Lurking in the shadows and hunting monsters!
午前3時35分の肌寒い夜だった。窓を開け放しても、夜気は重く、薄青いカーテンを揺らす程度の弱々しい風しか入ってこない。ジリジリとした湿度が部屋の中に溜まり、まるで密閉された温室のような不快なぬめりを帯びていた。
その小さな寝室には、明日の任務に備えて二人分の吐息が低く響く。天井の古いファンが微かに回り、かすかな風を送り込もうと苦心しているが、ほとんど役に立たない。微弱な明かりが差し込む窓辺から外を覗けば、遠い街灯がかすかに揺らめくだけで、静まり返った夜更けが続いていた。
ベッドには二人。アリスは素足でシーツに乗り、薄いパジャマを纏いながら、空の腕をしっかりと掴んでいた。まるで、彼が逃げ出さないようにするかのように、その肩に頭を預け、背中を半ば包むような体勢で抱きついている。彼女の呼吸は穏やかで、うっすらと寝息が立っていた。柔らかな髪が空の首元に触れ、微かな汗ばむ肌をくすぐる。
しかし、空は暑苦しさと、どこか追い立てられるような息苦しさを感じていた。額に浮かぶ汗、そして意識の中で行き場のない不安がじわりと広がる。かすかな寝言なのか、それとも記憶の残響なのか、眉間に皺を寄せたまま、彼は時折小さく身じろぎする。
「暑苦しい……」
空は微かに呻くような声を漏らし、アリスの腕から逃れようと弱々しく体をずらす。しかし、寝入ったアリスはその動きを察知すると、むしろますます腕に力を込めた。まるで抱き枕にされたような格好で、空は為す術もない。彼女は意識はないはずなのに、不思議なほど空を離す気配がなかった。
この狭い寝室は、最近二人がようやく落ち着いた住処だった。過去には異形や恐怖に包まれた夜もあったが、今はアリスと空、二人で暮らす平穏がそこにある。窓の外には特別な異変もなく、ただ、夏の夜が重く垂れ込めているだけだ。そのはずなのに、空はまだ時折、遠い記憶の影を背負っている。あの廃病院での悪夢、追い詰められた恐怖、理解不能な存在——過去の記憶が不意に襲い、目を閉じるたびに微かな幻覚のような映像が脳裏を横切る。
「……アリス……暑いって……」
空は囁くように文句を言うが、もちろん寝ている彼女は返事をしない。代わりに、すべすべした彼女の腕が、まるで「嫌だ」と言わんばかりに首元に回り、さらに密着度を上げてきた。肩越しに感じる彼女の呼吸は温かく、耳元にかかる吐息が妙にくすぐったい。夏の夜を冷ますどころか、むしろ熱を上乗せしていくかのようだった。
空は仕方なく、諦め半分で唇を尖らせ、天井のシルエットに目をやる。ファンがきしむ音を聞きながら、その単純なリズムに意識を合わせる。外で遠く誰かのバイクが走り抜ける低い唸り声がして、それが過ぎ去ると、また静寂に戻る。なんてことない普通の夜だ。その「普通さ」が、つい昨日の悪夢がどこかへ薄れていることを示しているようで、ほんの少し安心している自分に気づく。
たとえ寝苦しくとも、アリスがこうして隣で眠っていることが、悪夢を吹き飛ばす鎮静剤のような役割を果たしてくれているのかもしれない。彼女の存在が、過去の恐怖と今の平穏をはっきりと区別し、空の心を地上に繋ぎとめていた。こうして、ほんの少し窮屈で暑苦しい夜を超えれば、明日はきっと、もう少し楽になるだろう。
「……冬なのにあっついなー」
空は諦めて目を閉じる。汗が首筋を伝うけれど、今は抱きつかれながらも眠れるはずだ。アリスがそこにいる。それだけで、闇は後退し、夜の重苦しさもいつかは過ぎ去る。
ファンが回り続けるかすかな音が、子守唄代わりになった気がした。空は少しずつ意識が遠ざかり、短い夢の中へと身を投じる。アリスの腕に包まれながら、少しの苦笑いと共に、夜がゆっくりと明けていく。
そんな中、別部屋でユキは歌を歌って夜を過ごしていた。小さな六畳の居室には、スーツケースや日用品が雑然と並べられ、一見して仮住まいに近い様子だった。明かりはスタンドライトひとつだけ。薄黄色の光が、彼女の黒髪を柔らかく照らしている。
ユキは古い木製の椅子に腰かけ、スマホを手に歌詞を確認しながら、口元を小さく動かしていた。声はか細く、ほとんど囁き程度で、隣室まで響くほどの声量ではない。長旅を終え、この家に辿り着いたのは数日前のことだった。彼女は空とアリスの許にしばらく身を寄せることになり、一緒に任務をこなす段取りが進められている。とはいえ、この小さな家で暮らし始めてまだ日が浅いユキは、まだどこかよそよそしく、自分の居場所を探しあぐねていた。
歌は古い民謡風の調べであり、ユキの故郷で昔から伝わる子守唄だという。声に出すというより、口の中で転がすような反芻だったが、時折その旋律に安らぎを得るように、瞳を閉じて微かに揺れる。幼い頃、父が聞かせてくれた断片的な記憶を頼りにメロディを紡いでいるのか、あるいはただ心を落ち着かせるための習慣なのかもしれない。
「……ふぅ」
一度歌うのを止め、ユキは溜息を吐いた。湿度の高い夜気は、ここにも入り込んでいる。窓を少し開け放してはあるが、風は弱く、カーテンはわずかにたゆたうだけ。遠くで街灯が僅かに揺らめく程度で、この住宅街は深夜の静寂に包まれていた。
耳を澄ませば、ほとんど音がない。かすかに壁越しにファンが回る音が聞こえる気もするが、それが空とアリスの部屋なのか、隣家なのか判別できない。彼女は薄いガウンを羽織り、手首につけた細い銀のブレスレットを弄りながら、もう一度ゆっくりと歌詞を追う。
ユキが今夜、歌を口ずさんでいたのには理由がある。明日は任務があるらしい。空がそう伝えてきた。「大したことはない、調査程度だ」と言っていたが、ユキにはわずかな不安があった。ここ最近、かつて経験した“あの”不可解な事件や存在に再び対処する話がちらついている。空とアリスが必死に日常を取り戻そうとしていることを知りながら、ユキはそれに合わせて笑ってみせるしかなかった。
