神奈川からの出張を終え、大和市へと装甲車で戻る生物庁の3人――神薙空、アリス、そしてレナは、静かな帰路をたどっていた。装甲車の車内は、任務を終えた余韻が漂い、緊張感が少し緩んでいたが、誰もが心のどこかで、次の事態に備える心構えをしていた。
運転席の空が視線を前方に向けながら口を開いた。「神奈川県警からテロ犯罪記録としてデータ収集してほしいって。俺等はあくまで生物専門だぞ?」
空が前方に視線を固定したままぼやくように言葉をこぼすと、彼女は椅子に深く座り直しながら、苛立ちを隠さずに言葉を放った。「そうだ!そうだ!ケツに鎖ぶち込んでやる!」その声には普段の軽口に加えて、ほんの少しの怒りが含まれていた。彼女の言葉は冗談交じりではあるが、テロ対策を生物庁の任務に押し付けようとする他機関に対する不満が表れていた。
「相変わらず言葉遣いが……」後部座席で静かにしていたレナが、ため息をつきながらアリスをたしなめた。「まあ、警察も追いついていない現状だろうからね。テロ事件が絡むと、どうしても私たちに頼ってくるのは分かるけど……負担が増えるのも事実だよね」
「人件費倍貰わせろー!ハンバーガーたらふく食わせろー!」
アリスが抗議しながら冗談を言い、車内に少しだけ和やかな雰囲気が漂った。だが、言葉の裏には本音も垣間見えた。生物庁の任務は、異常な生物や突然変異体との対峙だけでなく、他機関が手を出せない問題を背負い込むことも少なくなかった。今回も例外ではなく、彼らに押し付けられた任務に対する不満は募る一方だ。
空はハンドルを握りしめながら軽く笑い、「ほんとだな。せめてこの装備をアップグレードしてもらうか、ちょっとした危険手当くらいは欲しいもんだ」と肩をすくめて言った。「危険手当ねぇ…それで足りるの?」レナが冷静な口調で言いながら、背もたれに身を預けた。「前回の制圧任務でも負傷した隊員がいたし。そう簡単に危険を終わらせるような仕事じゃないものね」とレナが呟いた。彼女の声には、任務の過酷さを知る者としての冷静さと疲労感が滲んでいた。彼女は仲間の命を守るため、常に冷静な判断を心がけているが、その重みを自分一人で抱えていることもしばしばあった。「ふーん、なるほど」
アリスはそんなレナの表情を見て、少し真剣な顔つきになる。「ねぇ浮気者。いつも気を張ってるのは分かるけど、たまには肩の力を抜けたら?空だって笑うんだからさ」
「あらそうですか?貴方には言われる筋合いはないと思いますけど?」レナは皮肉めいた笑みを浮かべてアリスを見やり、軽く肩をすくめた。その言葉には少しの冗談と、ほんの少しの疲労が混じっていた。
「浮気者とか何の話だよ……」空が苦笑しながらハンドルを握り直す。「アリス、お前は俺に告白すらしていないのに、レナを浮気者呼ばわりは筋違いだろ」と空は冗談混じりに応じ、車内にわずかに笑いが広がった。アリスは目を細めて「だってこんな真面目くさった顔してる女、空を絶対襲おうとしてる」アリスは少し意地悪そうな悔しい怒り浮かべながら、空に向かって肩をすくめてみせた。
「ちょっと待て待て!……勘違いしないで欲しいけど私は空を襲うことなんて考えてもいないわよ!」とレナは顔を赤らめながら、アリスの言葉を否定した。その反応を見たアリスは思わず笑いをこらえ切れず、さらにからかいを続ける。「あ!顔が真っ赤じゃない!絶対襲おうとしてる!」
空は少し疲れた表情を浮かべながら、「お前ら、頼むから仲良くしてくれ。俺が運転してるんだから、あんまり車内で大騒ぎされると事故るだろう」と、苦笑いを浮かべながら言った。空の言葉に、アリスは肩をすくめて「了解、隊長!」とふざけた敬礼をしてみせ、レナもため息をつきながら「分かったわ、空」
「了解した」
