風が通り抜けた後の街は、空っぽの箱のように音を失っていた。
住宅街に面した坂の途中、小さな廃屋がひとつだけぽつんと取り残されている。窓は板で打ちつけられ、壁には「立入禁止」の貼り紙が何枚も重なっていたが、誰かが剥がしたのか、真ん中の一枚だけが剥き出しになっていた。
陸人は、その貼り紙の前に立っていた。
「本当に、ここに……出るっていうのか?」
スマホの時刻は、23時56分を示している。日菜の話では、0時ちょうどの一分間だけ、この家の二階の窓に“何か”が映るという。
正体を見た者はいない。なぜなら、それを見た人間は皆、翌日には姿を消すから――そう噂されていた。
「ちょっと、やっぱりやめようか?」
後ろから声をかけたのは日菜だった。手には懐中電灯。だがそのライトの先は地面を照らすだけで、目の前の家は照らしていない。彼女もまた、本気で怖がっているようだった。
「行くって言ったのは、日菜のほうだろ?」
「そ、それは……。でもあんた、あたしのこと“怖がり”って笑ったじゃん」
「……笑ってないし。そういうの、確認しておかないと気が済まない性格だって知ってるだろ」
陸人の言葉に、日菜は視線を逸らした。
二人は中学の頃からの付き合いで、怖いものを見つけると、なぜか一緒に行動するのが癖になっていた。陸人は誰かの気持ちに巻き込まれやすい。だから、日菜の“やってみたい”に対して、たいてい断れないでいる。
時計は23時59分を回った。
「……もう戻れないね」
「まだ戻ろうと思ってるのかよ」
言葉とは裏腹に、陸人の心臓もばくばくと高鳴っていた。
何かが起こる、というより、“何も起こらなかった時の静けさ”が一番怖かった。
ぴたりと、世界が止まったような気がした。
0時。
二階の窓が、かすかに光った。――見間違いではない。
月明かりとは違う。ガラス越しに何かが動いた。
「見た……?」
日菜が小さな声で尋ねた。
陸人は、無言でうなずいた。
だがそのとき、ガサリ、と後ろで草を踏む音がした。
慌てて振り向いた先にいたのは、海夏人だった。手には三脚付きのカメラを持っている。
「やっぱり来てたか。二人だけで見るなんてズルいぞ」
「お前、ついてきてたのかよ」
「ま、ちょっと興味があってね。ここの話、昔から地元じゃ有名だったから。あとで映像確認するから、しっかり撮れてるといいけど……」
彼は冷静だった。
だがその表情の端にも、確かに“異物”を見たという確信が浮かんでいた。
その夜、彼らは“それ以上”のことは起きないと判断し、帰ることにした。
だが翌日――
クラスメイトの一人、佐紀子が学校に来なかった。
「……昨日の夜、あの家の前に立ってた。誰かと一緒にいたけど、誰だったか思い出せないの」
詩旺埋がそう言ったのは、放課後のことだった。
鼓大郎と克宣もその場にいたが、言葉を失っていた。
佐紀子はあの夜、陸人たちの知らぬ間に、同じ場所を訪れていたのだ。
「“それ”って、見たら連れていかれるんだよな……?」
克宣が唾を飲む音がはっきり聞こえた。
「でも俺たちは何もされてない。……それに、海夏人のカメラに、映ってるんじゃないか?」
皆の視線が一斉に海夏人へ向く。
彼は静かにうなずいた。
「今夜、確認するよ。だけど……見たことを、他のやつに話すのはやめた方がいい」
「なんで?」
鼓大郎が問い返した。
「“それ”は、自分のことを話されたくない。……そんな気がした」
誰かが口を開きかけたそのとき、教室の窓の外に、ふと――“誰かが覗いている”気配がした。
終