(本当に、ただの調査ならいいけど……)
ユキはスマホの画面を消し、立ち上がってカーテンの隙間から夜空を見た。星は幾つか淡い光を放ち、月は半分ほど欠けている。この町は思ったよりも静かで、温かみがあった。ユキにとって、安定した居場所というものは、ここ数年あまり縁がなかったが、空とアリスが暮らすこの小さな家は、少なくとも逃げ込む先としては申し分ない。
かすかにアリスの気配を想像する。おそらく彼女は空にべったりと抱きついて眠っているだろう。先日、アリスが「この家で一緒に過ごせば、少しは心が休まるかも」と声をかけてくれた時、ユキはその言葉に素直な感謝を覚えた。一人きりの部屋で夜を過ごすこともできたが、友人たちの存在は、根拠のない安心を与えてくれる。彼らは大丈夫だろうか、過去を引きずっていないか——そんな風にユキが気遣う必要のないほど、二人は元気に振る舞っていた。
(でも、空さんはああ見えて繊細だからなぁ……)
ユキは自嘲するように微笑んだ。過去の事件を共有している以上、彼らの傷はユキにも何となくわかる。その上で、今はこうして平穏な夜を過ごしている。闇の中で囁く幻聴や悪夢から、どれだけ逃れられるだろう? いつかは向き合わなければならないのかもしれない。だが、今は無理をせず、小さな部屋で囁くような歌を歌って過ごすだけでいい。
その時、微かな振動とスマホのバイブレーションが、ユキの手元に置かれたスマートフォンを揺らした。ほとんど音を立てず、ただ静かに震えるだけの通知だったが、この深夜の静寂には十分な衝撃だった。ユキはわずかに息を飲み、すぐに画面を確認する。暗闇の中で、スマホのディスプレイが淡い光を放ち、彼女の瞳に小さく映り込んだ。
「……こんな時間に?」
ロック画面には短いメッセージ通知が浮かんでいる。差出人は「オペレーター03」。生物庁内部の通信班が使用するコードネームで、任務の進捗や新たな指令があるときに連絡が来る。こんな夜更けに何が起きたのだろう。ユキは眉をひそめ、メッセージを開く。
【新規確認情報:対象地域C-12エリアにて異常生物発生。】
短い文面には、それ以上の詳細はない。しかし、この奇妙な時間帯に飛び込んだ知らせは、彼女が心に秘めていた不安を一気に沸騰させた。つい先ほどまでの静かな囁きや子守唄が、虚ろな残響となって部屋の片隅へと追いやられる。
「また、なの……?」
ユキは喉元で呟く。声はかすれて、自分でも聞き取れないほど弱い。その一言に詰まった感情は複雑だった。昨夜、空とアリス、そして自分が思い出したあの不条理な“過去”――つまり、正常ではない生物や現象に巻き込まれた経験。それから逃れ、ようやく平穏な暮らしを取り戻しつつあったこの家に、再び闇の手が伸びようとしているのか。
ユキが沈黙を抱え込むようにスマホを握りしめている一方、その微かな振動は、薄い壁越しにアリスと空の部屋にも伝わっていた。もとより蒸し暑い夜で眠りが浅かった空は、腕にまとわりつくアリスの体温を感じながら、かすかな電子音と僅かな振動を感じ取る。「あれ……?」半ば無意識のうちに瞼を開けると、枕元に置いた自分の端末が青白い光を発していた。
「アリス……アリス、起きて」
空は小声でささやく。彼女はまだ浅い眠りの中を彷徨っているらしく、寝ぼけた声で「ん……何……?」と応える。その返事は甘えた吐息に混じり、微かに不機嫌そうな調子を含んでいた。
「通信が来てる。生物庁からかもしれない」
空がそう告げると、アリスは一瞬、不快そうに顔を歪め、それからようやく腕の力を緩めて空を解放した。蒸し暑く汗ばんだ肌が離れ、少しだけ空は呼吸しやすくなる。
「えー……今何時よ……?」アリスは目をこすりながら、枕元の時計をちらりと見る。深夜をだいぶ回った時刻だ。こんな時間に連絡が来るということは、ただの定期報告ではない。
「知らないけど、なんか嫌な予感がする」
空は端末を手に取り、ロック画面を確認する。そこにはやはりオペレーターからの簡潔なメッセージ。ユキが受け取ったものと同様に、「対象地域C-12エリアにて異常生物発生」と記されていた。
「また……面倒なことになりそうね」
アリスは歯切れ悪く言うと、上体を起こして背もたれに寄りかかる。眠気がまだ抜けきらないが、この非常時にダラダラしていられない。生物庁からの緊急連絡は、少なくとも“何かが起きた”ことを示している。夏の夜の静寂が、一気に薄氷を踏むような緊張感を伴い始めた。
「C-12って、確か……」
空は地図を思い描く。C-12エリアは、ここから1キロの高速道路だったはずだ。かつて探索を行った痕跡もある場所で、地形が複雑で視界が悪い。もし本当に異常個体が出没しているとすれば、再び現場に赴かなければならない可能性が高い。
「まさか明日の任務って、これと関係あるんじゃ……」
「いや、だとしたら何故そんな予告をするのか……」
空の呟きに、アリスは半醒半睡の意識で鋭い眼差しを向けた。いつもなら呑気に返すところだが、今はその余裕がない。背筋にかすかな悪寒が走る。伝達内容は極めて簡潔だったが、こんな深夜に叩き起こすようなメッセージであることが不穏さを物語っている。
アリスは口元を引き結び、端末を手に取った。「オペレーター03か……」彼女は画面上の通報元を睨みながら、過去に同様のケースがなかったか記憶を探った。通常、オペレーターからの連絡は任務開始前に一度に集約して通知されることが多く、こんな奇襲的な連絡が入るのは稀だ。
