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chap005:火事の夜に選ばれた者たち

【黒い教室──夜】

 その夜、再び誰もいないはずの教室に、旭と莉桜は残っていた。

 五人は一度帰された。だが、教室の空気は今も“終わっていない”と告げていた。

「……彼女の記憶、全部返したはずだよな」

 旭の声に、莉桜はゆっくりと頷いた。

「でも、返したのは“残された記憶”だけ。“あの夜”に何が起きたかは、まだ私たちの中に繋がってない」

「……それが分かったら、この教室も“解ける”のか」

「たぶん。でも、もう一度深く入らなきゃならない。“記憶”じゃない、“体験”として──」

 その瞬間、教室の床が低く唸るように鳴った。

 窓がひとりでに開き、風が吹き抜けた。

 ――そして、視界が一瞬、反転した。


 * * *

【時刻不明・教室】

 目を覚ました旭は、制服ではなく、ワイシャツとネクタイを着ていた。

 窓の外は夕暮れ、教室は静まり返っている。

 だが耳には、何かが焦げるような匂いと、かすかな金属音。

「……ここは、まさか……」

 彼が立ち上がると、後方のドアが開き、一人の少女が入ってきた。

 間違いなかった。

 あの夢で何度も見た、あの子──「千景(ちかげ)」だった。

「先生……」

 千景が、迷いのない足取りで近づいてきた。

「今夜、最後になるんですね」

 旭──いや、かつて“旭”だった教師は、喉を鳴らした。

 すべてを思い出し始めていた。

「……君を守るために、ここに残る」

「私はもう、大丈夫です。先生に守ってもらえたから」

「いや、足りなかった。俺は結局、君を閉じ込めただけだ。ひとりにして、逃げた」

「違います」

 千景が首を振る。

「先生がここにいてくれたから、私はずっと“消えずに済んだ”んです」

 彼女は、机に座った。あのときと同じ席に。

「でも……そろそろ、“終わり”にしたい。今度は、わたしから先生に渡したいものがあるんです」

 彼女は机の中から、便箋の束を取り出した。

「何度も書いたけど、渡せなかった手紙。ひとつだけ、先生に届いてなかったんです」

 旭は、恐る恐るそれを受け取った。

『先生へ。火事の夜、私を置いていったことを、どうか悔やまないでください。私が願ったのは、“あなたが生きて外へ出ること”でした。』

『先生がここで焼けてしまうより、私ひとりが消える方がよかった。だから、どうか私を思い出す時は、自分を責めないで』

 読み終えた瞬間、教室の壁が赤く染まりはじめた。

「火が、来る……!」

「大丈夫。今度は、“閉じ込められたまま”じゃない」

 千景は笑った。

「先生、お願いがあります。“今の私”に、さよならを言ってください」

 旭は、彼女の前にひざまずいた。

「ごめん。そして……ありがとう。千景、さよなら」

 彼女が最後に言ったのは、静かな言葉だった。

「今度は、わたしが先生を、外へ出す」


 * * *

【黒い教室──現在】

 旭が目を覚ましたとき、目の前には莉桜がいた。

 彼女もまた、同じものを見ていたと、その瞳が語っていた。

「私も、全部見た。私、あの火事の夜、“手紙を届けに向かってた人”だったの」

「届けられなかったんだな」

「ううん……私が、“閉じ込められた”の」

「……じゃあ、俺たちふたりとも、あの夜“残された側”だったんだ」

 旭が、そっと教室の窓を開いた。

 初めて、その窓から“外の光”が差し込んだ。

 黒い塗料も、異空間の境界も、もうどこにもなかった。

「これで……終わったのか?」

「いいえ」

 莉桜が微笑んだ。

「今、始まるの。私たちが生きて、この記憶を“伝える”番」

 旭は頷いた。

 そして、黒い教室の扉を、ゆっくりと開けた。

 そこには、かつてと変わらない、静かな学校の廊下が広がっていた。

 ただしもう、“誰も閉じ込められていない”。


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