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第15話 廃墟の化け物

夜空には眩い満月が浮かび、薄青い光が木々全体を照らしていた。険しい道の両脇は、手付かずの森が続いている。その光景は静寂に包まれているが、その奥底にはどこか不穏な気配が漂っていた。


夜空に浮かぶ満月は、旅人たちの道をぼんやりと照らしていた。満天の星々と共に輝く月光は、一見すると穏やかな景色を描き出していたが、森の奥深くには異様な気配が隠されているのを誰もが感じ取っていた。


険しい山道を歩む一行の足取りは次第に重くなり、その理由が疲れによるものだけではないことは明白だった。風が葉を揺らす音さえも、どこかささやき声のように聞こえる。この森に入り込んでしまった後悔を口にする者はいなかったが、誰もがその思いを飲み込んでいるのは明らかだった。


「聞こえるか?」


突然、先頭を行くリーダー格の男が立ち止まり、声を潜めて言った。その言葉に続くように、全員が立ち止まり耳を澄ます。遠くでフクロウが一声鳴いたきり、森は再び静寂に包まれた。


「……何も聞こえない。気のせいじゃないのか?」

若い女性がやや震えた声で答える。しかしその言葉とは裏腹に、彼女の目は周囲の暗がりを警戒するように見回している。


リーダーは険しい表情を崩さず、低く短く答えた。「いや、確かに聞こえた。足音だ。それも……俺たちのじゃない。」


その言葉を聞いた瞬間、一行全員の背筋に冷たいものが走った。誰もが意識的に息を潜め、暗闇の中に潜む“何か”を探す。木々の間を滑るように動く影があるように思えたのは、一瞬だったのか、それとも錯覚だったのか。


「とにかく進もう。ここで止まるのはまずい」


リーダーは再び歩き始めるが、その声に隠せない緊張感が漂っている。一行もそれに従い足を動かした。だが、森の奥からわずかな風が吹き抜けた時、再び不安が彼らを包み込む。


「怖いなぁ、幽霊が出たらどうするん?」と、若い男性が冗談めかしてつぶやいた。だが、その声にはどこか強がりの響きが混じっていた。


「んなこと言うなって、縁起でもない」と別の男が苛立った様子で返す。


一行は沈黙を保ちながらも、それぞれの心には異なる感情が渦巻いていた。疲労、不安、そして次第に募る恐怖。それらは重なり合い、一行をじわじわと蝕んでいた。その時、道の先には満月を照らす光が一際強く差し込む開けた場所が見えてきた。一瞬、緊張感が少しだけ和らぐかと思われたが、次の瞬間、一行全員が立ち止まることとなる。そこには何か、異様なものがあった。


開けた場所の中央には古びた病院が立っていた。


その病院は、あまりにも場違いだった。険しい山道を進んできた一行が、こんな場所で人間の手が加わった建造物に出会うとは思っていなかった。だが、その外観はまるで時間に忘れ去られたように荒れ果てており、壁にはツタが絡みつき、窓の多くは割れている。鉄製の扉は錆びつき、月明かりにぼんやりと反射して不気味な輝きを放っていた。


「……なんでこんな山奥に病院が?」

若い女性がつぶやいた声は、冷たい夜風に溶けるようにかすれていった。


「わからんが……これは良くないな」

リーダーは険しい顔をさらに引き締め、慎重に周囲を見回す。木々の向こうから病院を見下ろしている一行に、森の不気味な静寂がさらに重くのしかかる。


「行くしかないだろ。ここで休めるかもしれないしな」


「おい、やめとけ」


先ほど冗談めかして幽霊の話をした若い男性が、努めて軽い口調で言った。しかしその目は病院の暗い窓をじっと見据えている。そこには、覗き込むように見える影が……あるような気がした。

女性のスマホからわずかに漏れる光が、病院の不気味な雰囲気を際立たせた。その瞬間、彼女は恐怖に震える手でスマホを持ちながらつぶやいた。


「あれ……?スマホのバッテリー切れた……?嘘でしょ?」


彼女が驚きの声を漏らした瞬間、スマホの画面が完全に暗転した。一行の心に一層の緊張感が走る。先ほどまで淡い光を放っていたスマホの存在が、今や頼りない安全網のようだったと全員が気づいたのだ。


「あり得ない。さっきまで半分は残ってたのに……」

女性は何度か電源ボタンを押したが、スマホは無反応だった。それを見た他の者も次々に自分のスマホを確認し始める。


「俺のもだ……急に電源が落ちた……」

「まさか……電磁波とか? いや、そんな馬鹿な……」


一人、また一人とスマホが沈黙していく。全員の表情が一気に強張った。電子機器が同時に機能を失うという状況が、異常事態の始まりを告げているように思えた。


「……これは、ちょっと洒落にならないな」

先ほどまで軽口を叩いていた若い男性がそう呟いた時、一行は再び沈黙に包まれた。


リーダーが深い息をつき、短く指示を出す。「とにかく、この場でじっとしているのは無理だ。この病院を確認して、使えそうなものがあれば利用するしかない。ここは外よりも少しは安全かもしれない」


「本気で言ってるの?」

若い女性が恐怖に震える声で問い返す。病院の不気味な外観を前に、その決断がどれほどリスクを伴うか、誰の目にも明らかだった。


「ここで何かに襲われるかもしれない状況で、外で野宿する方がマシだって思うのか?」

リーダーの厳しい声が全員の耳に響く。言い返す者は誰もいなかった。


一行はゆっくりと病院へ向かって歩みを進めた。錆びついた扉の前で立ち止まり、リーダーが試しに押してみる。ぎい、と鈍い音を立てて扉が少しだけ開いた。中からは、湿ったカビの匂いと錆びた鉄のような臭気が漏れ出してくる。中は真っ暗だった。月明かりは窓の隙間からわずかに差し込んでいるが、それでも廊下の奥は完全に闇に覆われている。リーダーが手持ちの懐中電灯を取り出し、光を灯した。


