【黒い教室──夜】
その夜、再び誰もいないはずの教室に、旭と莉桜は残っていた。
五人は一度帰された。だが、教室の空気は今も“終わっていない”と告げていた。
「……彼女の記憶、全部返したはずだよな」
旭の声に、莉桜はゆっくりと頷いた。
「でも、返したのは“残された記憶”だけ。“あの夜”に何が起きたかは、まだ私たちの中に繋がってない」
「……それが分かったら、この教室も“解ける”のか」
「たぶん。でも、もう一度深く入らなきゃならない。“記憶”じゃない、“体験”として──」
その瞬間、教室の床が低く唸るように鳴った。
窓がひとりでに開き、風が吹き抜けた。
――そして、視界が一瞬、反転した。
* * *
【時刻不明・教室】
目を覚ました旭は、制服ではなく、ワイシャツとネクタイを着ていた。
窓の外は夕暮れ、教室は静まり返っている。
だが耳には、何かが焦げるような匂いと、かすかな金属音。
「……ここは、まさか……」
彼が立ち上がると、後方のドアが開き、一人の少女が入ってきた。
間違いなかった。
あの夢で何度も見た、あの子──「千景(ちかげ)」だった。
「先生……」
千景が、迷いのない足取りで近づいてきた。
「今夜、最後になるんですね」
旭──いや、かつて“旭”だった教師は、喉を鳴らした。
すべてを思い出し始めていた。
「……君を守るために、ここに残る」
「私はもう、大丈夫です。先生に守ってもらえたから」
「いや、足りなかった。俺は結局、君を閉じ込めただけだ。ひとりにして、逃げた」
「違います」
千景が首を振る。
「先生がここにいてくれたから、私はずっと“消えずに済んだ”んです」
彼女は、机に座った。あのときと同じ席に。
「でも……そろそろ、“終わり”にしたい。今度は、わたしから先生に渡したいものがあるんです」
彼女は机の中から、便箋の束を取り出した。
「何度も書いたけど、渡せなかった手紙。ひとつだけ、先生に届いてなかったんです」
旭は、恐る恐るそれを受け取った。
『先生へ。火事の夜、私を置いていったことを、どうか悔やまないでください。私が願ったのは、“あなたが生きて外へ出ること”でした。』
『先生がここで焼けてしまうより、私ひとりが消える方がよかった。だから、どうか私を思い出す時は、自分を責めないで』
読み終えた瞬間、教室の壁が赤く染まりはじめた。
「火が、来る……!」
「大丈夫。今度は、“閉じ込められたまま”じゃない」
千景は笑った。
「先生、お願いがあります。“今の私”に、さよならを言ってください」
旭は、彼女の前にひざまずいた。
「ごめん。そして……ありがとう。千景、さよなら」
彼女が最後に言ったのは、静かな言葉だった。
「今度は、わたしが先生を、外へ出す」
* * *
【黒い教室──現在】
旭が目を覚ましたとき、目の前には莉桜がいた。
彼女もまた、同じものを見ていたと、その瞳が語っていた。
「私も、全部見た。私、あの火事の夜、“手紙を届けに向かってた人”だったの」
「届けられなかったんだな」
「ううん……私が、“閉じ込められた”の」
「……じゃあ、俺たちふたりとも、あの夜“残された側”だったんだ」
旭が、そっと教室の窓を開いた。
初めて、その窓から“外の光”が差し込んだ。
黒い塗料も、異空間の境界も、もうどこにもなかった。
「これで……終わったのか?」
「いいえ」
莉桜が微笑んだ。
「今、始まるの。私たちが生きて、この記憶を“伝える”番」
旭は頷いた。
そして、黒い教室の扉を、ゆっくりと開けた。
そこには、かつてと変わらない、静かな学校の廊下が広がっていた。
ただしもう、“誰も閉じ込められていない”。