春の午後。
旧図書館跡地の裏手にある広場に、小さな掲示板が設置された。
そこには、新しい案内板が掲げられている。
《ここにはかつて、記録の倉庫がありました。
多くの声が、残されることもなく沈黙していた場所です。
けれど、あるひとりの若者の“朗読”により、その沈黙が語られ始めました》
《この広場を、「灯の庭(ひのにわ)」と呼びます。
語られなかった声、呼ばれなかった名前に、
そっと灯をともすように》
藍は、その前に立ち尽くしていた。
背後では、玲希がカメラを構えていて、結彩が木陰でパンフレットを配り、
早羅が「塩撒くべきだった」とぼやきながらも、笑っていた。
「……ここ、最初に来たときはただの空き地だったのにね」
「うん。まさか、こんなふうに“名前”がつくなんて思わなかった」
藍はふっと目を細め、掲示板の下に手を伸ばした。
そこには、小さなプレートが埋め込まれている。
《寄贈者:市立高校文化部有志一同》
「なあ、藍」
玲希が呼ぶ。
「お前は、これからも語るのか?」
藍はしばらく考えてから、静かにうなずいた。
「語る。でも、それは“語られなかった声のため”じゃなくて……“これから語る自分のため”に」
結彩が近づいてきて、にこりと笑った。
「……そうだね。誰かのためって思うと、苦しくなるもんね。
“誰かに届いたら嬉しい”くらいでちょうどいいんだと思う」
藍は、自分の中で何かが静かに完結していくのを感じていた。
でもそれは、終わりではない。
むしろ、ここから始まる。
誰の言葉でもない、自分の“生きる声”を記していく物語。
灯の庭に吹く風が、ページを一枚だけめくった。
新しい白紙が現れた瞬間――藍はペンを走らせる。
《この言葉が、
わたし自身のための灯になりますように》
そしてその灯が、
いつか誰かの暗がりを照らすことがあるのなら、
きっとそれで、十分だ。
(完)