「行くぞ。くれぐれも離れるな」


一行は慎重に病院内へと足を踏み入れた。廊下には朽ちた壁紙が垂れ下がり、床には壊れた椅子や古びた医療器具が散乱している。まるで時間が止まったかのような光景だった。


「ここ……本当に病院だったのか?」

若い男性が囁くように呟く。壁には錆びた案内板が掛かっており、「受付」「診察室」といった文字がかろうじて読み取れた。


「間違いない。病院だ。しかし、これほど荒れているのに、どうしてこんな場所に……」

リーダーは周囲を見回しながら答えた。彼の声は静かだったが、その響きには一抹の不安が滲んでいた。


湿気を帯びた空気が肌に纏わりつき、一行の足音だけが静まり返った廊下に反響する。床には時折、不自然なほど綺麗な足跡が泥にまみれたタイルの上に残っているのが見えた。


「なぁ、この足跡……俺たちのじゃないよな?」

軽口を叩いていた若い男性が指差して言った。そこには、明らかに先ほどから存在していたであろう足跡が続いていた。それは、奥の闇へと吸い込まれるように延びている。その足跡に気づいた瞬間、一行は動きを止め、全員がその跡を凝視した。足跡は湿った泥のようなものが付着しており、靴の形状がはっきりと見て取れた。明らかに、近い過去に誰かがここを歩いていた証拠だ。


「……誰か、いるのか?」


リーダーが低い声で呟くように問いかけた。もちろん、答えが返ってくるはずもない。だが、その静寂が逆に不安を煽った。


「いや、待てよ。誰かいるならそれはそれで安心じゃないか? 野宿するよりマシだろ?」


若い男性が半ば冗談めかして言うが、その表情は明らかに怯えている。


「そうとは限らないだろ。誰がいるかも分からないんだぞ。」

別の男が短く返す。全員が手元の懐中電灯やスマホのライトで周囲を照らし始めたが、光が届く範囲は限られていた。


「……もう戻るべきじゃない?」

女性が震える声でリーダーに訴える。だが、リーダーは首を横に振った。


「戻ってどうする?外には避けられる危険もあるが、ここならまだしも周囲を把握できる。」


リーダーの冷静な判断にも見えたが、その目には警戒心が滲んでいた。


足跡を追う決断

「足跡を追ってみよう」


「おい良太マジかよ。追うって……それヤバくない?」


リーダーが短く指示を出すと、全員が一斉に彼を見た。


リーダーの言葉に一行はしばし沈黙した。若い男性の顔には不安の色が濃く、他の者も無言でリーダーを見つめる。暗闇の中、足音が反響する廃病院内で、さらに深い不安が広がっていく。


「良くないとは思うが、足跡が示す方向には何かがあるはずだ。」リーダーが冷静に言い、再び歩き出した。


周囲を照らす懐中電灯の光が、壊れた家具や散乱した医療器具の間をさまよっていく。古びた病院の中はまるで時間が止まったかのようで、静寂と不気味さが一層際立っていた。足音を追うたびに、足元には濡れた泥の足跡が続き、暗闇の奥へと吸い込まれていく。


「……本当に、誰かがここを通ったのか?」若い女性が恐る恐るつぶやいた。


「足跡が続いてる限り、誰かがいるってことだ」リーダーは答えながら、さらに歩を進める。足元の足跡はますます深く、そして不気味に感じられた。いくら照らしても、病院の中の奥行きが深すぎて、何もかもが手の届かないように思えた。


歩を進めるたびに、空気は湿っぽく、寒さが増していった。誰もが無言のまま進み続ける中、ひときわ不安定な音が響いた。物が落ちた音だったのか、それとも人の足音だったのか――分からない。ただ、それは一行の注意を引き、立ち止まらせるには十分だった。


「おい!銃落ちてるぞ!」


物音の後、リーダーが懐中電灯を振りながら声を上げた。その光が床に散らばる破片の中に何かを照らし出した。それは、銃のように見えた。驚いたようにみんなが一斉にその光景を注視する。無造作に置かれた銃は、埃と湿気にまみれているものの、確かに存在していた。


「こんなところに銃だと…?」若い女性が声を震わせながら言った。


「誰かがここにいる証拠かもしれないな」リーダーはその言葉を反芻し、銃を警戒しながら近づいた。手に取って見ることはしなかったが、銃が乱暴に置かれていることは、誰かが急いで立ち去ったような印象を与えた。


「まさか、これを置いて行ったのか?」別の男が呟く。冷たい空気の中で、銃の存在がさらに不安を煽る。まるでこの場所に何かが起こったことを示すように感じられた。


一行は一瞬、銃を見つめたまま動けなかった。冷たい空気と湿気が肌にしみ込む中、暗闇から何かが迫ってくるような感覚が全員を包み込んでいた。リーダーがライトを照らし、周囲を見回すと、皆の表情がさらに緊張に包まれた。


「とにかく、進むぞ。」リーダーの言葉がようやく静かな緊張を破った。


銃を一瞥し、リーダーはそれに触れることなく進み続けた。足元には相変わらず足跡が続き、その先にある何かに向かって足を踏み出すしかないようだった。


「でもさ、あんな場所に銃があるって…」若い男性が不安そうに言うと、リーダーが振り返った。


「ただのおもちゃだ」リーダーは冷静に答え、再び進む。


彼らの足音が廃墟の中に響く中、足元の足跡はさらに深く、暗い奥へと続いていく。それが人の足跡であるなら、少なくとも何者かがこの病院を使っていた証拠だ。しかし、足跡は不気味に途切れた様子を見せ、次第に暗闇に飲み込まれていく。


一行は再び静まり返った廃病院の廊下を進んだ。足元の足跡が不気味に続き、誰かがこの場所にいた証拠を示していた。しかし、その足跡がどこで途切れたのか、誰も確かに見ていなかった。足音が響くたびに、廃墟の中で何かが動いているような気配が感じられる。


「本当にここに誰かいるのか?」若い男性が再び不安げに声を上げた。


「まだ分からない」リーダーは冷静に答えたが、その声に微かな震えが含まれていた。「しかし、誰かがいたとしても、危険を察知したなら既にここを離れているだろう。」


だが、その予感は当たらず、彼らが足を踏み入れた病院の一室から、異様な音が響いてきた。何か重いものがゆっくりと床を擦るような音。それは、明らかに人の足音ではなく、まるで何かが這いずりながら進んでいるような音だった。


