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黒い教室には、まだ声が残っている
黒い教室には、まだ声が残っている
乾為天女
ホラー怪談
2025年05月09日
公開日
1.6万字
連載中
取り壊しが迫る旧校舎に足を踏み入れた七人の高校生たち。 ただの肝試しだったはずの探索は、「黒く塗られた教室」をきっかけに、封印された記憶を呼び覚ます儀式となっていく。 黒い教室に棲むのは、50年前に火災で命を落とした少女・中西千景。 だが彼女は恨んでなどいなかった。 ――ただ、名前を呼んでほしかった。 ――ただ、自分がいたことを忘れないでいてほしかった。 夢の中で手紙を受け取る者、ノートを託される者、最後の声を聴く者── それぞれの記憶を手がかりに、彼女が残した“思い”を少しずつ紐解いていく七人の高校生。 その中心にいる旭と莉桜は、やがて前世のような過去に繋がり、自分たちが「なぜ選ばれたのか」を知る。 これは、語られなかった悲劇を、記憶の中で“生き直す”物語。 記憶は消えるものではなく、渡されるもの。 そして、名前を呼んでくれる誰かがいれば、人は“もう一度、生きることができる”。

chap001「忌まれた校舎の記録」

 昏れかけの空を、深く濃い茜色がにじませていた。

 グラウンドに伸びる影は、校舎の鉄骨の骨組みのように複雑に交差しながら、歩く者の背を引きずるようについて回っていた。

 旭は、校舎裏の柵の前で立ち止まった。

「なあ、こっちだよ」

 振り返って声をかけた先には、長い黒髪を揺らして莉桜が歩いてくる。彼女はその手に懐中電灯をぶら下げていた。

「この時間に入るってだけでも充分イカれてるけど、しかも取り壊し前の旧校舎。何考えてんの、旭」

「こういうのは空気が大事だろ? 昼間に来て調査って言っても、ワクワク感が足りない」

「呆れる」

 莉桜は額に手を当てる仕草をしながらも、口元だけは笑っていた。その横をすり抜けてきたのは、先に来ていた佳良だ。

「中、見てきた。正面ドアは板打ってあるけど、理科室裏の窓、割れてて通れる」

「お前、先に入ったのか? 一人で?」

 恭雅が眉をひそめる。佳良は軽く肩をすくめた。

「早く確かめたかっただけだよ。噂の『黒い教室』、あれ本当にあるか気になるだろ」

「……それ、嘘だったんじゃなかったっけ」

 そう呟いたのは櫂音だった。どこか所在なさげに壁際に立ち、スマホを手の中でくるくる回している。

「いや、違う。確かに地元掲示板に載ってた。旧校舎三階の、窓が一枚だけ黒く塗られてる教室。入った奴は“誰かの夢”を見続けるって」

「それ、どこソース?」と呆れ声をあげたのは芽維子。

「ネットだってば」と佳良は頬を掻いたが、口調に躊躇はなかった。「まあ、だから今日は実地調査だ。なんだって都市伝説ってのは、一度“自分の目”で確かめないと」

「私たち、まんまと旭のノリに乗せられたってことね」

「面白そうじゃん?」と旭は口角を上げて答える。

「亜澄美は?」と莉桜が尋ねると、校舎の影からスカートの裾をひらりとはためかせて現れたのは、整ったメイクにくっきりした目元の彼女だった。

「いるわよ、最初から。どうせあんたたち、騒ぐだけ騒いで何も見つけられないんだから。私が記録係してあげる」

「記録係って」

「だって、どうせSNSに載せるんでしょ? じゃあちゃんと記録映えする素材集めておかないと」

「それ、莉桜が一番嫌うパターン」

「別に。真実を知る方法が手段を選ばないなら、それでいい」

 莉桜の声は冷静だったが、どこか芯に火が通っていた。旭はその様子にひそかに感心する。彼女の中には、何かを突き詰めようとする意志が常にある。

 陽が完全に落ちたのは、それから数分後だった。

 七人は順に、理科室裏の割れた窓から校舎内へと侵入していった。


 窓枠をまたいだ瞬間、足元に踏み込んだ埃の感触がやけに重かった。

 中に入った旭は、懐中電灯をぐるりと回して照らした。

 浮かび上がったのは、黒板に貼られた黄ばんだ理科実験のポスター、天井からぶら下がる錆びたスプリンクラー、そして床に散らばる何十年もの時間だった。

「……空気が、違う」

 そう呟いたのは恭雅だった。彼の目が、窓の方に一瞬動く。

「外と中で、気圧が違う気がする。なんていうか……耳の奥が、ぎゅっと詰まる」

「私も感じた」と莉桜が口を挟んだ。「ここ、本当に何かあるかも」

「びびってんのか?」と佳良が笑ったが、その笑い方は少し硬かった。

 一行は、理科室から廊下へと抜けた。

 薄暗い廊下は、どこか船の中の通路を思わせた。左右に部屋が並んでいるが、扉はどれも閉じていた。床はところどころで沈み、足音を立てるたびに木が軋んで悲鳴のような音を立てる。

