朝のチャイムが鳴り終わっても、佐紀子の席は空白のままだった。
黒板の前で出席を取る教師は、彼女の名を呼ぶ声に疑問を浮かべながら、少し間をあけてから「欠席」に丸をつけた。
「風邪でも引いたのかな……」
日菜が小さく呟くと、陸人は机の下で指を握った。
あの夜のことが、今じわじわと現実に滲んできている。もしかして、笑い話や都市伝説のつもりで踏み込んではいけない領域に触れたのではないか――そんな後悔が、朝の光を重たく曇らせていた。
昼休み、屋上の扉の前に集まったのは、陸人・日菜・海夏人・克宣・鼓大郎・詩旺埋、そして紗代子だった。
紗代子は佐紀子と仲がよかった。だが、昨夜の話は何も知らない。
「みんな、顔が暗い……。佐紀子、何かあったの?」
問いかける紗代子の声は丁寧だったが、そこには隠しきれない不安が混ざっていた。
「実は……」と陸人が口を開きかけたとき、詩旺埋が割って入った。
「見ちゃったんだよね、きっと。あの窓」
「窓……?」
「午前0時の、“それ”を」
紗代子は一瞬言葉を失い、わずかに顔を青ざめさせた。
「……それって、“見たら消える”って話?」
「……消えた、わけじゃないかもしれない」
海夏人が珍しく口を挟んだ。手に持ったノートパソコンを開きながら、彼は続けた。
「昨日の映像、家に帰って確認してみた。録れてたよ。“それ”が、窓に映ってる」
「見せて」
詩旺埋が前のめりに言った。
「……やめたほうがいいかも」
「なんで?」
「……一度目はいい。でも、何度も見たら、近づいてくる気がした。映像なのに、見てると“目が合う”」
静寂が走った。
だが、海夏人は誰に止められることもなく、映像を再生した。
カメラは、あの夜の家を淡々と映していた。風が吹いて、物音がして、そして――ちょうど午前0時になると、二階の窓の奥に“何か”が現れる。
画面の向こうのそれは、髪が乱れ、顔が歪んでいて、だが確かに“こちら”を見ている。
「う……わ」
鼓大郎が目を背けた。
紗代子は何も言わず、画面を凝視したままだった。
やがて動画が終わると、海夏人は無言で蓋を閉じた。
「佐紀子、消えたわけじゃない。……もしかすると、“あの場所”に囚われてる」
「囚われてるって……どういう意味だよ?」
克宣が声を荒げた。
「声が届かない、って意味さ」
詩旺埋がぽつりと言った。
「さっき……誰もいないトイレで、佐紀子の声を聞いた。“ここにいる”って、何度も。……でも姿はなかった」
誰も何も言えなかった。
空気が凍るようだった。
「放課後、もう一度行こう。……“あの家”に」
陸人が言った。
「佐紀子が、まだそこにいるなら……戻せるかもしれない」
「でも、そんな保証どこにあるのよ」
日菜の声が、わずかに震えていた。
「……保証なんて、いらない。俺は、あのまま見て見ぬふりはできない」
言い終えた瞬間、陸人のポケットの中のスマホが鳴った。
着信通知――「佐紀子」から。
全員の視線がスマホに集中した。
陸人は、迷いながらも通話ボタンを押す。
「……たすけ……て……」
わずかにかすれる声が、電話越しに響いた。
ただ、それは人の声というより、まるで“機械越しに切り取られた音の残響”のようだった。
通話は、そこで切れた。
「……行こう。今すぐ」
陸人は、誰にも返事を求めなかった。
その目は、既に“向こう”を見ていた。
終