突如、静まり返った寝室に甲高い着信音が響いた。アリスは目を丸くし、空は一瞬、息を呑む。メッセージ通知の直後、電話がかかってくる――それは滅多にない事態だった。深夜に鳴る携帯の画面には、生物庁所属の同僚、レナの名が表示されている。慌てて、空が端末を手に取る。
「……レナ? こんな時間にどうした?」
声を低く抑えながら問いかけると、受話器越しに微かな雑音が混じる。レナはいつも冷静沈着だが、この状況で連絡をよこすからには、並々ならぬことが起きたに違いない。空は汗ばむ手のひらでスマホを握り締める。
『ごめん、急に連絡して。通知から情報が入ったでしょう?大変なことが起きてるの』
レナの声は低く、圧し殺したような響きを帯びていた。受話器越しに感じる雑音が、彼女が屋外か、あるいは隔壁の薄い場所にいることを示唆している。空は息を呑み、アリスも身を乗り出して耳をそばだてた。深夜の寝室は先ほどまでの蒸し暑い静寂を失い、得体の知れない不穏な気配で満たされていく。
「レナ、詳しく言ってくれ。何があった?」
空は冷静さを装おうとするが、声がわずかに震えるのを押さえられなかった。電話越しであっても、彼女が滅多に見せない焦燥を含んだ声で話していることが伝わってくる。
「オペレーター03から連絡が来たでしょ?C-12エリアで異常生物が確認されたって通知、自衛隊や災害対策特別委員会に電話したら『超巨大生物』が出現したらしい」
「自衛隊や災害対策特別委員会に電話したら『超巨大生物』って……どういうことなんだ?」
レナの声が受話器越しに揺れる。普段ならどんな緊急事態でも冷静な彼女が、言葉尻を荒くするなど滅多にないことだ。空は胸中で予期せぬ不穏な響きを感じ取りながら、片手で額の汗を拭う。アリスは横で無言のまま耳を澄まし、ユキは仕切り越しにかすかな物音を感じているだろうか。
「詳細は私にもまだ分からない。でも、オペレーター03からの報告によれば、C-12エリアを中心に、未確認の巨大生物が深夜に目撃されたそうよ。しかも、一度じゃない。複数の目撃証言があって、しかも半ば都市伝説じみた存在まで取り沙汰されている」
レナは早口で続ける。呼吸が粗い。空はひとまず彼女の話を一言一句逃さぬよう集中する。
「最初は夜間の不審者通報か何かと思ったらしい。でも現場から送られてきたドローン映像には、歪なシルエットが映っていた。それが人外の巨大生物だって結論が下されたの。自衛隊が急遽出動準備を始めたとの連絡も入った」
「出動準備って……そんな簡単に?」
空が思わず問い返す。自衛隊が動くとなれば、それは些細な事態ではない。何かしらの確証や深刻度があるはずだ。深夜に、人知れずそんな対応がなされるほどの脅威が発生したというのか。
「そう。噂によれば、それはただ大きいだけじゃない、異常に知能が高い可能性もあるんだって。まさかまた、あの手の生物兵器的な存在が裏で動いてるんじゃ……」
レナの声音には悲観と苛立ちが混ざり合っている。空は唇を噛んだ。二度と関わりたくないと思っていた世界の歪みが、また新たな形で迫ってきたのかもしれない。ユキの部屋で小さな物音がする。彼女も同じメッセージを受け取ったのだろう。アリスは沈黙したまま、空の肩越しにスマホ画面を覗き込み、そこに書かれた短い報告文を睨んでいる。
「それで俺たちに何をしろと?今すぐ出動しろっていうのか?」
空は静かに問う。自らも生物庁に身を置く一員として、事態が動けば彼らが呼び出されるのは必然だ。それは理解しているが、こんな突然、しかも深夜に準備なしで動けるわけがない。
「正式な指令はまだ降りていないけど、恐らく日の出前には指示が来るはず。オペレーター03から緊急連絡が来たってことは、上層部も近々動くつもりだと思う。私も待機してる。あなたたちの拠点からC-12までは車で約30分だよね?万が一の場合、すぐ支援要請が来る可能性が高いわ」
レナの言葉に、空は頭をかく。ユキやアリスと共に、平穏な日常を取り戻そうとしていた矢先に、また異形との関わりが生まれるなんて皮肉以外の何ものでもない。だが、生物庁に属する以上、逃れられない運命なのかもしれない。
「わかった。すぐには動けないが、準備はしておく。情報が入り次第また連絡してくれ。できれば、そちらで分かったことを共有してほしい」
「任せて。私も情報収集に当たる。それと、ユキにも伝えて。彼女は既に通知を受け取ってるはずだから」
レナが電話を切る気配がする。最後に小声で「気をつけて」と言った気がした。その一言に、空はわずかに胸が暖まる。緊張する中にも、仲間の存在があることが、精神的にどれだけ救いになることか。
通話が途切れると、アリスが溜息をついた。「超巨大生物、ねぇ……ほんと懲りないわね。この町、最近やっと平穏だったのに」 彼女の声には疲労混じりの諦めが滲む。 「まぁ、私たちが呼ばれるってことは、少なくとも専門家が必要ってことよ。仕方ないわね」
その時、ドアをノックする控えめな音が響いた。空とアリスが顔を見合わせると、「ユキかも」とアリスが小さく呟く。空がベッドから降り、寝巻姿のままドアに近づいていく。
ドアを少し開けると、そこにはユキが不安げな表情で立っていた。薄暗い廊下で彼女の黒髪が揺れ、スマホを握りしめた指が微かに震えている。「やっぱり、二人も連絡が……?」
「うん、レナから電話も来た。C-12に何か出たらしい」
空が静かに答えると、ユキは歯を食いしばるように軽く顔を伏せた。「やっぱり……これ、ただ事じゃないよね。私たち、出動するの?」
アリスが身を乗り出して、「まだ正式な指令はない。ただ、多分すぐ来るはず。準備だけはしておこう」と声をかける。ユキは困惑した顔を崩せず、深夜の静けさに自分たちが追い込まれる状況を呑み込もうとしていた。