冷静な声で応じたその声の正体は、後部座席の中央から発せられた腕を組むムラトであった。
「うわぁぁあ!!」
「きゃぁぁあー!!」
「ば、化け物ー!!」
突然、車内の空気が一変した。ムラトの冷静な声に反して、空、アリス、そしてレナは一瞬にして緊張状態に引き戻された。
「おい誰だ?私のこと化け物って呼んだ人?」
空、アリス、そしてレナの目が一斉にムラトに向けられ、装甲車内に緊張が走った。しかし、ムラトは眉一つ動かさず冷静な表情のまま、腕を組んで座っていた。その様子がかえって異様で、空は少し眉をひそめながら慎重に口を開いた。「ム、ムラト?一体どうやってここに……いや、そもそも何のためにここにいるんだ?」
アリスは震えるように身を乗り出し、ムラトを指差しながら大げさに叫んだ。「いやいやいや!どうやって入り込んだの!この装甲車、厳重にロックしてあるはず!?それとも、幻覚?私たち疲れてるから……幻覚見てるのかも……?」
レナは少し冷静さを取り戻しつつ、ムラトをじっと見つめた。「何か目的があるのよね。黙ってこんなところに潜り込むなんて」
ムラトは穏やかに笑みを浮かべ、「驚かせてすまない。ただ、少しだけ君たちと話がしたかったんだ。それと……誰だ化け物って言った奴?」
ムラトの穏やかな笑みと冷静な口調が、逆に空気を一層重くした。装甲車内の緊張感は一気に高まり、ムラトが自分の存在を認めた途端、誰もが警戒の色を隠せなかった。
「は、はい!私です!」
アリスが震えながら手を挙げ、ムラトに答えた。ムラトは微笑を浮かべ、足を組みながら背に凭れた。
「お〜そうかそうか〜、正直でよろしい。じゃあ君は神の生贄に決定だな」
装甲車内に張り詰めた空気がさらに重くなり、誰もが一瞬息を呑んだ。ムラトの言葉は穏やかな笑みとともに放たれたが、その内容には冗談とは思えない重みがあった。空はハンドルを握る手に力を込め、注意深くムラトの様子を見つめた。
「おい、ムラト……どうやって入ったんだ?」
ムラトは軽く肩をすくめ、穏やかな表情を崩さずに答えた。「あー、トランクが空いてたからそこに入った」
ムラトの言葉に、空、アリス、そしてレナは一瞬呆然とした表情を見せた。空は運転しながら混乱したように眉を寄せ、思わず声を上げた。
「トランクが空いてたからって……あり得ないだろ。俺たちが出発する前に確認したはずだし、そもそもこんな装甲車に簡単に入り込めるわけがない」
アリスは半信半疑の表情でムラトを見つめながら、「え、待って、じゃあずっとトランクに潜んでたってこと?いつからここにいるの!?」と質問を投げかけた。彼女の顔には疑念と驚きが混ざり合っていた。
ムラトは肩をすくめながら、「出発前からいたさ。少し退屈だったから、隠れて君たちの様子を見てた。まあ、なかなか面白かったけどね」とさらりと答えた。その言葉に、アリスは一瞬言葉を失い、思わず口元を押さえた。
「なんだよそれ……!」レナが冷静さを保とうとしながらも呆れたように言い、ムラトをじっと見つめた。「冗談かと思ったけど、どうやら本当にその通りのようね。でも、それなら目的は何なの?わざわざこんなことをするなんて、ただの遊びじゃないでしょ?」
「いや、遊びで来た」
空、アリス、レナの三人はムラトの返答に一瞬唖然とした。装甲車内の緊張感が別の形でピークに達し、空はハンドルを握りながらため息をついた。
「遊びって……お前、本当に俺たちを驚かせるためだけにここまで来たのか?」
ムラトは穏やかな笑みを崩さずに頷いた。「いや?」
ムラトが言葉を切り、三人の視線が彼に集中した。
「いつここで言おうか迷ってたけどー、あれだ。ベータの件の情報を一部掴んだから、それを伝えに来た。」