「これ、全員同じ方向歩いたら床抜けない?」

「嫌なこと言わないでくれ……」

 前を歩いていた瑠広が立ち止まった。

「なんか聞こえた。……足音じゃない。もっと、擦れるような……」

 その声に、全員の動きが一瞬止まった。

 耳を澄ます。

 ギ、ギリ……ギシ、ギリ。

 床の軋みとは違う、もっと上の方、天井の奥から……何かが這うような音。

「……動物とか?」と櫂音が声を潜める。

「廃校だよ? 動物がいるにしても、こんな足音……」

 旭は自分の足で床を軽く叩いた。確かに、先ほど聞いた音とは響きが違う。

「上、行ってみよう」

「えっ」

 全員の視線が旭に集中した。彼はその注目を真正面から受け止めるように口を開いた。

「誰かがここで亡くなったって噂、本当なら何か痕跡が残ってるはずだろ? 俺たち、ただ来ただけじゃ何も掴めない」

「でも、三階って例の“黒い教室”があるって言ってたとこ……」

「逆に行かない理由、ある?」

 その言葉に、誰も答えられなかった。

 しばらくの沈黙のあと、莉桜が静かに一歩を踏み出した。

「私は行くよ。……怖くないとは言わないけど、ここで帰る方が、あとでずっと怖い」

 旭は、彼女の後ろ姿に短く頷いて続いた。

 それに倣って、全員が無言でついてくる。

 階段の手すりは錆び、踏板は浮き、ほとんど一歩ごとにミシミシと音を立てた。

 一段、また一段と昇るたびに、温度がわずかに下がっていく気がした。

 三階に辿り着いた時、全員が思わず息を呑んだ。

 廊下の一番奥――

 そこだけ、空間が“黒い”。

 いや、黒く「塗られた」ように見える教室の扉。

 窓は完全に塗りつぶされ、そこから漏れる光もない。

 まるで異物。世界に違和感を埋め込んだような、不自然な存在だった。

「本当に、あったんだな……」

 佳良が震える声で呟いた。

「行こう」

 旭が先頭を歩き出す。

 手を伸ばし、ドアノブに触れる。冷たい金属が、まるで誰かの手のように返ってきた。

 ギィ……

 音を立てて、扉が開いた。

 真っ暗な教室の中。

 誰もまだ言葉を発していないのに、莉桜がふと呟いた。

「……誰かが、いる」

 その言葉に、教室の奥で──“何か”が、わずかに動いた。


 懐中電灯の光が、教室の中を照らした。だが光は、奥へ届くにつれて“食われる”ように沈んでいった。

 埃の層が視界を曇らせているのではない。そこだけ、空間そのものが異質だった。

 旭の懐中電灯が、教室中央に差し掛かった瞬間──

「おい」

 佳良が声を上げた。

「……あれ、机か?」

 そこには、唯一、まっすぐに並んでいた一組の机と椅子があった。

 だがその椅子は誰かが引いたまま止まっており、あたかも今そこに“誰かが座っていた”かのような痕跡を残していた。

「ちょっと、待って」

 瑠広が一歩後ろに下がった。彼女の足元で、乾いた音が響く。

「……何踏んだ?」

 莉桜がしゃがんで懐中電灯を向けた。そこにあったのは──

 焼け焦げた便箋だった。

「手紙?」

 恭雅が手に取るのを制し、旭が慎重に近づく。

 便箋は複数あった。焼けたページの縁が茶色く縮れ、しかし文字は──なぜか、残っていた。

“あなたがここに戻る頃、私はもう居ないでしょう。”

“それでも私は、この教室で待っています。”