一行全員がその音に耳を澄ました。その音は近づいてくるようで、突然、病院の深部からかすかな男性の声が響いた。それは低く、うなり声のようにも聞こえ、誰かが何かを楽しんでいるかのようだった。


「……あれは、誰だ?」女性が声を震わせて問いかける。


リーダーは言葉を失い、一瞬、進むべきか戻るべきかを迷う。だが、もう後戻りすることはできないと彼は自分に言い聞かせ、ゆっくりと音の発生源に向かって進み始めた。


「おーい!出てこい!」リーダーが声を上げると、その声は病院内で反響し、耳元で響く。だが、その反響はすぐに消えていく。返事はない。


足音のような音が近づいてくる。それはゆっくりとした、滑るような音だった。誰もがその音に耳を澄ませ、恐怖に身を震わせながらも進み続ける。しかし、歩き続けても音の正体は明らかにならない。足音のような音は、次第に近づいてきたものの、いつまで経っても姿を現すことはなかった。病院の廊下に響くその音は、まるでこの場所自体が生きているかのように感じられ、次第に一行の精神を蝕んでいった。


突然、暗闇の中から低い呻き声が聞こえた。それは明らかに人間のものではなく、むしろ、何かが苦しんでいるような音だった。その音はどんどん近づいてきて、まるでどこからともなく迫ってくるように響いた。リーダーは手に持った懐中電灯を震える手で構え、前方を照らしながら息を呑んだ。


「……誰か、いるのか?」リーダーが静かに問いかけると、その問いに答えるように暗闇の中からまた、かすかな呻き声が響いた。その音は、まるで誰かが痛みに耐えているか、あるいは何かを呼び寄せようとしているかのように聞こえた。


一行全員がその声に震え、視線を合わせることなく歩みを進めた。暗闇の中で動くことに恐怖を感じながらも、彼らは足を踏み外すことなく進み続ける。


「何か、いる」若い男性が囁いた。彼の声には恐怖がにじみ、目はどこか遠くを見つめているようだった。リーダーは彼に注意を促すように黙って手を挙げた。全員が無言で歩きながら、足元の足跡に視線を落とす。その足跡が先を示しているように思えたが、その先に何が待っているのか、誰もが予感することしかできなかった。


その時、さらに不気味な音が響いた。床に何かが引きずられているような音、そしてそれに続いて、重たい息遣いが近づいてくる。


突然、廊下の奥から低い呻き声が断続的に響き、何かが近づいてくるのを感じ取った。足元に不安定な音を立てながら、物の陰から何かが動いているのが見えたような気がした。全員が息を呑み、懐中電灯の光をその方向に向けるが、そこには何も見当たらない。


「進め」リーダーが冷静に指示を出し、前に進む一行。だが、足元に続く足跡はどこまでも消えることなく、見えない何かが彼らを見守っているような錯覚を覚えさせる。


不気味に続いているのが、彼らの不安を一層深めていた。足音が近づいてくるたびに、その足跡がどこへ向かっているのか、誰が残したのかがわからなくなり、全員が身動きできないような感覚に囚われていた。


「これ、絶対に誰かがいるってことだよな?」若い男性が再び口を開く。彼の声は不安に震えていたが、それでも必死に冷静を保とうとしているのが伝わってきた。


「分からん」リーダーはしばらく黙った後、冷静に答えた。「だが、誰かがいるなら、どんな目的でここにいるのかが問題だ。」


暗闇の中で、さらに不気味な音が響いてきた。音は遠くから近づいてくるが、何も見えない。彼らは恐怖に駆られながらも、少しずつその音の発生源に近づいていった。時折、何かが這いずり回るような音も混じり、その度に足元が冷え切り、背筋が凍る思いをした。


「やっぱり、戻ったほうがいいんじゃないか?」女性がまた声を震わせて言った。だが、リーダーはその提案には耳を貸さず、足音の続く方向に進んでいく。


突然、廃病院の奥から、一度きりの大きな音が響いた。何かが倒れる音のようだった。だが、それと同時に、暗闇の中から低く不気味な笑い声が聞こえてきた。その声は、まるで人間のものではないような、奇怪で異質な響きだった。


「な、なんだあれ……?」若い男性が恐る恐る呟くと、リーダーが厳しく言った。


「黙れ、進め」


リーダーの目は険しく、彼の足取りもさらに速くなっていった。その目には、冷静さの中にもわずかな不安が宿っているのが見て取れた。何が待ち受けているのか、誰も予測できなかった。しかし、進むしかなかった。


「行くぞ、あと少しだ」リーダーが言うと、一行は足を進めた。彼らはもはや、恐怖に支配されながらも、引き返すことなくその先へと足を踏み入れていく。


二階へ上がり廊下を進む中、突然金属が落ちる音が響くと、その響きが一瞬にして周囲の静寂を引き裂き、空気が一層重く感じられた。金属が床にぶつかり、滑りながら転がる音が暗闇の中にこだました。その音はどこまでも遠く、しかし同時にすぐ近くにも感じられた。何かがゆっくりと動いているような、不安を掻き立てる音だった。


一行はその音に全員が反応し、足を止める。金属の物体が床に当たる度に、冷たい空気が彼らを包み込み、何か見えない存在が迫っているかのような錯覚を引き起こした。


「何だ、今の音……?」若い男性が震える声で呟いた。その声に答える者はなく、ただ暗闇の中で静寂が続く。


リーダーは懐中電灯を振り向けながら、音がした方向を探った。


二階へ上がり廊下を進む中、突然金属が落ちる音が響くと、その響きが一瞬にして周囲の静寂を引き裂き、空気が一層重く感じられた。金属が床にぶつかり、滑りながら転がる音が暗闇の中にこだました。その音はどこまでも遠く、しかし同時にすぐ近くにも感じられた。何かがゆっくりと動いているような、不安を掻き立てる音だった。


一行はその音に全員が反応し、足を止める。金属の物体が床に当たる度に、冷たい空気が彼らを包み込み、何か見えない存在が迫っているかのような錯覚を引き起こした。


「何だ、今の音……?」若い男性が震える声で呟いた。その声に答える者はなく、ただ暗闇の中で静寂が続く。


リーダーは懐中電灯を振り向けながら、音がした方向を探った。


すると、廊下の先から異臭が漂ってきた。湿った土のような、腐敗したものが混じったような臭いだった。それは一瞬のうちに皆の鼻腔を突き、彼らをさらに不安にさせた。


異臭が立ち込める中、一行は無意識に息を止め、足音を忍ばせながらその臭いの元を探ろうとした。リーダーが懐中電灯を先に向けると、光が壁を照らし、何か不自然なものがその先にあるのがわかった。それは、壁に貼り付けられた古びた布のように見えたが、近づくにつれてそれがただの布ではないことがわかる。