一瞬、装甲車内の空気が凍りついたように静まり返った。アリスが思わず声を上げた。「え、ベータ?また?それってどういうことよ!」
ムラトは真剣な表情で頷き、「β144 stage2って知ってるかい?」
ムラトの言葉に、装甲車内は一気に緊張感を取り戻した。「β144 stage2」という言葉が放たれた瞬間、空、アリス、そしてレナの表情が険しくなった。
「β144 stage2……?」空がハンドルを握りながら問い返す。彼の声には、聞き覚えのある単語に対する警戒心が滲んでいた。「あの異常個体、さらに進化したってことか?」
ムラトはゆっくりと頷き、冷静な口調で説明を始めた。「そうだ。正確には、β144の変異体が確認された。それだけじゃない。奴らの知能がさらに向上している可能性が高い。単独行動だった144とは異なり、群れを成して動いているという情報が入った」
「群れを成して……」レナが言葉を繰り返しながら、眉をひそめた。「つまり、戦術的に連携を取るようになったということ?」
「その通り。奴らはもはや単なる生物兵器じゃない。高度な知能を持った、新しい脅威だ」とムラトが静かに答える。その言葉には冗談や戯けた様子は微塵もなく、彼の表情は真剣そのものだった。
アリスは目を見開きながら、「それって、今までのベータ144よりも厄介ってことじゃない!?単独でもあんなに手こずったのに、群れで来られたら……」と焦燥感を隠せずに声を上げた。
「まだ確定的なことは言えないが、複数の目撃情報がある。おそらくβ144 stage2は、新たなリーダー的存在を中心に行動している」とムラトは続けた。「この進化の速度は異常だ。原因を突き止めない限り、奴らの脅威は拡大し続けるだろう」
空は運転席で一瞬考え込み、ある数週間前の耕平を思い出した。防衛線に守られた橋の遠くから現れたベータの大群の記憶がふとよぎった。あの事件も、単なる偶然ではなかったのかもしれない――そう考えると、胸の奥で何かが引っかかる感覚を覚えた。
「ムラト、その情報はどこから手に入れたんだ?」空が運転席から問いかけると、ムラトは静かに視線を外に向け、わずかに口元を引き締めた。
「信頼できる筋からだよ。具体的な名前は出せないが、海外の研究機関や情報ネットワークからもたらされた情報が統合された結果だ。特に、国際的な観測データでは、似たような異常体が別の地域でも確認されている。大和市だけの問題じゃないんだ」
空はハンドルを握る手に力を込めながら、ムラトの話に耳を傾けた。アリスとレナも息を飲むようにして話を聞いている。
「そのリーダー的存在……具体的にどんな能力を持っているか、情報はあるのか?」レナが冷静に質問した。
ムラトは少し考え込みながら答えた。「まだ詳細は分からない。ただ、これまでのベータ144以上の知能を持ち、指揮能力を備えている可能性が高い。群れ全体が戦術的な動きを見せている以上、その中心にいる存在が行動を統制していると考えるべきだ」
「それじゃ、奴らが組織化されてるってこと……?」アリスが驚愕の声を上げた。「ただの生物じゃなくて、まるで軍隊みたいに?」
「その可能性がある」とムラトは真剣な表情で頷いた。「そして、彼らの目的も単なる生存ではなく、明確な意図を持っているようだ。その証拠に、いくつかの地域でベータ144群が資源やエネルギー施設を狙っている事例が確認されている」
「資源やエネルギー施設……まるで戦略的に動いているみたいだな」と空が呟いた。
「そう。これがただの進化や偶然で起きているとは思えない。誰かが、もしくは何かが、奴らを進化させ、目的を与えている可能性がある」とムラトは低い声で言った。
その言葉に、車内の空気はさらに重くなった。誰もが、この新たな情報がもたらす意味を考え始めていた。
