昏れかけの空を、深く濃い茜色がにじませていた。
グラウンドに伸びる影は、校舎の鉄骨の骨組みのように複雑に交差しながら、歩く者の背を引きずるようについて回っていた。
旭は、校舎裏の柵の前で立ち止まった。
「なあ、こっちだよ」
振り返って声をかけた先には、長い黒髪を揺らして莉桜が歩いてくる。彼女はその手に懐中電灯をぶら下げていた。
「この時間に入るってだけでも充分イカれてるけど、しかも取り壊し前の旧校舎。何考えてんの、旭」
「こういうのは空気が大事だろ? 昼間に来て調査って言っても、ワクワク感が足りない」
「呆れる」
莉桜は額に手を当てる仕草をしながらも、口元だけは笑っていた。その横をすり抜けてきたのは、先に来ていた佳良だ。
「中、見てきた。正面ドアは板打ってあるけど、理科室裏の窓、割れてて通れる」
「お前、先に入ったのか? 一人で?」
恭雅が眉をひそめる。佳良は軽く肩をすくめた。
「早く確かめたかっただけだよ。噂の『黒い教室』、あれ本当にあるか気になるだろ」
「……それ、嘘だったんじゃなかったっけ」
そう呟いたのは櫂音だった。どこか所在なさげに壁際に立ち、スマホを手の中でくるくる回している。
「いや、違う。確かに地元掲示板に載ってた。旧校舎三階の、窓が一枚だけ黒く塗られてる教室。入った奴は“誰かの夢”を見続けるって」
「それ、どこソース?」と呆れ声をあげたのは芽維子。
「ネットだってば」と佳良は頬を掻いたが、口調に躊躇はなかった。「まあ、だから今日は実地調査だ。なんだって都市伝説ってのは、一度“自分の目”で確かめないと」
「私たち、まんまと旭のノリに乗せられたってことね」
「面白そうじゃん?」と旭は口角を上げて答える。
「亜澄美は?」と莉桜が尋ねると、校舎の影からスカートの裾をひらりとはためかせて現れたのは、整ったメイクにくっきりした目元の彼女だった。
「いるわよ、最初から。どうせあんたたち、騒ぐだけ騒いで何も見つけられないんだから。私が記録係してあげる」
「記録係って」
「だって、どうせSNSに載せるんでしょ? じゃあちゃんと記録映えする素材集めておかないと」
「それ、莉桜が一番嫌うパターン」
「別に。真実を知る方法が手段を選ばないなら、それでいい」
莉桜の声は冷静だったが、どこか芯に火が通っていた。旭はその様子にひそかに感心する。彼女の中には、何かを突き詰めようとする意志が常にある。
陽が完全に落ちたのは、それから数分後だった。
七人は順に、理科室裏の割れた窓から校舎内へと侵入していった。
窓枠をまたいだ瞬間、足元に踏み込んだ埃の感触がやけに重かった。
中に入った旭は、懐中電灯をぐるりと回して照らした。
浮かび上がったのは、黒板に貼られた黄ばんだ理科実験のポスター、天井からぶら下がる錆びたスプリンクラー、そして床に散らばる何十年もの時間だった。
「……空気が、違う」
そう呟いたのは恭雅だった。彼の目が、窓の方に一瞬動く。
「外と中で、気圧が違う気がする。なんていうか……耳の奥が、ぎゅっと詰まる」
「私も感じた」と莉桜が口を挟んだ。「ここ、本当に何かあるかも」
「びびってんのか?」と佳良が笑ったが、その笑い方は少し硬かった。
一行は、理科室から廊下へと抜けた。
薄暗い廊下は、どこか船の中の通路を思わせた。左右に部屋が並んでいるが、扉はどれも閉じていた。床はところどころで沈み、足音を立てるたびに木が軋んで悲鳴のような音を立てる。
「これ、全員同じ方向歩いたら床抜けない?」
「嫌なこと言わないでくれ……」
前を歩いていた瑠広が立ち止まった。
「なんか聞こえた。……足音じゃない。もっと、擦れるような……」
その声に、全員の動きが一瞬止まった。
耳を澄ます。
ギ、ギリ……ギシ、ギリ。
床の軋みとは違う、もっと上の方、天井の奥から……何かが這うような音。
「……動物とか?」と櫂音が声を潜める。
「廃校だよ? 動物がいるにしても、こんな足音……」