「何か……ある」リーダーの声は低く、震えていた。


若い男性がその言葉に反応し、懐中電灯をリーダーの手に合わせるようにしてその先を照らす。光が当たった場所には、倒れた何かが見えた。リーダーが指差す先には、床に倒れた人間のような形があった。その姿勢は不自然で、関節が曲がっているように見える。


「死……でるのか?」


リーダーは懐中電灯をさらに近づけ、その不自然な姿勢の人間のような物体を照らしながら、息を呑んだ。


リーダーの手が震えながら懐中電灯を照らし続ける。その光が、倒れた人間のような物体に当たり、さらにその恐ろしい姿が浮かび上がった。異臭が強くなる一方で、床に広がる黒ずんだ液体が、その物体の周りに広がっていた。まるでその体から何かが漏れ出しているかのようだ。


「うわぁ……やべぇな」


「……本物か?」若い男性が喉を詰まらせたような声で言う。その問いかけには、答えられないほどの戸惑いが滲んでいた。


人影はうつ伏せで倒れており、その背中には無数の裂け目のようなものが走っているように見える。服はボロボロに引き裂かれ、血液と思しき暗いシミが床に広がっていた。まるで何かに引きずられ、食い破られたかのようだった。


「死んでる……よな」若い女性が震える声で言う。

リーダーは返事をしない。ただ、慎重に足を運び、周囲を観察した。懐中電灯の光が不規則に揺れ、壁には古びた貼り紙や剥がれたペンキが見える。奥の方には、更に闇が深まっているようだった。


「これ、食われてるのか……?」別の男が呟く。疑問形とはいえ、その声にはすでに確信めいた響きがあった。


「なぁ、早く帰ろうよ…」


若い男性が声を上ずらせながら言う。だが、その言葉に誰一人返答できなかった。彼らはすでに後戻りできないところまで来てしまったような気がしていた。闇が深く静かであればあるほど、そこに潜む“何か”の存在が、よりはっきりと感じられたからだ。


リーダーは冷静さを装いつつ、懐中電灯を持つ手に微かな震えを感じていた。彼が目を凝らす先には、うつ伏せに倒れた死体があり、その周囲には黒ずんだ液体――血液が広がっている。この光景が示唆するのはただ一つ、ここには暴力的な出来事が起こり、今もなおその残滓が残されているということだった。


「……あそこまで行って確かめる。皆は少し下がってろ」

リーダーは静かに指示した。その声には決意と、自分が動かなければという責任感が滲んでいた。


「じ、じゃあ俺も行くよ」

若い男性が震える声でそう言ったが、リーダーは首を振った。「ダメだ。お前は後ろで警戒していろ。俺だけで十分だ」


「私も行く」

若い女性が意を決したように静かな声で言った。その目には恐怖を湛えつつも、リーダーを一人で危険な場所へ送り出すことへの躊躇が見えていた。


リーダーは少し迷ったように彼女を見つめた。懐中電灯の薄暗い光の中で、その瞳は微かに潤んでいるようにも見える。躊躇の刹那、背後で他の仲間たちが息を飲む気配が伝わった。誰もが、もう後戻りできないことを悟っている。


「分かった。でも、無理はするな。やばいと思ったらすぐ逃げろ」

リーダーは短く答え、彼女が小さく頷くと、二人は慎重に足音を殺しながら死体を通りすぎた。


懐中電灯のわずかな光を頼りに、リーダーと若い女性が死体を慎重に迂回する。異臭はさらに鼻を突き、腐肉を思わせる不快な気配が周囲を満たしていた。背後で待機する仲間たちは、息を殺したまま二人を見守っているが、その心中は混乱と恐怖で張り裂けそうだった。


「足元、気をつけろ」 リーダーが低く短く促すと、女性は小さく頷き、足元の黒い液体を避けるように進んだ。血液が床に沈み込むように広がるその様は、生々しく、まるでこの廃病院が今も呼吸しているかのような錯覚を与える。


階段を上がり、再び続く廊下の先は、さらに深い闇に包まれていた。床には時折、水分を含んだような湿った足跡が延びており、壁には剥がれ落ちたペンキと、かつてここが医療施設だったことを示す看板の切れ端がちらほら残っている。リーダーと若い女性の二人が先行し、残る仲間たちは後方で固唾を呑んで見守っていた。


廊下を進んだ先で、わずかに扉が浮かび上がる。錆びたプレートには「関係者以外立ち入り禁止」と書かれているようだが、文字はほとんど消えかかっている。扉自体は木製らしく、時間の経過でゆがみ、わずかに隙間が開いている。その隙間からは、冷えた空気がじわりと漏れ出しているのを感じた。

異臭は相変わらず漂っており、その源がこの先にあるのかもしれないと、二人は直感した。


小さな隙間からは冷たく湿った風が流れ込んでおり、鼻を突く異臭はこの奥からやってくるのは間違いなかった。


「ここが屋上か?」


リーダーが小さくつぶやいた声は、錆びた扉の前で吸い込まれるように静かに消えていった。先行した二人は扉の隙間から流れ込む冷気と異臭を感じながら、わずかに身を縮める。まるで、そこに見えない境界線が引かれているかのように、足を踏み出すことをためらわせる気配があった。


「……屋上だね。ここ行ったら早く」


若い女性が周囲を見回しながら答えた。懐中電灯の光を再び慎重に扉へと向ける。かつては何らかの制限区域だったのかもしれない扉は、木材が膨張し、わずかに歪んでいる。そこから漏れる冷たい空気が、まるで湿った舌で頬をなぞるかのような不快な感覚を与えた。


後方で固唾を呑んで見守る残りの仲間たちも、一歩も動けずにいた。先ほどの死体、そして廊下に漂う腐臭、謎の足跡――一つひとつが、彼らの神経をすり減らしている。すぐにでも引き返したい気持ちを抑え、ただ前を進む二人を見守ることしかできない。


