が開かれた。
ただし、参加者はまだ四人だけ。
だが、その中央に立っていた藍の表情は、最初に比べて明らかに変わっていた。
静かだけど、確かに何かを信じて前を見ている顔だった。
「今日から、僕たちはこの“手紙”を軸に、母が遺そうとしたものを掘り起こしていきます」
「それはきっと、個人的なことに見えるかもしれないけど、誰にでもある“家族の記憶”や“記録の意味”とつながるはずです」
壇上のスクリーンに映し出されたのは、焼け焦げた便箋の写真と、その最後の一文。
教室は静まり返ったまま、誰もが息を飲んでいた。
「……では、始めましょう。文化部として、最初の報告会を」
藍の言葉と共に、プロジェクターのライトが再び強く輝いた。
(第一章 完)