旭は自分の足で床を軽く叩いた。確かに、先ほど聞いた音とは響きが違う。
「上、行ってみよう」
「えっ」
全員の視線が旭に集中した。彼はその注目を真正面から受け止めるように口を開いた。
「誰かがここで亡くなったって噂、本当なら何か痕跡が残ってるはずだろ? 俺たち、ただ来ただけじゃ何も掴めない」
「でも、三階って例の“黒い教室”があるって言ってたとこ……」
「逆に行かない理由、ある?」
その言葉に、誰も答えられなかった。
しばらくの沈黙のあと、莉桜が静かに一歩を踏み出した。
「私は行くよ。……怖くないとは言わないけど、ここで帰る方が、あとでずっと怖い」
旭は、彼女の後ろ姿に短く頷いて続いた。
それに倣って、全員が無言でついてくる。
階段の手すりは錆び、踏板は浮き、ほとんど一歩ごとにミシミシと音を立てた。
一段、また一段と昇るたびに、温度がわずかに下がっていく気がした。
三階に辿り着いた時、全員が思わず息を呑んだ。
廊下の一番奥――
そこだけ、空間が“黒い”。
いや、黒く「塗られた」ように見える教室の扉。
窓は完全に塗りつぶされ、そこから漏れる光もない。
まるで異物。世界に違和感を埋め込んだような、不自然な存在だった。
「本当に、あったんだな……」
佳良が震える声で呟いた。
「行こう」
旭が先頭を歩き出す。
手を伸ばし、ドアノブに触れる。冷たい金属が、まるで誰かの手のように返ってきた。
ギィ……
音を立てて、扉が開いた。
真っ暗な教室の中。
誰もまだ言葉を発していないのに、莉桜がふと呟いた。
「……誰かが、いる」
その言葉に、教室の奥で──“何か”が、わずかに動いた。
懐中電灯の光が、教室の中を照らした。だが光は、奥へ届くにつれて“食われる”ように沈んでいった。
埃の層が視界を曇らせているのではない。そこだけ、空間そのものが異質だった。
旭の懐中電灯が、教室中央に差し掛かった瞬間──
「おい」
佳良が声を上げた。
「……あれ、机か?」
そこには、唯一、まっすぐに並んでいた一組の机と椅子があった。
だがその椅子は誰かが引いたまま止まっており、あたかも今そこに“誰かが座っていた”かのような痕跡を残していた。
「ちょっと、待って」
瑠広が一歩後ろに下がった。彼女の足元で、乾いた音が響く。
「……何踏んだ?」
莉桜がしゃがんで懐中電灯を向けた。そこにあったのは──
焼け焦げた便箋だった。
「手紙?」
恭雅が手に取るのを制し、旭が慎重に近づく。
便箋は複数あった。焼けたページの縁が茶色く縮れ、しかし文字は──なぜか、残っていた。
“あなたがここに戻る頃、私はもう居ないでしょう。”
“それでも私は、この教室で待っています。”
「誰が書いたんだ……?」
全員の呼吸が浅くなった。その瞬間──
「……あっ……」
亜澄美が、短く呻くような声を上げた。
彼女は後方で立ち尽くしていたが、いま、その表情は明らかに“見えていない”ものを見ていた。
「……わたし、……ここ、知ってる」
「何言ってんだ、初めて入っただろ」
佳良が戸惑う声を出すが、亜澄美はそれを聞いていなかった。
彼女の目は、宙を見ていた。
「……ここで、火が……すごく熱くて……でも、わたし、逃げなきゃって思って……」
旭がそっと手を肩に当てた。
「亜澄美?」
「違う……あたしじゃない、これ、誰かの記憶……でも、私の中に入ってくる……!」
教室の空気が変わった。音が消えた。風も、匂いも、すべてが“教室”の外に押し出されたように。
代わりに聞こえてきたのは──
チリ……チリ……
火が紙を焼くような、乾いた音。
「この教室、……焼けてるんだ」
莉桜が、震える声で言った。
「焼けたはずなのに、残ってる。それも、今みたいな姿で」
「待て、焼けたって何の話だ?」
櫂音が叫ぶ。
「……旧校舎火災。五十年前、この教室だけが、火事に巻き込まれたって記録がある。生徒一人が犠牲になった……いや、教職員って説もある……」