リーダーは扉に手をかけた。冷たく湿った感触が手のひらに伝わり、不快感に思わず顔をしかめる。少し力を込めて押すと、わずかな隙間がギギ、と音を立てて広がった。その音は廃墟の静寂を裂く不吉な叫びのようで、後ろにいる仲間たちが思わず身をすくめる気配が伝わってくる。


「ゆっくり、静かに……」


リーダーは自分自身に言い聞かせるように声を潜めた。若い女性もうなずき、懐中電灯を扉の隙間に差し込むようにして内部を照らす。


扉がわずかに開くと、冷えた夜気が一気に流れ込み、二人の顔を撫でていく。懐中電灯の細い光が、開いた隙間から内部をなぞるように照らし出した先には、乱雑に積み重なった瓦礫や、焦げたような跡を残す床が見えた。古びた金属製の器具が転がり、壁には煤のような黒ずみが広がっている。まるでここだけが一度何か激しい出来事に巻き込まれ、焼かれ、破壊されたかのような雰囲気が漂っていた。


「ここは……一体……?」  

若い女性が息を呑む。声は震え、先ほどまでの決意は揺らぎかけていた。


リーダーは扉に肩を押し当てるようにゆっくりと開く。扉が軋みながら開く度に、内部に積もった埃がふわりと舞い上がり、懐中電灯の光に細かな粒子が浮かび上がった。透き通るほどの静寂が、彼らのささやかな呼吸音を際立たせる。


屋上には冷たい月光が薄く差し込んでいる。焦げた梁や崩れた壁の隙間から、夜空の星がかすかに見えた。月光が差し込む一角には、何かが置かれているようだ。機械のような形状にも見えるが、遠目にはただの鉄屑の山のようでもあった。


「ここ、燃えたのか? それとも爆発でも……?」  

若い女性が戸惑いを込めて言う。リーダーは答えず、足音を殺しながら一歩、また一歩と進んでいく。瓦礫を避けながら、懐中電灯を慎重に動かし、床の上に残る痕跡や壁の裂け目を確かめていく。


後方に残った仲間たちも、二人の動きに合わせて少しずつ近づいてきた。誰もが緊張で胸が高鳴り、喉が乾いていた。何かを見つけることは、ここでの謎が明らかになる可能性を示す一方で、新たな恐怖を呼び起こすことも意味していた。


ふと、リーダーが足を止めた。その視線の先、月光が照らす鉄屑の山が少しだけ揺れたように見えたのだ。風の影響かもしれないが、ここは密閉空間に近く、そんなに風が流れ込むはずがない。


「今、揺れなかったか?」  

リーダーが、ほとんど息を殺すような声で女性に問う。彼女は一瞬耳を澄ませ、懐中電灯をその山に向けた。濁った金属の光沢が、わずかに月光に反射して陰影を作っている。まるでそこに何か生き物が潜んでいるかのような錯覚を覚えさせる光景だった。


「……わからない。でも、気をつけて」  

女性も息を詰まらせて答える。


二人が目を凝らす中、再びかすかな音が聞こえた。金属が擦れるような、不快な軋み音。それはほんの一瞬で消えたが、その短い瞬間が、二人と後方で見守る仲間たちの心に冷たい針を突き立てるには十分だった。


「撤退したほうがいいかもしれない……」  

後方から、弱々しいが本音の滲む声が響く。誰が言ったのか判別は難しいが、全員がその言葉に共感していた。ここは危険すぎる。暗闇と異臭、そして得体の知れない死体と、焼け跡が残る不気味な空間。動物的な勘が警鐘を鳴らしている。


だが、リーダーは首を横に振り、懐中電灯の光をさらに鋭く謎の物体に当てた。その時、不意に風が吹き込む気配がして、上空からかすかな呻き声のような音が聞こえた。彼らは一斉に天井の穴に視線をやった。


床にはひび割れた梁が突き出ている。その上に、何かの影が動いたように見えた。懐中電灯を向けようとした瞬間、リーダーの手が止まる。何故なら、もし本当に何かがそこにいるなら、光を当てることは刺激するかもしれない。


「静かに……」  

リーダーが指を唇に当て、無言の指示を出す。全員が息を殺し、わずかな物音すら立てないように神経を尖らせた。耳を澄ませば、何か粘性のある液体が滴るような、気味の悪い小さな音が耳に届く。上空で、何かが動いている……。


緊張は限界に達しようとしていた。足元に広がる瓦礫、異臭を放つ腐肉、そして頭上から迫る未知の気配。ここはこの廃病院で最も危険な場所かもしれない。逃げ出すか、様子を見るか、決断を迫られる中、リーダーはその場を動かなかった。微かな光と月明かりだけが、彼らの恐怖を薄絹のように包んでいた。


その瞬間、換気口の影からかすかな息遣いのような音が聞こえた。低く喉を鳴らすような、あるいは笑っているような不気味な響き。それは一瞬で消えたが、全員の背中には冷たい汗が流れ、喉が乾いて仕方がなかった。


「もう、ダメだ、戻ろう……」  

とうとう仲間の一人が限界に達し、後ずさるように足音を立てた。カサリ、と瓦礫が転がる音が広がる。次の瞬間、その音に反応するかのように、後から影が床に浮かび上がった。彼達を覆うような影、全員が悲鳴を喉の奥で噛み殺しながら、その音がした場所を注視した。


懐中電灯を向けると、そこには巨大な大男の姿が立っていた。人間姿であり、常人の倍近い身長を誇るその影は、肩幅は異様に広く、腕は太く節くれ立ち、その皮膚は土気色で、まるで木の根や土塊が絡み合って形成されたかのような不自然な質感を持っている。そして、極めつけは、その顔――。凹凸とした厳つい顔であり恐怖が、一行の心臓を鷲掴みにした。


一行は誰一人として声を出せなかった。悲鳴は喉の奥で凍りつき、足元の瓦礫が微かに音を立てる以外、この場には何の音も存在しないかのように感じられた。彼らは生まれて初めて、本能的な死の予感というものを体験していた。