「わかった。私も装備を整えるわ。何が必要か思い出しとかないと」
ユキは小さな声で言い、部屋へと戻ろうとする。その背中に空が「ありがとう」と呟くと、彼女はわずかに首を傾げ、苦い笑みを浮かべてから姿を消した。
ドアが閉まると、室内には再び蒸し暑い空気が溜まる。ファンが回る微かな音が、まるで時間を刻むかのように規則正しく響いていた。アリスは寝巻の裾を引っ張りながら、しぶしぶ立ち上がる。もう眠ることはできない。これから先、数時間以内に出動命令が下るかもしれない。その間にシャワーを浴び、身支度を整え、装備を確認しておく必要がある。
「ごめん、せっかくの休息が台無しね」
アリスが苦笑いしながら言うと、空は首を振って「仕方ないよ」と答える。 彼らが所属する生物庁は、こうした理不尽で不可解な現象と対峙するための組織だ。平穏を望みつつも、闇は消えない。あの廃病院での出来事のように、再び異形が人の世界を侵そうとしているのなら、逃げ出すわけにはいかない。
「超巨大生物……一体何なんだろう」
空が呟くと、アリスは引き出しからバッテリーや小型ライト、軍手などを取り出しながら答える。「さあね。でも、私たちが行って確かめることになるんでしょ。いつものことだけど」
その淡々とした言葉に、空は小さく笑みを浮かべる。確かに、これがいつものことだ。過去にも、数多くの異常存在に立ち向かってきた。時には危ない目にも遭ったが、それでも生き残り、こうしてここにいる。仲間がいて、備えがある。それがどれほど心強いか。
アリスがライトの点検を始め、空は押し入れの下段からフィールド用バッグを引っ張り出す。あの廃病院以来、しばらく使っていなかったが、中身は整備されているはずだ。救急キット、コンパクトな観測機器、HK416AR、遠距離用の照準装置。生物庁の活動では欠かせない道具が揃っている。
しばし無言の作業が続く。外はまだ夜が支配しているが、遠くの空が僅かに明度を増したような錯覚がする。日の出まであと数時間、何とか物資の確認と軽い仮眠が取れるだろうか。だが、心のどこかで不安が疼いている。超巨大生物、異常個体、新たな脅威——ただの調査で済むのか?またあの不条理な戦いを繰り返すことになるのか?
「空、あんたまた難しい顔してる」
アリスが小声でくすりと笑いながら肩を叩く。「考えすぎても仕方ないよ。私たちは呼ばれれば行く、それだけ。正体不明な存在に右往左往するのはあの頃で慣れたじゃない」
「慣れたって言うなよ……」
空は苦笑いしながら、アリスの肩に軽く頭を預ける。先ほどは暑苦しい抱擁から逃れたかったが、今は彼女の気楽な態度が救いになっていた。溢れ出る不安を彼女の微笑に溶かし込むように、夜の静寂を噛みしめる。
その時、再びユキの部屋から微かな音がした。彼女も装備を整えているのだろう。3人で再び過酷な現場へ戻ることになるかもしれない。だが、今はそれでいい。少なくとも、一人ではないのだから。
窓の外で街灯が瞬き、遠くで鳥の声がかすかに響く。夜がわずかに揺らぎ、刻々と朝へ近づいている。ファンは相変わらず頼りない風を送り、湿度は高いままだが、気持ちは少しだけ清涼を帯び始めていた。
「空さんたちお待たせしましたー!」
ユキが遠慮がちに声をかけながら寝室のドアをノックした。少し前まで寝巻きのままだったはずだが、今は襟元をきちんと留めた薄手のシャツとパンツ姿に着替え、足元にはブーツを履いている。両手にはいくつかの装備を抱え、その表情は固くはないが、寝起きの緩さはもうどこにも見当たらない。薄暗い廊下の照明の下でも分かるくらい、彼女の瞳には覚悟の色が宿っていた。白髮をさらりと垂らしたまま、さほど眠れていないのか、その瞳には微かな隈が見られた。
「準備、終わったのか?」
空が声を落として尋ねる。ユキはこくりと頷き、手にした装備を見せる。そこには彼女専用のおもちゃのライフルと、小型の防護プレートがセットされた簡易ベスト、ヘルメットなどが揃っていた。まるで遠足の荷造りのように、手際よくまとめられているが、その中身は殺伐としたものが多い。
空はユキの抱える装備に目をやり、思わず小さく息をのんだ。いつもは繊細な雰囲気を漂わせている彼女だが、その手に収まっている道具はどれもWar2特製の「米軍装備」に近い。もっとも、それは表向きには「戦争目的」のために調整された火器や防護器具のはずだった。しかし、見れば見るほど、遜色な代物に思えてしまう。
「ユキ、それ……戦うにはちょっと不安じゃないか? おもちゃのライフルみたいだ」
空がまゆを寄せながら口を開く。自分でも言葉を選んでいるつもりだったが、「おもちゃ」という言葉が少しキツく響いたかもしれない。ユキは目を伏せつつも、ゆっくりと首を横に振る。
「おもちゃじゃあありません!ちゃんと弾は撃てます――あれ?撃てない?」
「それじゃあ実践に使えないね」
空の何気ない言葉に、ユキが一瞬だけ唇を尖らせる。彼女にしてみれば真剣な装備なのだ。だが実際のところ、そのライフルは「実銃」とは異なる寸法で、拡張パーツを無理に取り付けたせいで見た目に少し無骨な改造感が漂っている。「おもちゃ」と言われてしまえば、たしかにそう見えなくもない。
ユキはしばらく困惑したようにそのライフルを見つめたが、すぐに意地を張るように顔を上げた。
「大丈夫。これ、ちゃんと撃てるはず。……たぶん」
その曖昧な自信に、アリスは苦笑いを浮かべた。「たぶんって……まぁいいわ。使えなかったら私たちでフォローするから、無理しないでよね」
ユキはふくれっ面になりながらも頷くと、装備を背中に背負い直した。アリスの穏やかなフォローに救われたようで、少し肩の力が抜けたようにも見える。
「さて、私たちもそろそろ準備を整えよう。」