莉桜が震えながら、早口で続ける。
「でも──遺体は、見つからなかった」
その言葉と同時に、誰かのすすり泣く声が、教室の奥から聞こえた。
懐中電灯を向けても、そこには何も映らなかった。
だが、泣き声は確かに“そこにあった”。
「出よう」
恭雅の声が低く、明確だった。
「今すぐ、ここを出る」
旭は頷こうとした。だが──
ドアが、閉まっていた。
開け放たれていたはずの教室の扉が、誰も触れていないのに、静かに……確実に、音を立てて閉じられていた。
ギィ……ガチャ。
閉ざされた音が、誰よりも早く、心の奥に届いたのは、旭だった。
彼ははっきりと、自分の背中に、“何かの手”が這い上がる感覚を覚えていた。
「落ち着け……誰か、窓を……!」
恭雅の声に反応し、佳良が窓に向かって駆けた。
けれど──
「……おい、これ、塗料じゃねえ」
彼の声が濁った。
「何言ってんだよ」
「黒く塗られてるんじゃない、これ……“向こうが無い”んだ」
莉桜が懐中電灯を当てた。
けれどそこにあったのは、ただ“黒”。完全な、真っ黒の空間。
視線を当てるほどに吸い込まれそうな、存在しない深淵。
「ここ、閉じられてるんじゃない。……切り取られてる」
その言葉の重さに誰もが黙った。
教室の空気が再び揺らぎ、次の瞬間──
櫂音が叫んだ。
「今、誰か……耳元で喋った! “見つけて”って……っ、嘘だろ!?」
「もう一度確認しよう!」
旭が声を上げた。
「この教室に残されてるもの。便箋、他にもあるはずだ。ここがただの“噂”じゃないなら、何かが記録として残ってるはずだ」
それは恐怖への反応ではなく、理性が最後に掴む“目的”だった。
旭は地面に膝をつき、床の隙間に手を入れる。
埃をかき分け、指先が“何か柔らかい紙”に触れた。
一枚、また一枚──破れかけた手紙が束で出てきた。
「これは……」
莉桜が、慎重にそれを受け取り、一枚を読み上げた。
“彼は知らなかったの。閉じ込められていたのは私だけじゃなくて、彼自身もまた、外に出られない存在だったなんて。”
「……意味、わからない」
「待って、それだけじゃない」
莉桜はもう一枚、紙を取り出す。
“火事は偶然じゃない。誰かが、教室に鍵をかけた。”
「鍵……だと?」
恭雅の眉間に皺が寄る。
「それが本当なら、放火か、それとも──」
「……誰かが、“閉じ込めるつもり”でやったのよ」
そう言ったのは瑠広だった。
「生きている人間じゃなくて、“意識”を閉じ込めたかった。……この教室そのものに」
「どういう……」
芽維子が言いかけたそのとき。
亜澄美が、再び呻いた。
「……あたしじゃない……“彼女”が……泣いてる」
旭が振り向いた。
亜澄美の顔色は土気色で、目の焦点が合っていなかった。
「彼女、まだここに……」
その瞬間、亜澄美の身体が“跳ねた”。
誰かに押されたように、後ろへ倒れる。
「亜澄美ッ!」
旭と莉桜が駆け寄る。
彼女の胸が上下しているのを確認し、安堵した次の瞬間──
耳元で、誰かが囁いた。
「次は、誰──?」
風もないのに、教室の紙束がばさりと舞い、壁に張られていた過去のプリントが一斉に剥がれ落ちた。
そこには、壁に直書きされた文字が現れていた。
“彼女はもう、思い出してしまった。”
“次はお前だ。”
旭は、思わず喉を鳴らす。
「……思い出す? なにを……」
莉桜が息を呑んだ。
「この教室に入るってことは……『記憶を受け継ぐ』ってことなのかもしれない」
「でも、誰の……記憶なんだよ?」
その問いに、誰も答えられなかった。
ただ、明らかに“何かの意志”が、七人の中に順に触れていく。
今、ここにいるのは、七人だけではない。
この教室には、“誰かがずっといる”。
その誰かは、“忘れられること”を拒んでいる。
そして今、次の誰かに、“全てを託そうとしている”。
旭の額から、冷たい汗がひと筋、頬を伝って落ちた。