その巨体は、わずかに首を傾げるように動き、その顔が月光を受け止めた。顔――それは、突起と窪みが歪に交錯した、まるで荒れ果てた大地のような凹凸を持った面だった。鼻と呼べるものは明らかに高く、目は……光を反射しない暗い穴のようなものが二つ並んでいた。その眼孔が、まるで人間を越えた理解で一行を観察しているような、不気味な沈黙を湛えている。


「な……何だ……こいつ……」


誰かが、声を震わせながら呟いたが、それが誰の声かすら分からなかった。全員が固まったまま、その化け物を凝視することしかできない。巨大な大男が、突然その異様な顔をわずかに傾け、口を開いた。


「お前ら誰だ?立ち入り禁止なはずだぞ」


――その声は低く、響くような重みを持っており、言葉の裏側に潜む何かが、全員の神経を逆なでしていた。


「た、立ち入り禁止って……」

リーダーが声を振り絞るようにして答えた。その手にはまだ懐中電灯が握られているが、その光はわずかに震えて大男の足元付近を揺らめいている。


突然後方から別の声が響いた。それは少女の唸り声に似ており、ひどく苦痛と怒りが混ざり合ったような響きを持っていた。細く、弱々しいながらも、確かな意志を感じさせるその声が、静まり返った屋上空間に不気味な共鳴を生み出す。


一行は、背後にも何かがいるという現実を突きつけられ、息を呑んだ。前方には巨大な大男の影、そして後方には正体不明の少女のような声。逃げ道はあるのか? 廃病院の屋上で、彼らは出口を見失い、無防備な獲物のように追い詰められつつあった。


リーダーが、懐中電灯の光をわずかに後方へとずらす。暗闇を切り裂くような細い光の筋が、崩れた梁や散乱した破片をかすめながら、徐々に音の発生源へ近づいていく。その光が、一瞬、細い人影の輪郭を映し出した。小柄な影が、こちらを睨みつけるかのように立ちすくんでいた。


「な、なんだ……子どもか?」

誰かが小声でつぶやく。確かに、 silhouet は子どものように小柄だったが、異様な雰囲気がまとわりついていることは明らかだ。髪はボサボサに乱れ、顔までははっきり見えないものの、その佇まいは普通ではなかった。唸り声はかすれ、喉の奥から絞り出すようで、人語を解さない獣が威嚇するような不協和音を帯びていた。


「おお、そろそろ起きた頃かな」

その低く重厚な声は、まるで深い水底から沸き上がる気泡の音にも似て、暗闇に染み渡るようだった。


一行が息を呑んでいると、大男の視線が、ゆっくりと背後に潜む小さな影へと向けられた。月光に浮かぶ巨大な輪郭は、わずかに身をよじると、わざとらしく首をかしげる。まるで、そこにいる誰かと「会話」しようとしているかのようだった。


「君たち……ここは誰も来ないと思ってたのにねぇ……残念だが、ここは研究室なんだよ」


「研究室……? こんな廃墟が?」

リーダーが震える声で問いかけるが、その答えは返ってこなかった。代わりに大男は、目の前の人間たちを観察するように、上体をわずかに前屈させる。その顔には、はっきりとした表情というものが見て取れない。ただ穴のような目が、一行一人ひとりを舐めまわすように見ていることだけは、誰の目にも明らかだった。


背後から聞こえる小柄な人影――少女のような声は、低く苦しげな唸りを続ける。まるで言葉を発したいのに、その手前で声が絡まり、溶けてしまっているかのような音。湿った息遣いと喉の摩擦音が、彼女が何かに必死に抵抗していることを示唆していた。


「おーい、出てこーい」


大男の低い声が、廃墟の屋上空間に鈍く響いた。その声は冗談や軽口ではない、力でねじ伏せるような重みを帯びており、その場にいる全員の神経を逆なでした。まるで、こちら側が訪問者ではなく、檻の中に閉じ込められた被写体であり、彼らは観察者であるとでも言うような態度だった。


リーダーは息を呑み、後ずさりしたい衝動を必死に抑えていた。彼の手元でわずかに揺らめく懐中電灯の光が、歪な大男の姿を照らし出し、そして背後にいるであろう少女の影へと伸びている。だが、彼は分かっていた。迂闊に動けば、相手を刺激し、取り返しのつかない事態を招く恐れがあることを。


少女の影がかすかに姿を現しつつあった。月光から差し込む中で、その細い体が照らされる。結んだ髪は流れるように揺らめくが、体はガクガクと痙攣するような小刻みな震えを伴っている。顔はまだ陰に隠れて明確には見えないが、光が当たった腕には、無数の傷跡と凹みが縦横無尽に走っているのがかすかに確認できた。


ゆっくりと彼らに滲み寄るような、あの小さな動きは、まるで磨り減った歯車が無理やり噛み合おうとするかのようにぎこちなかった。その足取りはほとんど音を立てず、床を擦るような湿った摩擦音だけが、彼女が確かに存在していることを証明していた。


「な、何だあれ……」

誰とも知れぬ男の声が、掠れた囁きのように闇に溶け込む。その一言は、目の前の異様な光景が現実なのか、あるいは悪夢なのかを計りかねている証拠だった。照らす光は相変わらず不鮮明で、懐中電灯の揺らめく光芒が荒れ果てた屋上の一角をぼんやりと浮かび上がらせるにとどまっている。


月光の下に立つ大男は、まるで人ならざるもののような静謐さを纏っていた。その巨大な体躯は、人間の骨格に収まるにはあまりに不自然な節くれと曲がりを伴い、土気色の表皮は湿った光沢を帯びている。そして、背後に潜む小柄な影――少女らしき存在は、ゆっくりと、まるで何かに操られるかのように歪な足取りで近づいてくる。


「お前たち……ここに来たということは秘密を明かしたってことになるな」

大男は再び口を開いた。低く、重々しい声は、言語を超えた圧力を伴って聴く者の鼓膜を振るわす。


「な、何を言ってる……俺たちはただ、道に迷って、ここに来ただけだ」

リーダーが必死に声を絞り出す。彼の声は震え、正常な思考を保つのに精一杯だった。しかしその釈明に、大男は反応を見せず、むしろ面白がるように首を傾げる。


「道に迷って、こんな場所まで来るか? へぇ……ずいぶん運が悪いな、旅人ども」

 低く重い声に嘲りの響きが混ざる。その声を聞くだけで、全員の背筋に氷の刃が走った。


「ね、ねえ! 私たち、本当に何も知らないわ! ただ迷い込んだだけで、ここで何が起きてるかなんて知らない!」

若い女性が震える声で訴える。その瞳には涙が浮かんでいた。この異常な状況から抜け出すには、相手に対話の余地を見出すしかない――彼女の本能がそう告げているようだった。