「誰が書いたんだ……?」

 全員の呼吸が浅くなった。その瞬間──

「……あっ……」

 亜澄美が、短く呻くような声を上げた。

 彼女は後方で立ち尽くしていたが、いま、その表情は明らかに“見えていない”ものを見ていた。

「……わたし、……ここ、知ってる」

「何言ってんだ、初めて入っただろ」

 佳良が戸惑う声を出すが、亜澄美はそれを聞いていなかった。

 彼女の目は、宙を見ていた。

「……ここで、火が……すごく熱くて……でも、わたし、逃げなきゃって思って……」

 旭がそっと手を肩に当てた。

「亜澄美?」

「違う……あたしじゃない、これ、誰かの記憶……でも、私の中に入ってくる……!」

 教室の空気が変わった。音が消えた。風も、匂いも、すべてが“教室”の外に押し出されたように。

 代わりに聞こえてきたのは──

 チリ……チリ……

 火が紙を焼くような、乾いた音。

「この教室、……焼けてるんだ」

 莉桜が、震える声で言った。

「焼けたはずなのに、残ってる。それも、今みたいな姿で」

「待て、焼けたって何の話だ?」

 櫂音が叫ぶ。

「……旧校舎火災。五十年前、この教室だけが、火事に巻き込まれたって記録がある。生徒一人が犠牲になった……いや、教職員って説もある……」

 莉桜が震えながら、早口で続ける。

「でも──遺体は、見つからなかった」

 その言葉と同時に、誰かのすすり泣く声が、教室の奥から聞こえた。

 懐中電灯を向けても、そこには何も映らなかった。

 だが、泣き声は確かに“そこにあった”。

「出よう」

 恭雅の声が低く、明確だった。

「今すぐ、ここを出る」

 旭は頷こうとした。だが──

 ドアが、閉まっていた。

 開け放たれていたはずの教室の扉が、誰も触れていないのに、静かに……確実に、音を立てて閉じられていた。

 ギィ……ガチャ。

 閉ざされた音が、誰よりも早く、心の奥に届いたのは、旭だった。

 彼ははっきりと、自分の背中に、“何かの手”が這い上がる感覚を覚えていた。


「落ち着け……誰か、窓を……!」

 恭雅の声に反応し、佳良が窓に向かって駆けた。

 けれど──

「……おい、これ、塗料じゃねえ」

 彼の声が濁った。

「何言ってんだよ」

「黒く塗られてるんじゃない、これ……“向こうが無い”んだ」

 莉桜が懐中電灯を当てた。

 けれどそこにあったのは、ただ“黒”。完全な、真っ黒の空間。

 視線を当てるほどに吸い込まれそうな、存在しない深淵。

「ここ、閉じられてるんじゃない。……切り取られてる」

 その言葉の重さに誰もが黙った。

 教室の空気が再び揺らぎ、次の瞬間──

 櫂音が叫んだ。

「今、誰か……耳元で喋った! “見つけて”って……っ、嘘だろ!?」

「もう一度確認しよう!」

 旭が声を上げた。

「この教室に残されてるもの。便箋、他にもあるはずだ。ここがただの“噂”じゃないなら、何かが記録として残ってるはずだ」

 それは恐怖への反応ではなく、理性が最後に掴む“目的”だった。

 旭は地面に膝をつき、床の隙間に手を入れる。

 埃をかき分け、指先が“何か柔らかい紙”に触れた。

 一枚、また一枚──破れかけた手紙が束で出てきた。

「これは……」

 莉桜が、慎重にそれを受け取り、一枚を読み上げた。

“彼は知らなかったの。閉じ込められていたのは私だけじゃなくて、彼自身もまた、外に出られない存在だったなんて。”

「……意味、わからない」

「待って、それだけじゃない」

 莉桜はもう一枚、紙を取り出す。

“火事は偶然じゃない。誰かが、教室に鍵をかけた。”

「鍵……だと?」

 恭雅の眉間に皺が寄る。

「それが本当なら、放火か、それとも──」

「……誰かが、“閉じ込めるつもり”でやったのよ」

 そう言ったのは瑠広だった。

「生きている人間じゃなくて、“意識”を閉じ込めたかった。……この教室そのものに」

「どういう……」

 芽維子が言いかけたそのとき。

 亜澄美が、再び呻いた。

「……あたしじゃない……“彼女”が……泣いてる」

 旭が振り向いた。

 亜澄美の顔色は土気色で、目の焦点が合っていなかった。

「彼女、まだここに……」

 その瞬間、亜澄美の身体が“跳ねた”。

 誰かに押されたように、後ろへ倒れる。

「亜澄美ッ!」

 旭と莉桜が駆け寄る。

 彼女の胸が上下しているのを確認し、安堵した次の瞬間──

 耳元で、誰かが囁いた。

「次は、誰──?」

 風もないのに、教室の紙束がばさりと舞い、壁に張られていた過去のプリントが一斉に剥がれ落ちた。

 そこには、壁に直書きされた文字が現れていた。

“彼女はもう、思い出してしまった。”

“次はお前だ。”

