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chap006:名前を呼んでくれた人

【放課後の教室──4日後】

 チャイムの音が校内に響き、誰もが帰宅の準備を始めていた。

 旭は窓際の席で、ぼんやりと校庭を眺めていた。

「……静かだな」

 あの火事の夜の記憶が完全に思い出されてから、胸の奥にずっと残っていた鈍い痛みが、少しずつ変わり始めていた。

“重さ”ではなく、“痕”として。

 何かを背負うのではなく、何かを語れる自分になった。

「ねえ」

 背後から莉桜の声。旭が振り向くと、彼女はそっと机に何かを置いた。

「手紙?」

「うん。読んで」

 旭はゆっくりと封を切る。

 便箋は二枚、筆跡は細く、揺れていた。


 旭へ。

 私ね、今でも時々“彼女”の夢を見る。

 でも不思議と怖くないの。むしろ、静かに話しかけてくれる気がする。

「ありがとう」って。

「見つけてくれて、思い出してくれて」って。

 私たちは“偶然そこにいた”んじゃなくて、たぶん最初から“呼ばれた”んだよね。

 伝えてもらうために。

 それをやり遂げたあなたを、私は誇りに思います。

 ――莉桜より


「……ずるいよ」

 旭は笑いながら目を細めた。

「これ、卒業式のときに読むような内容だろ」

「だって、卒業したようなもんじゃない? あの教室から」

 莉桜は窓辺に寄ってきて、ふたり並んで座った。

「……思うんだよね。記憶って、ただの映像じゃないって」

「感情の形でもあるって?」

「うん。そして、誰かが“名前を呼んでくれた”記憶って……残りやすいんだと思う」

「千景が、先生を“先生”じゃなくて、“旭”って呼んでた記憶か」

「うん。そしてあなたが“千景”と呼び返してくれた。

 それだけで、あの子は“閉じ込められていた自分”から自由になれた」

 旭はうなずいた。

 そのとき、風がふと吹いた。

 教室の扉が少しだけ開いた。

 そして──

 黒板のすみ。チョークの跡もないそこに、かすかに見えた。

「ありがとう。旭先生」

 それは幻か、残された余熱か。

 けれど、ふたりは黙って見つめていた。

 そこに確かに、「名前を呼んでくれた人」と「呼ばれた人」が、かつて存在していた証があった。


【日常の再開】

 数日後、旧校舎の取り壊しが正式に発表された。

 だが、七人は誰も反対しなかった。

 すでに“教室は解放された”と知っていたから。

 誰かが悲鳴をあげることもない。

 夢で誰かを思い出すことも、もうない。

 ただ静かに、それぞれの胸の中で、ひとつの名前が残り続けた。

 中西千景。

 黒い教室の奥に、たしかにいた少女の名前。

 忘れられていたはずの彼女は、

 七人の中で、生き直していた。

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