だが、大男はその懇願めいた言葉に対しても特に感情を示さなかった。ただ、床に積もった瓦礫を軽く踏みしめ、その巨体をわずかに前進させる。足元の金属片がギリリと軋む音が静寂を裂き、一行の心臓ははち切れそうなほど鼓動を早めた。


「知らない? なら教えてやろうか?」

大男は低い笑い声を喉の奥で転がすように放つ。その笑い声は人間離れしており、まるで巨大な虫が喉で羽を鳴らしているかのような、不快で不調和な響きだった。


リーダーは喉がひりつくのを感じながら、大男の視線の先をそろりと振り返った。そこには、痩せ細った少女のシルエットが月光に浮かび上がっている。彼女はかすかな震えとともに立ち尽くし、喉から絞り出すような唸り声を洩らしていた。


少女は、まるで人形がほつれた糸で操られているかのような動きをしている。白色いシャツはボロボロに破け髪は無造作に乱れ、腕や足には奇妙な痕跡——その少女の目は、獲物を狙う捕食者のように、光を宿さぬ闇の中で微かに濡れ、こちらを凝視していた。結んだ水色の髪はばらばらに絡まり、肩先で汚れた房が風に揺れるたび、ざらついた不快感が空気を伝わって一行の肌を撫でた。


少年のようでも少女のようでもあるその小さな影は、細く痙攣する喉からかすれた音を絞り出し、やがて一歩を踏み出す。ぎこちなく足を引きずるような歩みは、生物としての自然な動きとは程遠く、それがなおさら、この存在が人間離れしていることを示していた。


「おいおい、まじかよ……」


リーダーの声は掠れ、相手に届くかも分からぬほど弱々しかったが、それでも彼は必死だった。焦燥が胸を焼き、考えがまとまらないまま、何とか言葉を発しようとしている。部下たちも身動きできず、硬直したまま目の前の光景を見つめるしかない。


「レオナ・ローレンス。可愛い名前だろ?」


大男がその名を口にした瞬間、空気が凍りついたかのような静寂が訪れた。リーダーをはじめとする全員が、その不可解な名前に込められた意味を理解できず、ただその響きを反芻する。名を持つということは、少女がただの怪物や幻想ではなく、何らかの形で人の領域に属している証左かもしれなかった。それが余計に不気味で、背筋を凍らせるには十分だった。


光を拒む眼孔を持つ大男は、まるで自分の手柄を誇るかのように、あるいは飼い慣らした生物を紹介するかのように少女に目をやった。少女――レオナ・ローレンスと呼ばれた存在は、僅かに首を傾げ、うめくような低い声を上げる。その声は人語にならず、ただ喉の奥で絡まる奇怪な音だった。


リーダーは額に汗を滲ませながら、震える声で問いかける。「き、聞いたことはある……確か警察の捜査で死亡と判定したはず」


リーダーが懸命に声を絞り出すと、大男はゆっくりとその異様な顔を動かし、彼らを嘲笑うような沈黙で包み込んだ。わずかな月光に照らされたその体躯は、やはり人の骨格とはかけ離れた不自然な輪郭を描き、息苦しいほどの圧迫感をもって彼らを支配している。


「警察が死亡と判定した、ねぇ……」

大男の低く濁った声には、嘲りと軽蔑、そして何か底知れぬ知識を秘めた響きがあった。「確かに死亡はした。なんたって彼女は怖い物知らずだったからな。しかし、俺が来たからには、もう死して終わりじゃ済まされん」

大男が再び口を開く。その言葉は意味深で、不気味な響きを持つ。

「人の領域を越えた研究は、こういう形で実を結ぶことがある。……この娘は、死した後も再構築されたんだよ。俺の手でな。」

ざわついた気配が一行を襲う。言葉を理解できずとも、その底知れぬ狂気と企みを感じ取るには十分だった。


「再構築……?」

リーダーが呆然とつぶやくが、その声はか細く、相手に届いていないかのようだ。レオナと呼ばれた少女が、不自然な姿勢のまま顔を上げる。月光の下、彼女の瞳はかすかに濡れ、光を宿していない。その瞳孔はあまりにも深く、暗闇そのもののようだった。


「完全な復活とは言えないが、こうして立たせることはできる。器が歪んでいようが、魂が欠けていようが、関係ないさ」

大男はまるで自分の研究成果を誇示する学者のように、低く嘲笑するような声を立てる。「生と死の境界なんぞ、脆いものだ。思考や感情などというものは、組み合わせ次第でいくらでも捏造できる。ここはその実験場だったのさ」


聞き慣れぬ概念、理解を拒むような言葉が乱雑に投げかけられ、廃病院の屋上を覆う闇をさらに濃くする。


一行は、もう何を信じればいいのか分からなくなっていた。ただ確かなことは、一歩でも踏み出せば、目の前の化け物が襲いかかってきそうな雰囲気が漂っていること。そして、その背後に潜む「レオナ」という少女の存在が、この空間に歪な緊張を与えていることだった。


「……ゾンビってことか?」


誰とも知れぬ男が掠れた声で問いかけた。その言葉は絶望と混乱が入り混じった、この場における唯一の“解釈”のようでもあった。だが、それに対する大男の反応は、わずかな首の傾げと、鼻腔の奥で転がるような嗤い声だけだった。


「ゾンビ? そんな陳腐な言葉で表せる代物じゃないさ」  

大男が低く、重苦しい響きを持って応じる。その口調はあくまで冷静で、まるで学者が凡庸な生徒の愚問に答えるかのような冷ややかさを帯びていた。


闇が濃く、湿った空気が一行の肺を圧迫する中、レオナと呼ばれた少女が、ひときわ奇妙な動きを見せた。小さな肩が痙攣するように震え、その体からは掠れた息遣いが漏れる。まるで内側から別の存在が抜け出そうとしているかのような、不自然な痙攣だった。