 旭は、思わず喉を鳴らす。

「……思い出す? なにを……」

 莉桜が息を呑んだ。

「この教室に入るってことは……『記憶を受け継ぐ』ってことなのかもしれない」

「でも、誰の……記憶なんだよ?」

 その問いに、誰も答えられなかった。

 ただ、明らかに“何かの意志”が、七人の中に順に触れていく。

 今、ここにいるのは、七人だけではない。

 この教室には、“誰かがずっといる”。

 その誰かは、“忘れられること”を拒んでいる。

 そして今、次の誰かに、“全てを託そうとしている”。


 旭の額から、冷たい汗がひと筋、頬を伝って落ちた。

 この空間は、どこかが歪んでいる。

 目に見える景色、聞こえる声、自分の心の動きさえ──“自分のものではない”。

 懐中電灯の光が、ふとゆらいだ。

 いや、光ではなく視界そのものが“揺れた”のだ。

「……旭?」

 莉桜の声が遠ざかる。

 音が、色が、輪郭が──ぼやけて、溶けて、次の瞬間には──

 * * *

 視界が、切り替わった。

 目の前には、陽の差し込む昼間の教室があった。

 同じ黒い教室。

 だが、今はまだ塗り潰されていない窓、掃除された床、整然と並んだ机。

「……これは、いつだ……?」

 教室の後ろの席で、ひとりの少女が窓の外を見ていた。

 短めの髪、やや大きめの制服。スカートの丈が少し短い。

 彼女は、こちらに背を向けたまま呟いた。

「今日で、私、全部言おうと思ってたのに……」

 旭は言葉を飲んだ。

 この声──亜澄美じゃない。誰でもない。“知らないはず”なのに、“懐かしい”。

 少女は、机に広げた便箋に、震える手でペンを走らせた。

「ごめんなさい」

「でも、あなたがここに戻るころ、私は──」

 ……文字が、にじんだ。インクではない。涙。少女は手で目元を拭いながら、それでもペンを止めない。

「私、逃げられないんだって……ここから。心の中に、鍵をかけられてる……」

 旭は、声をかけようとするが──その口は動かなかった。

 身体も動かせない。ただ“見せられている”。

「先生は……私をかばってくれた。でも、だから……あの火は、私が……」

 そこで、彼女は顔を上げた。

 旭の方を、真っ直ぐ見た。

 彼女の目は──黒かった。すべてが吸い込まれそうな、深淵のような瞳。

「覚えていて。私を、閉じ込めたままにしないで」

 その瞬間──

 教室が、炎に包まれた。

 壁が焼け、天井が崩れ、少女の姿が炎の向こうに歪んで消えていく。

 旭は、何度も彼女の名前を呼ぼうとしたが、声は出なかった。

 ただ、焼ける音と、少女の──

 泣き声だけが、残った。

 * * *

「旭!」

 莉桜の声が、遠くから降ってきた。

 視界がぐらつき、旭は膝をついた。

「……う、わ……っ」

 自分の手が震えていた。

「今……見たんだ。女の子が、この教室で……泣いてて……火事が……」

「記憶に触れたのね」

 莉桜の目は真剣だった。

「さっき私も……少し、感じた。“誰か”の想いが、この教室に染み込んでる。私たち、一人ずつそれに……繋がっていってる」

「……でも、なんで俺なんだよ」

 旭の問いに、莉桜は答えなかった。

 ただ、目を伏せたまま、震える声でこう言った。

「もしかして、“あの子”が言ってた『鍵』って……」

「俺たち自身、なんじゃないかって……思えてきた」

「鍵……」

「この教室を閉じ込めた“記憶”は、誰かに繋がることで開く……。でも、それってたぶん、犠牲も必要なんだよ」

「何を、犠牲にするっていうんだ……?」

 旭の言葉に、再び沈黙が落ちる。

 そのとき、教室のドアが──音もなく、開いた。

 誰もが振り返った。

 そこには──

 誰も、いなかった。

 けれど空気の色だけが、明らかに“外の空間”に変わっていた。

「……出られる?」

 櫂音が、恐る恐る言った。

「今なら……出られるかもしれない」

「でも、亜澄美が──」

 莉桜が亜澄美の肩を見つめる。

 彼女はまだ目を閉じていたが、呼吸は落ち着いてきている。

「旭。選んで」

 莉桜の声は静かだった。

「ここを出るか、それとも──“彼女”の記憶を最後まで追うか」

 旭は、床に落ちた便箋を見た。

 焦げ跡の中に、最後の一枚があった。

 手書きで、こう書かれていた。

「今度こそ、全部を知って」

 旭は、拳を固めた。

「……もう少し、ここに残る。中途半端で終われない」

 莉桜は短く頷いた。

「じゃあ、私も一緒に残る」

 ──黒い教室は、再び静寂に包まれた。

 けれどその静寂は、明らかに「何かを伝えようとする者」のものだった。

 終わっていない。

 何かが、まだ奥にある。

 それを、旭と莉桜は選んだのだった。


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