この空間は、どこかが歪んでいる。
目に見える景色、聞こえる声、自分の心の動きさえ──“自分のものではない”。
懐中電灯の光が、ふとゆらいだ。
いや、光ではなく視界そのものが“揺れた”のだ。
「……旭?」
莉桜の声が遠ざかる。
音が、色が、輪郭が──ぼやけて、溶けて、次の瞬間には──
* * *
視界が、切り替わった。
目の前には、陽の差し込む昼間の教室があった。
同じ黒い教室。
だが、今はまだ塗り潰されていない窓、掃除された床、整然と並んだ机。
「……これは、いつだ……?」
教室の後ろの席で、ひとりの少女が窓の外を見ていた。
短めの髪、やや大きめの制服。スカートの丈が少し短い。
彼女は、こちらに背を向けたまま呟いた。
「今日で、私、全部言おうと思ってたのに……」
旭は言葉を飲んだ。
この声──亜澄美じゃない。誰でもない。“知らないはず”なのに、“懐かしい”。
少女は、机に広げた便箋に、震える手でペンを走らせた。
「ごめんなさい」
「でも、あなたがここに戻るころ、私は──」
……文字が、にじんだ。インクではない。涙。少女は手で目元を拭いながら、それでもペンを止めない。
「私、逃げられないんだって……ここから。心の中に、鍵をかけられてる……」
旭は、声をかけようとするが──その口は動かなかった。
身体も動かせない。ただ“見せられている”。
「先生は……私をかばってくれた。でも、だから……あの火は、私が……」
そこで、彼女は顔を上げた。
旭の方を、真っ直ぐ見た。
彼女の目は──黒かった。すべてが吸い込まれそうな、深淵のような瞳。
「覚えていて。私を、閉じ込めたままにしないで」
その瞬間──
教室が、炎に包まれた。
壁が焼け、天井が崩れ、少女の姿が炎の向こうに歪んで消えていく。
旭は、何度も彼女の名前を呼ぼうとしたが、声は出なかった。
ただ、焼ける音と、少女の──
泣き声だけが、残った。
* * *
「旭!」
莉桜の声が、遠くから降ってきた。
視界がぐらつき、旭は膝をついた。
「……う、わ……っ」
自分の手が震えていた。
「今……見たんだ。女の子が、この教室で……泣いてて……火事が……」
「記憶に触れたのね」
莉桜の目は真剣だった。
「さっき私も……少し、感じた。“誰か”の想いが、この教室に染み込んでる。私たち、一人ずつそれに……繋がっていってる」
「……でも、なんで俺なんだよ」
旭の問いに、莉桜は答えなかった。
ただ、目を伏せたまま、震える声でこう言った。
「もしかして、“あの子”が言ってた『鍵』って……」
「俺たち自身、なんじゃないかって……思えてきた」
「鍵……」
「この教室を閉じ込めた“記憶”は、誰かに繋がることで開く……。でも、それってたぶん、犠牲も必要なんだよ」
「何を、犠牲にするっていうんだ……?」
旭の言葉に、再び沈黙が落ちる。
そのとき、教室のドアが──音もなく、開いた。
誰もが振り返った。
そこには──
誰も、いなかった。
けれど空気の色だけが、明らかに“外の空間”に変わっていた。
「……出られる?」
櫂音が、恐る恐る言った。
「今なら……出られるかもしれない」
「でも、亜澄美が──」
莉桜が亜澄美の肩を見つめる。
彼女はまだ目を閉じていたが、呼吸は落ち着いてきている。
「旭。選んで」
莉桜の声は静かだった。
「ここを出るか、それとも──“彼女”の記憶を最後まで追うか」
旭は、床に落ちた便箋を見た。
焦げ跡の中に、最後の一枚があった。
手書きで、こう書かれていた。
「今度こそ、全部を知って」
旭は、拳を固めた。
「……もう少し、ここに残る。中途半端で終われない」
莉桜は短く頷いた。
「じゃあ、私も一緒に残る」
──黒い教室は、再び静寂に包まれた。
けれどその静寂は、明らかに「何かを伝えようとする者」のものだった。
終わっていない。
何かが、まだ奥にある。
それを、旭と莉桜は選んだのだった。