空は少しだけ息を吐き、気を取り直すようにバッグを閉めた。
3人はそれぞれの装備をチェックしながら、出動の準備を進めた。薄暗い部屋の中で、何度も確認を繰り返しながら、静かな緊張感が漂う。それでも、3人が集まり言葉を交わすたびに、わずかながらも安堵の空気が生まれていた。
玄関を開けると、肌にまとわりつく湿気が一気に押し寄せた。夏の夜気が、蒸し暑さと土の香りを伴って3人を迎える。外の空は依然として濃紺に染まり、星の光が弱々しく瞬いている。遠くから微かに虫の声が聞こえ、住宅街は深い静寂に包まれていた。
「行くか……」 空が小声で呟き、車のキーを手に取った。ユキとアリスがそれに続く。3人の足音は慎重ながらも迷いはなく、やがて彼らは車の近くに辿り着いた。ライトを点けると、黄色い光が車の正面を照らし出し、アスファルトのひび割れや散らばった枯れ葉が浮かび上がる。
全員が車内に乗り込み、エンジンをかけた。振動が車体に伝わり、緊張感を伴う静寂が一瞬破られる。空がハンドルを握り、アリスが助手席に座り、ユキは後部座席で装備を抱え込むように腰掛ける。まだ馴染みの浅い車内の狭さが、どこか落ち着きを与えてくれるようでもあった。
「C-12までは30分くらいだったな」 空が確認するように言うと、アリスが地図アプリを操作しながら頷く。
「そうね。この時間なら渋滞もないし、すぐ着くはず。でも、現場近くはどうなってるか分からないから気をつけて」
エンジン音が低く唸りを上げ、車がゆっくりと動き出す。住宅街の静かな道を抜け、暗闇の中で街灯の間を走り抜ける。3人の誰もが無言だったが、それぞれの表情には緊張と覚悟が浮かんでいた。窓越しに流れる影が、夜の不安定な空気を感じさせる。
ユキは後部座席で手にした装備を何度も確認しながら、自分を奮い立たせていた。空とアリスの背中を見つめながら、心の中で呟く。(大丈夫。2人がいる。私も役に立てるはず)
アリスは助手席から夜道を眺めつつ、時折、スマホを操作して状況の追加情報がないかチェックしている。だが、現時点では通知以上の具体的な情報は得られていない。彼女は少し苛立ちを覚えながらも、「現場で全て分かる」と自分に言い聞かせた。
空はハンドルを握りしめながら、心の中で静かに過去の記憶を整理していた。あの廃病院での出来事、異形との遭遇、そしてそれ以降の生活。すべてが、この瞬間に繋がっているような錯覚を覚える。彼は短く息を吐き、目の前の道へ集中した。
車は静かに加速し、夜の闇を切り裂いていく。その先に待ち構えるのが何であれ、彼らはもう後戻りできないことを理解していた。
C-12エリアまでの道のりは、やがて高速道路へと切り替わる。街の明かりが徐々に遠ざかり、周囲は深い暗闇に包まれていく。車内の緊張感は増すばかりだが、それでも彼らは前進を止めなかった。遠くから微かに雷鳴のような音が響いた気がした。それが異常生物の仕業なのか、ただの自然現象なのか、今はまだ分からない。
「覚悟はいいか?」 空がぼそりと呟くように問いかけると、アリスとユキがそれぞれ「もちろん」「大丈夫」と短く答えた。その声には、確かな決意が込められていた。
車は速度を上げ、C-12エリアへ向けて突き進んでいく。高速道路走る中、夜の闇が濃くなる一方で、遠くの空が微かに明るさを帯び始めている。朝の訪れを予感させるその微光は、安心感をもたらすどころか、これから起こる何かへの不安をさらに掻き立てていた。
高速道路はほぼ無人だった。ヘッドライトが照らす視界には、ひび割れたアスファルトと路肩に散らばる落ち葉だけが見える。空は速度を保ちながらも慎重にハンドルを握り、横目でアリスの手元を確認した。彼女はスマホで地図と現場付近の情報をチェックしながら、小さなノートにメモを書き込んでいる。
「何か分かった?」空が尋ねると、アリスは眉を寄せながら首を振った。
「まだ具体的な情報はない。でも……気になることがある。さっき、オペレーター03から届いた追加の通知に『視覚外領域での活動』って書いてあった」
「視覚外領域?」ユキが後部座席から声を上げる。
「そう。要するに、通常の観測機器じゃ捉えきれない範囲で動いている可能性があるってこと。それがただの比喩ならいいけど……」
アリスは言葉を濁したが、空もユキもその意味を理解していた。視覚外領域——過去の任務でも、異常存在が通常の視覚やレーダーでは確認できない状態で活動していた事例があった。それは往々にして、状況をさらに混沌とさせる要因だった。
「ドローン映像に映ってたんだろ? それなら何かしら形はあるはずだ。でも、それが俺たちに見えるかどうかは別の話か……」
空はハンドルを握る手に力を込め、眉間に皺を寄せた。ユキは後部座席で装備のチェックを続けながら、彼らの会話を黙って聞いていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「もし……もしその生物が見えなくても、音や振動、周囲の変化で気配を感じ取れるんじゃないかな? 私たちが対処した異常存在って、いつも何かしら『痕跡』を残してたし」
「そうだな。その可能性はある」空が頷く。「でも、痕跡を辿れるかどうかは状況次第だ。何より、相手がどんな形をしていて、どう動くのかも分からない」
会話が途切れ、車内には再び緊張した沈黙が戻った。するとその先に数台の車の赤いテールランプが見えてきた。道路を狭まるように停車しているらしく、遠目からもその異様な静けさが感じ取れる。
「……渋滞か?」
空はテールランプの様子を見ながら、スピードを落として慎重に近づいた。車両は高速道路の中央に不規則に停車しており、その周囲には誰の姿も見えない。道路の脇には倒れたコーンや散らばった荷物が散乱し、何かが突然起きたような混乱がうかがえた。