「じゃあ、次の動きはどうする?」アリスが緊張した声で尋ねた。
ムラトは一瞬だけ黙り、背に凭れるとゆっくりと口を開いた。「知らない。私は専門家ではないからね。ただ、君たち生物庁の役割は、彼らの脅威を食い止めることだ。次の動きは上層部の判断に委ねられるだろう。ただし、私が掴んだ情報は、あくまで一部に過ぎない。奴らの完全な目的や正体はまだ分からない。だからこそ、君たちが前線で確認する必要があるんだ」
空は深い息をつきながら、「結局、俺たちにまた面倒な任務が回ってくるってことか」とつぶやいた。
アリスは苦笑しながら、「面倒な任務がなきゃ、私たちの出番もないけどね」と肩をすくめた。「それにしても、群れを成して戦略的に動くベータ……私たちの仕事がどんどん難しくなっていくわけだ」
レナは沈黙を保ちながら窓の外を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。「ムラトの言うことが正しいなら、早急に準備を整える必要がある。次に何が起きるか分からない以上、こちらから積極的に情報を収集し、奴らの動きを追跡するべきね」
「そうだな。次に奴らが動く前に、こっちが一歩先を行かなきゃならない」と空も同意した。
ムラトは頷きながら、真剣に運転する後ろ姿の彼を見つめた。「…………なぁ依頼者。躊躇しなくていいよ。まだあの人を根に持ってるなら私に命令するのが妥当だ。」ムラトが静かに続けると、車内の空気が再び引き締まった。空は一瞬だけムラトの言葉の意味を考えながら、視線を前方の道路に戻した。
「お前、何が言いたい?」空は慎重に言葉を選びながら尋ねた。
ムラトは穏やかな笑みを浮かべたまま、「私が言いたいのは、あの時の判断が君の心に影を落としているのなら、それを振り切る方法を考えたほうがいいってことさ」と応じた。その声には冷静さと、どこか挑発的な響きが混じっていた。
アリスが顔をしかめながら、「ねえ、何の話?あの人って誰のこと?」と問いかける。レナも同じ疑問を抱いている様子で、ムラトの話に耳を傾けていた。
空は一瞬言葉を飲み込み、ハンドルを握る手に力を込めたが、やがて静かに口を開いた。「ムラト、前の話を今ここで蒸し返すな。俺の判断が正しかったのか間違っていたのか、それはもうどうでもいいことだ」
ムラトは肩をすくめ鼻息で一呼吸すると窓側を見つめた。「――悪かった」
空は一瞬、ムラトの謝罪に言葉を失い、車内に静寂が流れた。アリスとレナも、ムラトの意外な反応に少し驚いた様子だったが、誰もその場で言葉を発することはなかった。
装甲車のエンジン音だけが静寂を切り裂きながら、夜の道路を進んでいく。空はその沈黙を破るように、慎重に言葉を紡いだ。
「ムラト……別に謝る必要はない。お前の言うことも分かる。だけど、今は次のことを考えたい。俺たちの目の前にある問題に集中したいんだ」
ムラトは窓の外を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。「悲しくはないのか?」
空はムラトの問いかけに一瞬沈黙した。装甲車のエンジン音が車内を支配する中、その静けさが彼の心の中を映し出しているかのようだった。空は目を細めながら前方の道路を見つめ、やがて静かに口を開いた。
「悲しいか……悲しいな。……だけど、俺たちが止まらなければならない理由にはならない」
その声には疲労感が滲んでいたが、どこか決意の色も含まれていた。アリスが助手席でそっと空を見つめ、「空……何の話?」
空はアリスの問いに一瞬黙り、ハンドルを握る手にわずかに力を込めた。装甲車の中は、彼の言葉を待つ静寂に包まれた。やがて、彼は深く息を吸い込み、ため息のように言葉を吐き出した。