「実験場……ここはそんな場所だったのか……」  

リーダーが途切れ途切れの声で言う。彼の額には汗がにじみ、喉は渇いてカラカラだった。周囲の仲間たちも言葉を失い、ただ暗闇の中に立ちすくむしかなかった。この場に渦巻く不条理な威圧感は、普段なら信じられないような狂気を真実として受け入れざるを得ないほど強烈だった。


「そうさ。ここはかつての病院、そして今は我々の研究舞台。死と生、魂と肉体、その境界をいじくり回すにはうってつけの隠れ家だろう?」  

大男が歪な笑みを浮かべているかのような気配が、声色から感じ取れた。彼の存在は人間の常識や倫理など意にも介していない。そこには、ただ実験者と被験体、そして無関係な“紛れ込んだ者”がいるだけだった。


「そんな……正気じゃない……」  

若い女性が声を震わせながら口を開く。彼女は半泣きになりそうなほど怯え、後ずさりしようとするが、その足は瓦礫につまづき、金属片がチリリと響く。その刹那、レオナがピクリと反応した。


小さな影が、薄暗い屋上空間の中で、ほんのわずかに前へと足を踏み出す。その足音はほとんどしないが、擦れるような湿った音が神経を逆なでする。レオナは“生前”と呼べる何かを持っていたのかどうかさえ疑わしく感じられ、ただ目の前の異常な現実が、彼女を道具として存在させているような印象を与える。


「生と死の境界を越える……そんなことが可能なのか?」  

リーダーが声を絞り出すように問いかけた。答えを求めるというより、意味のない問い掛けだった。理解できない世界に投げ込まれた彼らにとって、何か納得できる説明が欲しいという本能がそうさせているに過ぎない。


「可能かどうかじゃない。もう起きているんだよ」  

大男は言葉を吐き捨てるように返す。その言葉は、そこにいる全員の希望を打ち砕くのに十分な重みを持っていた。もはやこれが人間の営みかどうかさえ怪しい。狂気と異形が支配するこの場所で、常識や倫理観は何の力も持たない。


「もう、よせよ……帰らせてくれ……」  

別の男が弱々しく懇願する。だが大男は応じない。ただ、視線を歪んだ少女へと戻し、低く湿った声で、何か囁くような息遣いをもらした。


レオナが再び首を傾げ、今度はほんの少し、彼らと大男の間合いに割り込むように進み出る。月光に照らされたその顔は、一瞬だけ輪郭が浮かび上がるが、目も鼻も口も、見る者には理解できないほど歪んでいるように感じられる。まるで人間の顔だったものに、別の何かが流れ込み、再形成されたような不快感が全身を襲う。


風が吹き抜け、屋上に散らばる小さな瓦礫がカラカラと音を立てた。その音が、一行の心を引き裂く。ここは密室に等しい屋上、逃げ場は少なく、下へ戻れば死体と暗闇の迷路、ここに留まれば異形の二人(あるいはもっと多くの“何か”)と対峙することになる。


「ここで死ぬのか……?」  

誰かが喉の奥で呟いた。絶望が一行を飲み込み、膝が笑い出しそうなほど震えを伴った。だが、その言葉は逆に、リーダーの意識をはっきりとさせた。まだ終わりではない。何とか打開策はないのか、ここを脱出する方法はないのかと、必死に思考を巡らせる。


「俺たち、争いたくない。ここから出たいだけだ」  

リーダーが勇気を振り絞って声を上げる。もちろん、相手がそれを受け入れる保証はない。しかし、沈黙していては確実に状況が悪化するばかりだ。せめて“会話”の形を保ち、相手に人間的な交渉を仕掛ける隙を作るしかない。


大男はしばし黙り込んだまま、微動だにしない。レオナと呼ばれた歪んだ少女もまた、喉の奥で奇妙な音を鳴らしながら、足元に転がる鉄屑をわずかに蹴るように動いた。チリッと鳴る金属音が、一行の耳に突き刺さる。


不意に、大男が言葉を発した。「出たいだと? ここまで来て、見ちまったものは仕方ない。残念だが、君たちは観察対象に過ぎない。それに、この娘も退屈していたところだ」


その言葉に“退屈”という言葉が含まれているのが、ぞっとするほど不気味だった。彼らにとって人命や一般常識は余興、実験材料でしかないのか。絶望が一行を覆う中、わずかな反抗心がリーダーの胸に灯る。何とかしなければ――このままでは全員殺される。


「待ってくれ!俺たちだって――」  

リーダーが続けようとするが、その声を遮るように、レオナが突然動いた。まるで糸が引っ張られた人形のように、カクカクとした動きで体をねじり、その歩幅を広げて一行に接近してくる。


「来るな……!」  

リーダー絶叫しそうになるが、その声はひしゃげた息となって喉の奥で潰えた。レオナはか細い身体にも関わらず、不思議なほどの素早さで間合いを詰め、月光の下でその顔をさらけ出す。


ガクリ、と首を傾げたレオナの顔は、確かに人間のそれを基本形に持っているが、右頬の部分が凹み、唇は乾燥してひび割れ、死して蘇ったとしか思えないその姿は、脳裏にこびりつく悪夢のようだ。


唇がわずかに動いた気がした。乾いた音と共に、かすれた吐息が漏れ、「殺す……」と囁いたようにも聞こえた。しかし、その声は本当に彼女の意思なのか、ただ喉の腐った空気が擦れた音に過ぎないのか、誰にも判断できない。


「殺す……? おい!?」  


レオナの喉から、ギリギリと引き裂けそうな音が発せられ、体が震える。ガクガクと痙攣した後、彼女は奇妙な姿勢で腰を落とし、まるで爪で地面を引っ掻くように手を伸ばす。その動きには何か飢えた獣のような険悪な気迫が混じり、一行を威嚇するかのようだった。


「もういい、君たちには用はない」  

大男が低い声で宣言する。その声が“処分”を意味しているかのような圧力となって一行を押し潰した。


次の瞬間、まるで糸が切れた人形のようだったレオナが、突然信じられないほどの速度で地面を蹴った。その細い身体は、カクカクとした不自然な動きを残しながらも、一行のうち最も後ろにいた若い男性へと

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