「これは……」アリスが小声で呟く。「事故じゃなさそうね。誰もいないし、何かがおかしい」
空はハンドルを握りながら車を徐行させ、テールランプが光る一台一台を注意深く観察した。どの車もエンジンが停止しており、ドライバーの姿はない。車内には放置されたカバンや荷物が見え、窓ガラスが割れている車もあった。
「一体何が……」ユキが後部座席から身を乗り出して外を覗く。彼女の手は装備に自然と伸びており、体全体に緊張が漂っていた。
「車を捨てて逃げたんだろうな」空が口を開いた。「でも、これだけの車が無人になるなんて……普通じゃない」
アリスは窓越しに散らばる荷物や倒れたコーンを観察しながら、何か手がかりを探しているようだった。「痕跡はあるけど、どこにも人影が見当たらない。まるで全員、突然消えたみたい」
「消えた……?」ユキが不安げに繰り返す。背筋に冷たいものが走るのを感じながら、彼女は車外の闇をじっと見つめた。
空は車を路肩に寄せて停車させた。「ここで降りよう。状況を確認する必要がある」
アリスが頷き、すぐにシートベルトを外した。「ユキ、周囲の警戒をお願い。私たちは手分けして車両を調べるわ」
「わかった」ユキは少し緊張した面持ちで答え、装備を手にして車外へと出た。3人はそれぞれ懐中電灯を手に持ち、散乱した車両の間を慎重に歩き始めた。
高速道路の異常な静けさ
外に出ると、湿った夜気が肌にまとわりつき、周囲の不気味な静けさがいっそう際立った。高速道路という場所で、これほど音がない状況は異常だった。虫の声も、風の音も、遠くから聞こえるはずのエンジン音すら一切なく、ただ静寂だけが支配している。
「何もいない……どこに行ったんだ?」空は低く呟きながら、最初の車両に近づいた。運転席のドアは開け放たれ、車内にはバッグやペットボトルが散らばっている。エンジンは完全に切られた状態だ。
「空、この車の後部座席……」アリスが別の車を調べながら声を上げた。「ここにも荷物がそのまま残ってる。運転手も同乗者も消えてる」
ユキも遠くの車両を覗き込みながら、「みんな急に消えたみたいに……でも、そんなことって……」と不安げに呟いた。
空が歩きながら周囲を照らすと、車の一台の側面に爪で引っ掻いたような深い傷がついているのを発見した。「アリス、ユキ、これを見てくれ」
二人が駆け寄り、傷を確認する。アリスが懐中電灯で照らしながら、「これ、普通の事故じゃできない傷よ。大きな力で押しつぶされたか、鋭利なものが当たったか……でも、こんな形状の傷は見たことがない」
「ここにも……」ユキが別の車両を指差す。その車のボンネットには、大きな歪みと血のような赤黒い液体の痕跡が残されていた。
「やはり何かがここで暴れたんだ」空が眉をひそめる。「でも、それにしても痕跡が少なすぎる。これだけの車が放置されているのに、目撃証言や救援活動がないのもおかしい」
アリスは辺りを見回しながら、「視覚外領域って言葉が引っかかる。もしこの巨大生物が私たちの認識できない形で動いているとしたら……」と言葉を切った。
「それなら、どうやって対処するんだ?」ユキが不安げに尋ねる。
空は唇を噛み、ふと足元に視線を落とした。すると、アスファルトに奇妙な模様が刻まれているのを見つけた。それは、巨大な爪跡のようにも見える長い線状の凹みだった。「見ろ……ここにも痕跡がある」
アスファルトに刻まれた奇妙な模様に、3人は一斉に視線を向けた。それは規則性のない線状の凹みであり、巨大な爪跡のようにも見えたが、動物のものとは明らかに異なっていた。凹みの周囲には小さな砕けた石や粉塵が散らばっており、何かがアスファルトを削り取ったような痕跡がはっきりと残っていた。
アリスが膝をつき、懐中電灯の光を当てながら凹みを丹念に観察した。「これ、単なる擦過痕じゃないわね。何かがここを滑らせたような跡……でも、摩擦の具合が不自然すぎる。圧力は大きいけど、単なる物理的な力とは思えない」
彼女の指がそっと凹みの縁をなぞると、表面には焦げたような痕跡が見つかった。「高熱……かしら。何かが高温状態で接触した可能性もある。これ、普通の生物の爪や牙じゃ説明がつかない」
ユキの観察
ユキはその周囲に注意を払い、懐中電灯を地面に向けて動かした。「こっちにも同じような痕がある。でも……これ、一直線に繋がってるみたい」
彼女が指差した方向には、アスファルトの表面が連続的に削られた痕跡が続いており、その先はさらに暗い闇の中へと消えていた。まるで巨大な何かが這うように移動したかのようだった。
「これだけの痕跡を残すってことは、相当な質量と力が必要だよね。こんなものが人間の視界から消えるなんて……どうして?」ユキは不安げに呟いた。
空は二人の観察結果を聞きながら、周囲の闇に視線を巡らせた。「この痕跡を辿るしかないな。何かがここで動いていたのは間違いない。車が放置されている理由も、それと関係してるはずだ」
アリスが立ち上がり、ユキに向かって頷く。「空が正しいわ。このまま進むしかない。ここで待っていても何も解決しない」
「でも……危険じゃない?」ユキは声を潜めながら問う。「私たちが相手にできるようなものかどうか、まだ分からないんだよ?」
「分からないことが多いのはいつものことさ」空が軽く笑みを浮かべた。「ただ、このまま逃げても、また別の形で追い詰められるだけだ。調査するぞ」
3人は凹みが続く方向に慎重に歩き出した。懐中電灯の光が、削られたアスファルトを追いかけるように照らし出し、周囲の静寂がますます不気味なものに感じられる。凹みの線は時折分岐し、曲がり、まるで複雑なパターンを描いているかのようだった。