「何でもない。大した話じゃない」と空は言葉を切り、視線を前方の暗闇に向けたまま、話を終わらせた。彼の声には、これ以上話をしたくないという明確な意思が感じられた。
あの少女の優しい顔がふと脳裏に浮かび、空は思わず目を閉じかけたが、すぐに意識を引き戻した。装甲車の運転に集中するべきだと自分に言い聞かせながらも、胸の奥に押し込めた感情が不意に溢れそうになるのを感じた。
車内の空気は一瞬のうちに重たくなり、アリスもレナもそれ以上は問い詰めることができなかった。空が抱える何かがあることを二人は察していたが、それがどんな過去であるのか、深く入り込む勇気はなかった。
ムラトはそんな空気を感じ取りながら、静かに窓の外を見つめていた。装甲車の外には、夜の街並みが静かに流れていく。
突然、装甲車の左後ろのタイヤから耳障りな音が響き、車体がぐらついた。空はすぐにハンドルを握り直し、車を安定させようと必死になった。
「何だ!?」空が叫び、装甲車を止めるためにブレーキをかけた。タイヤが路面をこすり、車内に緊張感が一気に戻った。
「パンク!?それとも爆発!?」アリスが警戒心をあらわにして助手席の窓から外を確認しようとした。
レナが装甲車から降り、拳銃を構えながら周囲を見渡す。空とアリスも武器を手にして警戒態勢を取った。ムラトはその様子を冷静に見守りつつ、何かを感じ取ったようにゆっくりと車外へと出た。
夜の静寂を切り裂くかのように、不気味な金属音が遠くから響いてくる。装甲車の左後ろのタイヤは確かにパンクしていた。その原因はタイヤに突き刺ささった針だった。
「この辺に針でも落ちたか?」
ムラトがタイヤを覗き込みながら呟くと、レナが辺りを警戒しつつ低い声で返した。「そんな単純な話じゃないと思う。もし落ちてたら刺さることもないし、刺さったとしてもこのタイヤの層は厚いから多少の針なら耐えられるはず」
「確かに……何か意図的なものを感じる」とムラトが険しい表情で言いながら、装甲車の下を確認した。
「アリスさん、トランクの中から黒いポーチ持って来て」
レナがアリスに指示を出すと、アリスは「了解!」と返事をし、装甲車のトランクへと急いだ。トランクを開け、指定された黒いポーチを取り出すと、すぐにレナの元へ駆け寄った。
「これでしょ?」アリスがポーチを手渡すと、レナは頷きながらポーチを受け取った。「そうそう、それ。タイヤの修理キットが入ってる」
レナはポーチを開け、迅速にタイヤの修理作業を始めた。周囲を警戒しながら、手早くパンクの原因を確認する。刺さった跡を丁寧に調べた後、レナは険しい顔つきでつぶやいた。
「複数の針跡確認…………って、これ穴空いた針だわ!?」
「穴空いた針?」アリスが驚きの声を上げる。
「ええ、これは偶然なパンクじゃないわ」レナは慎重に針を取り外しながら、細かく観察した。「この針、車のタイヤをパンクさせるために使われた可能性がある。しかも、かなり鋭く頑丈に作られている……テロ関連か、あるいはベータかもしれない」
空が険しい表情で言葉を継ぐ。「つまり、タイヤが狙われたってことか。偶然じゃなくて、誰かが仕掛けた?」
レナは頷き、針をビニール袋に入れて保存した。「その可能性が高いわ。この装甲車が狙われた理由は分からないけど、少なくとも敵意を持った誰かがいることは間違いない」
ムラトがタイヤの周囲を調べながら静かに言った。「不気味な金属音がしていたのは、これと関係があるのかもな。周囲に潜んでいる可能性がある。動的阻止として『BCA ニード4』を開始する」
その言葉に全員が緊張を強め、各々の武器を構えながら周囲を警戒した。空は通信機を手に取り、応援を要請するかどうかを迷っていたが、状況を判断してすぐに決断した。「念のため、応援を要請する。周囲の状況を確認しながら待機しよう」
