午後七時三十八分。
旧校舎の外では、風が止んでいた。
櫂音、瑠広、佳良、恭雅、芽維子の五人は、校庭に面した裏手のフェンスを越え、ようやく舗装路に足を戻した。
体中にまとわりついた埃と不安を吐き出すように、それぞれが言葉を探していた。
「……俺たち、あのまま帰ってよかったのか」
佳良の一言に、誰もすぐには答えられなかった。
「旭が残るって言ったんだから、仕方ないじゃん」と瑠広がつぶやく。「私たちが引きずっても、意味ないし」
「でも……なんか、変だったよね」
芽維子が腕を抱えるようにして立ち止まった。
「空気も、音も、あの黒い教室だけ別の世界って感じがした。……私、あれ、夢じゃないよね?」
「夢にしてくれたら、楽なんだけどな」
櫂音がスマホを取り出す。画面には「圏外」の文字。
「……あれ? 出てる。さっきまで圏外だったのに」
恭雅が眉をしかめた。
「電波、戻ってるのか……? てことは、旭と莉桜はまだ“あの中”にいるってことだよな」
「でも、あれって……出ようと思えば、出られたんじゃないの?」
「“今なら”って言ったよね、莉桜」
瑠広の言葉に、全員の表情が凍った。
今なら、ということは。
次は──出られない可能性がある。
「……やっぱり戻る?」
「無理。私、もう無理」
芽維子が震える声で拒否した。
「私……見ちゃったんだよ。教室の隅で、誰か立ってた。声かけようとしたら、首が、……ないの。なのに、“こっちを見てた”の」
「芽維子……」
「私、本当に“呪い”ってあると思う。絶対に何か持って帰ってきてる……このままじゃ、終わらない」
その瞬間、佳良のスマホが鳴った。
【受信不能な番号からの通話です】
「……誰?」
画面を見つめる佳良の額に、汗がにじんでいた。
通話を切る間もなく、スピーカーからノイズ混じりの音声が流れた。
「た、す、け、て──だれか──ここ、から、だして──」
「……莉桜!?」
佳良が思わず声を上げた。だがその声は、すぐにノイズにかき消される。
次の瞬間、スマホの画面がブラックアウト。
代わりに画面中央に、白い文字が浮かび上がった。
「次は、君の番」
バッ、と彼はスマホを落とした。
「これ、何の冗談だよ……! 誰かふざけてんのか!?」
だが、全員の胸にあったのは──同じ疑念だった。
旧校舎の“中”と“外”は、もう繋がっていない。
旭と莉桜は、あのまま“どこか”に取り残された。
だが、自分たちは“帰ってこられた”のではない。
――“外に出された”のだ。
「俺たちが見たのは、あの教室の“入り口”にすぎなかった……?」
恭雅の声が、誰よりも冷静だった。
「たぶん、あそこは“ひとりずつ”、順番に、何かを“思い出す”場所なんだ」
「じゃあ……」
「今、旭と莉桜が何を見ているかなんて、俺たちには想像もつかない。でも──」
恭雅の視線が、再び旧校舎の方角を見た。
「俺たちも、逃げられてない」
その言葉を証明するように、芽維子の鞄のポケットから、焼け焦げたような紙片が風に煽られて落ちた。
そこには、こう書かれていた。
「鍵は、あなたの中にある」
教室の扉が閉まり、静寂が戻った。
けれど今の“静けさ”は、先ほどのような息の詰まる気配とは違っていた。
むしろ、空気が何かを語りかけようと待ち構えているようだった。
旭は床に座り込んだまま、手にした最後の便箋を見つめていた。
「今度こそ、全部を知って」
その言葉は、祈りではなかった。
命令でも懇願でもない。
ただ──責任だった。
「……ねえ、旭」
隣に座る莉桜が、小さく呟いた。
「さっきから考えてたんだけど……この教室の記憶、“ひとつの出来事”じゃなくて、“何人もの記憶”が重なってる気がする」
「重なってる……?」
「うん。私が感じたのは、あの少女の記憶じゃない。たぶん……彼女を“閉じ込めた”側の人間のもの。苦しんでた。後悔してた。……でも、名前は思い出せない」
「俺が見たのは、あの子が泣きながら手紙を書いてるところだった。火事の直前。誰かを待ってるみたいだった」
旭は額を押さえた。記憶の断片が頭の奥でかすかに疼く。
「彼女が書いた“あなた”って──誰だと思う?」
莉桜の問いは、彼の心を撃ち抜いた。
「……俺……かもしれない」
旭の声が震えた。
「こんなのおかしいってわかってる。俺はそんな事件、関わってない。だけど、“知ってる”気がするんだよ。あの手紙の文面も、彼女の声も──」
「繋がってるのは、記憶じゃなくて……魂かもしれない」
莉桜がぽつりと口にした言葉は、どこか重力を持っていた。
そのときだった。
教室の黒板が、ギィ……と音を立てて動いた。
何も触れていない。風もない。
だが、黒板の奥から──通路のようなものが現れた。
「……こんな構造、あったか……?」
「非常用扉でもない……ただの隠し部屋?」
ふたりは、恐る恐るその奥へ進んだ。
そこには──ただひとつの机と、壁一面の写真があった。
どれも古びていて、モノクロ。
制服姿の少女、生徒たち、そして──教師のような人物の姿。
「これ……教師の日誌?」
机の上には、ボロボロになった手帳が置かれていた。
旭がそれを開いた。
『◯月×日:今日も彼女は、同じ教室で泣いていた。職員室には来ない。私以外、誰も気づいていない。』
『◯月△日:私が閉じ込めることになるとは思わなかった。だが、もう選択肢はなかった。あの子を守るには、“ここ”しかなかった。』
「閉じ込めるって……まさか、この教室に?」
莉桜の目が、壁の写真に移る。
その中にあった、一枚の写真。
制服の少女と並んで写る、若い男の教師。
そして──その教師の胸元には、小さな名札がついていた。
「旭」という文字が、かすかに読めた。
「……まさか……」
「嘘だろ、俺……?」
旭の顔から血の気が引いた。
その瞬間、視界がまた揺らぐ。
だが今度は、“強制的”な感覚だった。
“誰か”が、無理やり繋ごうとしている。
莉桜が慌てて彼の肩を支える。
「旭! 目を開けて! だめ、まだ記憶に飲まれないで──!」
けれど彼の瞳は、既に“この教室ではない場所”を映していた。
そこには──
炎の中、少女を抱きしめながら、出口の扉を必死で押さえる“教師”の姿があった。
少女が何かを叫んでいる。
だけど、音はもう届かない。
ただ、炎と、後悔と、“選択”の記憶が、すべてを覆っていた。