やがて、痕跡は高速道路から側道へと続いていった。そこは雑草が生い茂り、使われなくなった小道のように見えた。痕跡はその道をさらに奥へと誘うかのように続いている。
「明らかにこれ、ただの車両事故じゃない」アリスが息を潜めて言った。「私たち以外にも、この痕跡に気づいた人がいるはず。なのに、誰もここに来ていないのはおかしい」
「視覚外領域……」ユキが再び呟いた。「もしかしたら、本当に何かが私たちの感覚を遮ってるのかもしれない」
「とりあえず、出来る限り捜査を3分で終わらせろ。痕跡を見つけたら俺に報告、敵と遭遇したらこちらで緊急として判断する」
空は静かに指示を出しながら、懐中電灯の光を前方へ向けた。彼の声には冷静さと緊張感が入り混じっており、アリスとユキもそれに無言で頷いた。それぞれが慎重な足取りで痕跡を追いながら、散らばる物体や周囲の状況に目を凝らす。
アリスは凹みの続く方向をたどりながら、地面に残された細かな痕跡を観察した。彼女の懐中電灯の光が何かを照らし出した瞬間、足を止める。「これ……」
彼女の前には、逃げ遅れた男性のものと思われるジャケットが捨てられていた。ジャケットには引き裂かれたような跡があり、その近くには小さなスマートフォンが落ちている。スマホは液晶が割れ、操作不能な状態だったが、背面には血のような赤黒い汚れが付着していた。
アリスはそのジャケットを懐中電灯で照らしながら、足元を探った。「ここで何かがあったのは確かだけど……こんなに近い場所で、これだけ少ない痕跡って……?」
彼女は少し顔を上げ、周囲の闇を見渡した。ジャケットの周囲には草が潰されたような跡があり、何かが力強く押し倒した痕跡がある。だが、血痕や引きずられた跡のようなものは、他には見当たらない。
「何かがこの人を引き裂いた……けど、ここから消えたようにしか見えない」
アリスは呟きながら、慎重に近くを探った。遠くから空とユキの声が微かに聞こえたが、耳に届くのはわずかに風が草を揺らす音だけだった。
ユキはアリスから少し離れた位置で、懐中電灯を地面に向けながら痕跡を探していた。彼女の目は鋭く、細かな物でも見逃さないように集中している。「これ、なんだろう……」足元に、光沢のある黒い液体がわずかに染みているのを発見した。液体はまばらな点のように散らばり、地面を引きずるように線を描いていた。
「空さん、アリスさん!」ユキは声を上げて呼びかける。「こっちに変な液体があります!なんか……油みたいだけど、臭いが……違う気がします!」
ユキはしゃがみ込んで液体を懐中電灯で照らしながら観察した。それは油のように見えたが、ほんのり赤みがかかっており、生物由来の何かを含んでいるようにも思えた。彼女は少しだけ液体に指先を近づけ、匂いを嗅ごうとした。
「待て!触るな!」空の声が鋭く響いた。ユキは驚き、慌てて手を引っ込めた。空が駆け寄り、液体を懐中電灯で詳しく観察する。
「何か生き物の体液っぽいな。でも、この量だと、それなりに大きい生物じゃないとありえない……」
アリスも近づき、液体の痕跡を見下ろしながら頷いた。「しかも、これ……熱を持ってた形跡があるわ。乾ききっていないのに、周囲の草が変色してる。腐食性かもしれない、慎重に扱った方がいい」
空は液体の方向に続く地面の凹みを指し示し、「この液体がこぼれた先にも、何かが続いてる。行くしかないな」と短く言った。
ユキは立ち上がり、懐中電灯を再び前方に向けた。「これを追うの、危険だよね。でも、進むしかないなら……」
アリスがユキの肩を軽く叩き、「大丈夫、私たちがいる。慎重に行けば、きっと大丈夫よ」と微笑んだ。その言葉に、ユキも少しだけ緊張を解いたように見えた。
3人は液体の痕跡を追いながらさらに奥へと進んだ。側道の雑草が次第に鬱蒼とし、闇はさらに濃くなる。足元には散らばった石や枯れ枝があり、静かな夜の空気を緊張が支配していた。
やがて、痕跡は突如途切れ、周囲が静寂に包まれた。その場所は小さな広場のように開けており、木々に囲まれた空間がぽっかりと現れていた。
「ここで途切れてる?」ユキが不安げに呟いた。
空はその場にしゃがみ込み、周囲を観察しながら首を振った。「いや、ここで終わりってわけじゃない。きっとこの先に続いている。ただ、形跡が分かりにくくなってるだけだ」
アリスは目を細めて広場の中央を指差した。「あそこ、地面が少しだけ凹んでる。何かが重くのしかかったみたいな感じ……」
3人はさらに慎重に歩を進め、広場の中央へと向かった。そこには、直径2メートルほどの円形の凹みがあり、地面が焦げたように黒ずんでいた。その中央には、先ほど見た液体がさらに濃く溜まっており、不規則な形の物体が埋もれていた。
「これ、何だ……」空が呟きながら懐中電灯を物体に向ける。その瞬間、光が物体の表面を反射し、奇妙な質感が浮かび上がった。それはまるで、皮膚のような滑らかさと金属的な光沢を併せ持つ異様なもので、見るだけでぞっとするような不安感を覚えさせる。
「これが、あの『超巨大生物』の一部なの?」ユキが声を震わせながら問う。
アリスは慎重に周囲を観察しつつ、「可能性はある。でも……これ、まだ動いてる可能性もあるわ。気をつけて」
その言葉に3人は身構えた。静寂が再び広場を包み込む中、物体が微かに震えるような気配を見せた。空は咄嗟に手を挙げ、静かに後退するよう指示した。
「やばい……動くぞ!」
広場の静寂が一瞬にして崩れた。目の前の異様な物体が、まるで命を持っているかのようにわずかに震え、その中心部から低い音が響き始めた。まるで巨大な心臓が脈打つかのような音だった。
「後退!ここから離れるんだ!」