アリスが散開して周囲を警戒し始め、レナはタイヤの修理を急ぐ。ムラトは装甲車の周りを歩きながら、不審な音や動きを探している。
「……何か、近づいてきてるかも」アリスが低い声で警告した。
その時、不気味な影が街路樹の間から気配を感じた。空が目を凝らすと、暗闇の中から小さい異形のシルエットが急に飛び出し、反射的に空は照準を、目の前の影に向けて引き金を引いた。銃声が夜の静寂を切り裂き、異形のシルエットが地面に叩きつけられる。弾丸が命中したその影は、綿が散乱したただの馬のぬいぐるみであり、車内は一瞬、静まり返った。空は銃を構えたままそのぬいぐるみをじっと見つめ、眉をひそめた。「何だ……これは?」
アリスが慎重にその場に近づき、ぬいぐるみを拾い上げた。「ただのぬいぐるみ……のわけがない。こんな状況で置かれるはずがないでしょ」
レナもその場に歩み寄り、ぬいぐるみを観察した。「見た目は普通のぬいぐるみだけど……でも中身も何も入ってないただのぬいぐるみだわ」
「ぬいぐるみ……ただの気味が悪い演出ってことか」空が慎重に言葉を選びながら、ぬいぐるみを見向きもしなかった。するとその時、彼の後頭部から銃口を突きつけられる冷たい感触が走った。
「動くな」低い声が、装甲車の静寂をさらに緊張させた。
空は静かに息を吸い込み、周囲の状況を即座に把握しようとした。アリスとレナとムラトは即座に武器を取り出すが、中学生ぐらいの見た目の少女から既にピンを抜いた手榴弾を二つ構えていることに気づいた。小柄で華奢な体格のその少女は、無表情ながらも冷静に状況を見据え、指先に引っ掛けたピンの抜けた手榴弾を軽く揺らしていた。
「下手に動けば、この手榴弾が装甲車ごと吹き飛ばす。分かるわよね?」少女の声は冷たく静かだったが、その言葉の裏には確かな殺気が込められていた。
空はじっと少女を見据えながら、頷いた。「分かった分かった。落ち着こうお嬢さん。俺たちは争いを望んでいない」
アリスがその場で動揺しつつも、冷静さを保とうと試みた。
「ふざけやがって、こんな雑魚二人に脅されるとか紫野郎以来の仕打ちか?今からでも八つ裂きにしてやる」ムラトが言葉を吐きかけたその瞬間、少女の指が手榴弾の一つをわずかに動かし、指先から滑り落とすような仕草を見せた。全員の目が手榴弾に集中し、空気が一層張り詰めた。
「動かないでって言ったでしょ?投げるよ?」少女の冷静な声が響く。
今にも神経が切れそうなムラトがその場で何とか息を整え、冷静さを保とうと努めた。「……覚えてろ、次は覚悟しとけ」
空は一瞬目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。「落ち着いてくれ。俺たちは敵じゃない。何が目的なんだ?こんな状況で現れたってことは、何か理由があるんだろう?」
少女は冷徹な目つきで空を見据えたまま、小さく首を傾げた。代わりに銃口を突き付ける20代の女性がゆっくりと口を開いた。「理由?そんなものは単純よ。物資を全部よこしなさい」
空はじっとその20代の女性を見据え、深く息を吸った。装甲車の車内には、緊張感が漂い、全員が身動きを取れない状況だった。手榴弾を握る少女と銃口を突きつける女性――彼女たちの表情には、迷いのない覚悟が伺えた。
「物資を全部って……俺たちにその余裕があると思うのか?」空が冷静に返す。
女性は微笑みながら銃を一瞬だけ押し当て、「余裕がなくても関係ないわ。あんたたちが持ってる装備、武器、食糧――全部よ。さもなければ、全員爆破する」と少女を示し、手榴弾をわずかに動かしてみせた。
ムラトがその様子を見ながら、低い声でつぶやく。「……強盗ってか? 何時から日本は強盗バカになったんだ?」その声には怒りと苛立ちが滲んでいた。
