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chap002:分断される記憶

 午後七時三十八分。

 旧校舎の外では、風が止んでいた。

 櫂音、瑠広、佳良、恭雅、芽維子の五人は、校庭に面した裏手のフェンスを越え、ようやく舗装路に足を戻した。

 体中にまとわりついた埃と不安を吐き出すように、それぞれが言葉を探していた。

「……俺たち、あのまま帰ってよかったのか」

 佳良の一言に、誰もすぐには答えられなかった。

「旭が残るって言ったんだから、仕方ないじゃん」と瑠広がつぶやく。「私たちが引きずっても、意味ないし」

「でも……なんか、変だったよね」

 芽維子が腕を抱えるようにして立ち止まった。

「空気も、音も、あの黒い教室だけ別の世界って感じがした。……私、あれ、夢じゃないよね?」

「夢にしてくれたら、楽なんだけどな」

 櫂音がスマホを取り出す。画面には「圏外」の文字。

「……あれ? 出てる。さっきまで圏外だったのに」

 恭雅が眉をしかめた。

「電波、戻ってるのか……? てことは、旭と莉桜はまだ“あの中”にいるってことだよな」

「でも、あれって……出ようと思えば、出られたんじゃないの?」

「“今なら”って言ったよね、莉桜」

 瑠広の言葉に、全員の表情が凍った。

 今なら、ということは。

 次は──出られない可能性がある。

「……やっぱり戻る?」

「無理。私、もう無理」

 芽維子が震える声で拒否した。

「私……見ちゃったんだよ。教室の隅で、誰か立ってた。声かけようとしたら、首が、……ないの。なのに、“こっちを見てた”の」

「芽維子……」

「私、本当に“呪い”ってあると思う。絶対に何か持って帰ってきてる……このままじゃ、終わらない」

 その瞬間、佳良のスマホが鳴った。

【受信不能な番号からの通話です】

「……誰?」

 画面を見つめる佳良の額に、汗がにじんでいた。

 通話を切る間もなく、スピーカーからノイズ混じりの音声が流れた。

「た、す、け、て──だれか──ここ、から、だして──」

「……莉桜!?」

 佳良が思わず声を上げた。だがその声は、すぐにノイズにかき消される。

 次の瞬間、スマホの画面がブラックアウト。

 代わりに画面中央に、白い文字が浮かび上がった。

「次は、君の番」

 バッ、と彼はスマホを落とした。

「これ、何の冗談だよ……! 誰かふざけてんのか!?」

 だが、全員の胸にあったのは──同じ疑念だった。

 旧校舎の“中”と“外”は、もう繋がっていない。

 旭と莉桜は、あのまま“どこか”に取り残された。

 だが、自分たちは“帰ってこられた”のではない。

 ――“外に出された”のだ。

「俺たちが見たのは、あの教室の“入り口”にすぎなかった……?」

 恭雅の声が、誰よりも冷静だった。

「たぶん、あそこは“ひとりずつ”、順番に、何かを“思い出す”場所なんだ」

「じゃあ……」

「今、旭と莉桜が何を見ているかなんて、俺たちには想像もつかない。でも──」

 恭雅の視線が、再び旧校舎の方角を見た。

「俺たちも、逃げられてない」

 その言葉を証明するように、芽維子の鞄のポケットから、焼け焦げたような紙片が風に煽られて落ちた。

 そこには、こう書かれていた。

「鍵は、あなたの中にある」


 教室の扉が閉まり、静寂が戻った。

 けれど今の“静けさ”は、先ほどのような息の詰まる気配とは違っていた。

 むしろ、空気が何かを語りかけようと待ち構えているようだった。

 旭は床に座り込んだまま、手にした最後の便箋を見つめていた。

「今度こそ、全部を知って」

 その言葉は、祈りではなかった。

 命令でも懇願でもない。

 ただ──責任だった。

「……ねえ、旭」

 隣に座る莉桜が、小さく呟いた。

「さっきから考えてたんだけど……この教室の記憶、“ひとつの出来事”じゃなくて、“何人もの記憶”が重なってる気がする」

「重なってる……?」

「うん。私が感じたのは、あの少女の記憶じゃない。たぶん……彼女を“閉じ込めた”側の人間のもの。苦しんでた。後悔してた。……でも、名前は思い出せない」

「俺が見たのは、あの子が泣きながら手紙を書いてるところだった。火事の直前。誰かを待ってるみたいだった」

 旭は額を押さえた。記憶の断片が頭の奥でかすかに疼く。

「彼女が書いた“あなた”って──誰だと思う?」

 莉桜の問いは、彼の心を撃ち抜いた。

「……俺……かもしれない」

 旭の声が震えた。

「こんなのおかしいってわかってる。俺はそんな事件、関わってない。だけど、“知ってる”気がするんだよ。あの手紙の文面も、彼女の声も──」

「繋がってるのは、記憶じゃなくて……魂かもしれない」

 莉桜がぽつりと口にした言葉は、どこか重力を持っていた。

 そのときだった。

 教室の黒板が、ギィ……と音を立てて動いた。

 何も触れていない。風もない。

 だが、黒板の奥から──通路のようなものが現れた。

「……こんな構造、あったか……?」

「非常用扉でもない……ただの隠し部屋?」

 ふたりは、恐る恐るその奥へ進んだ。

 そこには──ただひとつの机と、壁一面の写真があった。

 どれも古びていて、モノクロ。

 制服姿の少女、生徒たち、そして──教師のような人物の姿。

「これ……教師の日誌?」

 机の上には、ボロボロになった手帳が置かれていた。

 旭がそれを開いた。

『◯月×日:今日も彼女は、同じ教室で泣いていた。職員室には来ない。私以外、誰も気づいていない。』

『◯月△日:私が閉じ込めることになるとは思わなかった。だが、もう選択肢はなかった。あの子を守るには、“ここ”しかなかった。』

「閉じ込めるって……まさか、この教室に?」

 莉桜の目が、壁の写真に移る。

 その中にあった、一枚の写真。

 制服の少女と並んで写る、若い男の教師。

 そして──その教師の胸元には、小さな名札がついていた。

「旭」という文字が、かすかに読めた。

「……まさか……」

「嘘だろ、俺……?」

 旭の顔から血の気が引いた。

 その瞬間、視界がまた揺らぐ。

 だが今度は、“強制的”な感覚だった。

“誰か”が、無理やり繋ごうとしている。

 莉桜が慌てて彼の肩を支える。

「旭! 目を開けて! だめ、まだ記憶に飲まれないで──!」

 けれど彼の瞳は、既に“この教室ではない場所”を映していた。

 そこには──

 炎の中、少女を抱きしめながら、出口の扉を必死で押さえる“教師”の姿があった。

 少女が何かを叫んでいる。

 だけど、音はもう届かない。

 ただ、炎と、後悔と、“選択”の記憶が、すべてを覆っていた。


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