空が叫び、懐中電灯を握る手に力を込めた。アリスとユキも即座に反応し、広場の外周に向かって慎重に足を引いた。
その瞬間、物体の中心から赤黒い光が漏れ出した。奇妙な模様が浮かび上がり、まるで生物が目を覚ましたかのような不気味さを醸し出している。光は波紋のように広がり、周囲の空気が震えるような感覚を伴った。
「これはただの残骸じゃない……まだ生きてる!」アリスが叫ぶ。彼女の声には明らかな緊張が滲んでいた。
物体の表面がさらに激しく震え、ついには何かがそれを突き破るように姿を現した。鋭い刃物のような突起が次々と飛び出し、周囲の草や地面を引き裂く。その姿は視覚に捉えがたいほど異様で、まるで生物と機械が融合したような不気味な形状だった。
「何だこれは……!」ユキが震える声で叫び、背中の装備に手を伸ばした。
空は冷静さを保ちながら、「戦闘準備だ!防御ラインを取れ!」と指示を出す。3人はそれぞれの装備を構え、物体から距離を取った。
突如として、異形が完全にその姿を露わにした。それは6本の脚を持ち、鋭利な牙や刃が体中から突き出している。体表は光沢のある黒い殻で覆われ、赤黒い液体が滴り落ちていた。体の中央には無機質な瞳のような器官があり、それが3人を睨みつけるように動いた。
「撃つぞ!」空が叫び、アサルトライフルを構えた。「弱点を探せ!」
アリスがすぐに後方から支援射撃を開始した。彼女の正確な射撃が異形の体表を弾き、火花を散らす。しかし、その殻は驚異的な硬度を持ち、弾丸をほとんど無力化している。
「表面が硬すぎる……!」アリスが歯を食いしばりながら言う。
ユキも懐中電灯を異形の動きに合わせて照らし、注意深く観察していた。「待って!あの中心の赤い部分、あそこが弱点かも!」
ユキの指摘に、空が一瞬瞳を細めた。「よし、そこを狙うぞ!ユキ、スポットライトで照らしてくれ!」
ユキは懐中電灯を全力で赤い部分に向け、異形の中心を照らした。その光が異形の目のような部分を直撃すると、明らかにその動きが鈍った。異形はギギギという金属音のような声を上げ、体を激しく震わせた。
「やはり弱点だ!」空が叫び、アサルトライフルを赤い部分に向けて引き金を引く。弾丸が直撃し、異形の体から赤黒い液体が噴き出した。
異形は傷を負ったものの、なおも動きを止める気配はない。その刃のような脚が地面を引き裂き、広場全体が揺れる。アリスが咄嗟に叫ぶ。「全員、距離を取って!ここは狭すぎる!」
3人は広場の端に向かって後退しながら、攻撃の手を緩めない。ユキは再び光を当て続け、空とアリスがその隙に攻撃を加えた。
やがて、異形は再び中心部を赤黒く光らせた。その光が広場全体を覆い、3人の視界を一瞬奪う。しかし、その直後、異形の動きが徐々に鈍くなり、最終的に完全に停止した。
「倒れた……?」ユキが息を切らしながら呟く。
「いや、油断するな。まだ何が起きるか分からない」空が冷静に言い、慎重に異形の動きを観察する。
しかし、それ以上の動きはなく、異形の体は徐々に赤黒い液体に溶け込むように崩れていった。その光景は不気味でありながらも、どこか終わりを告げているようでもあった。
「何だったんだ……あれは」アリスが肩で息をしながら呟いた。
空は一息つきながら、異形が溶けた跡に目を向けた。「分からない。ただ、これが終わりじゃない気がする」
ユキも不安げにその場を見つめ、「他の場所でも、同じようなものが現れる可能性がある……」と声を震わせた。
広場には再び静寂が戻った。しかし、その場に残された不気味な痕跡と、異形が放った赤黒い光の残像は、3人の心に不安を刻み続けていた。
「戻るぞ。一旦報告して、装備と情報を整える。次の脅威に備えるんだ」空が短く指示を出し、3人はその場を後にした。
車に乗り込み、3人は静かにエンジンをかけた。広場を離れるとき、ユキが最後に振り返って赤黒く焦げた地面を見つめた。あの異形が溶けた跡は、まるで何かを予兆しているかのように不気味だった。
「空さん、本当にこれで終わりなんですか?」ユキが不安そうに尋ねた。
「終わりじゃないだろうな」空は目を細め、バックミラーに映る闇をじっと見つめた。「これだけの異常が起きたんだ。生物庁が動くのも時間の問題だし、次がどこで起こるかも分からない」
アリスは助手席でデバイスを操作しながら、「次の指令が来る前に、私たちでできることを整理しておいたほうがいいわね」と冷静に言った。「あの生物、物理攻撃には強かったけど、光や中心部の攻撃には弱かった。それを活かせる方法を考えるべきよ」
「確かに……」ユキは小さく頷き、「でも、他の個体が出てきたら、同じ弱点があるとは限らないですよね」と心配そうに言った。
「だからこそ、情報が必要だ」空はアクセルを踏み込み、車を加速させた。「帰ったらすぐにオペレーター03に報告して、追加情報を引き出す。そして装備を見直す。次はもっと大きなものが来るかもしれないからな」
3人はそれぞれの考えに沈みながら、車は高速道路を走り続けた。外はまだ暗く、星の光すら薄れたままだった。遠くに見える街の灯りが、次第に近づいてくる。
「でも……」ユキがぼそりと呟いた。「私たち、いつまでこんなことを続けるんでしょう?」
空とアリスはその言葉に一瞬視線を交わしたが、どちらもすぐに答えを出せなかった。車内に沈黙が戻る。やがてアリスが小さく微笑み、「少なくとも、私たちが生きている間はね」と軽く肩をすくめて言った。
空はハンドルを握りながら、視線を前方に向けて言った。「続けるさ。それが俺たちの役割だ」
車は夜の街へと滑り込むように進んでいった。静まり返った家々の明かりが徐々に見え始め、いつもの平穏が戻ってくるように思える。だが3人は、その平穏が一時的なものに過ぎないことを理解していた。