「黙ってなさい!」女性が銃口をムラトに向けた瞬間、空は冷静にその隙を見逃さなかった。
「待て!」空が強い声で制止する。「分かった。交渉しよう。だが、俺たちにだって生き残るための物資は必要だ。すべて渡すことはできない」
女性は眉をひそめながら、「交渉?冗談じゃない。私たちは命をかけてここに来たのよ。早く渡しなさい」と冷たく言い放つ。
「命をかけてるのはお互い様だ」と空が鋭く言い返したが、後頭部から殴られあまりの衝撃に激痛で空は頭を押さえながらゆっくりと立ち直り、後ろを振り返った。その視線には銃口を額に突き付けられて抵抗することもできなかった。20代の女性が冷たい視線で空を見下ろし、銃口をわずかに押し当てながら続けた。
「あなたには選択肢がない。物資を渡すか、ここで全員消えるか。それだけよ。今度は鉛玉をぶっ放すわよ」
空は額に当てられた銃口の冷たさを感じながらも、冷静さを保とうと必死だった。彼の視線は女性をまっすぐに捉えていた。その目は命を惜しまないような覚悟を秘めつつ、仲間を守るための強い意志が宿っていた。
「……分かった」空は静かに口を開いた。「物資を渡そう。ただし、俺たちの最低限の生存に必要な分は残させてくれ。それ以上は何も渡せない」
女性は銃口を下げずに空を睨み続けた。「あなたの交渉が通ると思ってるの?私たちは余裕がないのよ。全部渡しなさい」
「そうかもしれないが、俺たちも同じだ」と空は冷静に応じる。「俺たちがここで生き残れなければ、どんな状況だろうと、お前たちに次はない。俺たちを利用できる可能性を考えたほうがいい」
しかし、女性は散弾銃を真上に発砲した。轟音が夜空を裂き、装甲車内の全員が一瞬身を竦ませた。その音は威嚇であり、彼女の焦りと怒りが混ざり合っていた。周囲の空気がさらに緊張感を帯びる中、女性は冷たい目で空を見下ろしながら言葉を続けた。
「これは脅しの道具なんかじゃない。銃を使うことに躊躇なんてないわ。今すぐ物資を渡しなさい!」彼女の声は冷静でありながらも、切迫感と怒りがにじんでいた。手榴弾を握る少女も緊張した様子でじっと空と他の仲間たちを見つめ、状況を見守っている。
空は一瞬目を閉じ、深く息を吸い込んだ。その間に頭の中で状況を整理し、どうすれば全員を生き延びさせられるかを必死に考えていた。やがて、静かに目を開き、女性を見据えた。
「分かった、物資を渡す」空は言葉を選びながら、慎重に話を進める。「ただし、渡した後でこの場を去ってもらう。俺たちに必要最低限の分は残させてほしい。それが条件だ」
その時、レナが小さな声で空に向かってささやいた。「本当に全部渡すの?これじゃあ私たちが動けなくなるわ」
空はわずかに頷き、彼女に安心させるような視線を送った。「任せてくれ」
女性は銃を構えたまま、しばらく空を睨みつけていたが、やがて「早くしなさい」と言い放ち、銃口をわずかに下げた。
「アリス、トランクを開けて物資を見せてやれ」空が冷静に指示を出すと、アリスはためらいながらも動き始めた。
トランクが開かれ、備蓄されていた武器や食料、水が明るみに出る。少女はそれをじっくりと確認し、女性に向かって報告した。「物資と食料が3日分あるよ!」
女性はトランクの中身を一瞥し、冷徹な目つきで空を見据えた。「これだけ?これが全部ってわけないわよね」
空は冷静さを保ちながら返答した。「これが全てだ。それ以上は隠していない」
「確認するわ」と女性は少女に指示を出した。「手榴弾はそのまま構えていなさい。もし何かおかしな動きがあったらすぐに投げなさい」
少女は無言で頷きながら手榴弾をしっかりと握り直し、空たちを見張る。女性は慎重にトランクの中を漁り始めたが、明らかに疑念を抱いたままだった。
「これじゃ私たちの分を賄うには全然足りない。もう一度聞くけど、これで本当に全部なの?」女性が空に詰め寄る。
空は毅然とした表情で答えた。「何度も言わせるな。それが全部だ。これ以上は出せないし、出すものもない」
「嘘じゃないでしょうね?」女性の声に疑いが込められ、銃口が再び空に向けられる。
その瞬間、ムラトが静かに動き始めた。彼の表情は冷静そのもので、一瞬の隙をついて少女に向かって声をかけた。
「おい、君、名前は何ていうんだ?」
少女は驚いたようにムラトを見つめ、少し戸惑いながらも答えた。「リナ」
「リナか。いい名前だね」ムラトは穏やかな笑顔を見せながら続けた。「でも、こんな危険なことをしてる理由は何だ?君たちにも事情があるんだろう?」
リナは一瞬だけ表情を緩めたが、すぐに顔を引き締め、「もう会うことないから話す必要ないよね?じゃ、私達は帰りますんで」
リナが短くそう言うと、手榴弾を片手に持ったまま、女性の隣に立ち位置を変えた。女性はムラトと空たちをじっと睨みつけた後、トランクから物資を取り出し始めた。
「リナ、警戒は続けて。私たちはこれを持っていく」
空とレナ、アリスはその動きを冷静に見守りつつ、何か状況を打破する糸口を模索していた。その間も、ムラトはリナに視線を向けたまま穏やかな声を保っていた。
「おい女、神はまだ見捨てはしない。心が不稔なら少しだけここで話せばいいじゃないか?」
リナは一瞬だけムラトを見つめたが、視線を逸らし、二人は装甲車に乗って素早く走り去った。空たちの装甲車には物資がほとんど残されず、ただ後方の明かりが夜闇に吸い込まれていくのを見送るしかなかった。
空はしばらく無言でその場に立ち尽くしたが、やがて深い息をついて振り返った。「全員無事か?」
「無事だけど……物資全部持って行かれたわね」とレナが険しい表情で答えた。彼女の声には、悔しさが滲んでいた。
アリスは両手を広げて大げさに叫んだ。「物資どころか、プライドまで持っていかれた感じ!あのちびっこ、ただの強盗のくせにずいぶん肝が据わってたじゃない!」
ムラトは腕を組みながら静かに状況を整理していた。「あの少女、リナ……ただの強盗ではなかった。まるで殺し屋みたいだ」
空はムラトの言葉に頷きながら、ポケットの中を確認した。「幸い、最重要な装備は隠しておいた。この胸ポケットに小型の周波数レーダー機器を隠してある。物資全部持ち去られたら困難だけど、しばらくすれば車を特定できる」
アリスが空を見て目を輝かせた。「やるじゃない、隊長!さすが抜かりないってわけね!」
空は小型レーダーを取り出し、操作を始めながらアリスに応えた。「抜かりないってほどじゃない。最悪のケースを想定して、準備はしておいた。ただ、これで奴らを追跡するには少し時間がかかるだろう」
ムラトが小型レーダーを覗き込みながら、「時代が進んだな、こういう物がポケットに収まるとは。で、どこに向かうんだ?」
空はレーダー画面を見つめながら、慎重に答えた。「奴らが装甲車でどこに向かうつもりかは分からない。でも、このレーダーが追跡を続けてくれる間に、奴らの隠れ家や逃走ルートを特定できるかもしれない。急ぐぞ」
アリスは手を叩いて笑みを浮かべた。「よっしゃ、また仕返しのチャンスってことね!あのちびっことそのお姉さん、泣かせてやろうじゃない!」
「ただし、慎重にな」レナが釘を刺すように言った。「今度は準備万端で臨むべきよ。あの二人、ただの素人じゃない。特にあの少女――リナ。あの冷静さと反応速度、訓練を受けてる可能性が高いわ」
「同感だ」空が頷いた。「彼女たちは何者なのか、背景を探る必要がある。ただの物資狙いの強盗とは思えない」
空はそう言いながら車が止まるまでヒッチハイクに必要な準備を始めた。