校門を出たのは、時計の針がちょうど午後三時半を指していた。
空はどこまでも青く、まるで何事もなかったかのように、蝉の声さえも聞こえるほどだった。
しかし陸人たちは誰一人として、その空を見上げようとはしなかった。歩く足音すら、妙に無言だった。
「……もうすぐ、四時になる」
詩旺埋がぽつりと呟く。
「ねえ、知ってる? “午後四時のドアノブには触れるな”って噂。あの家に関係してるかもって――」
「どういう意味?」
日菜が即座に反応した。
「昔から言われてるの。“あの廃屋のドアノブ、午後四時ちょうどに触ると、取り込まれる”って」
克宣が鼻で笑った。「なんだよそれ、都市伝説に都市伝説を重ねるってか?」
だが、鼓大郎がそれに被せるように言った。
「いや……本当かも。俺、小学生の時、一回だけ近所の兄ちゃんに連れてかれて……ドアノブ、ちょうど四時に触ったって。で、そいつ、翌日転校してった。転校って言われたけど、それまで“引っ越す”なんて話、聞いたことなかった」
その場が一気に静かになった。
坂を上る途中、海夏人が一人、道端の標識に目を留めて立ち止まる。
「ちょっと待って」
「どうした?」と陸人。
「……気づいたか? ここ、見覚えあるだろ?」
それは、ごく普通の電柱。だが貼られたチラシが、何かおかしかった。
「“見てる”って……これ、文字が逆だ」
誰かがいたずらで貼ったにしては、やけに整然としたフォントで、“裏側から読まれること”を前提に印刷されていた。
「反転文字……?」紗代子が眉をひそめた。
「このチラシ、昨日まではなかった」
海夏人の言葉に、陸人の喉がごくりと鳴った。
“見てる”――何が? 誰を?
やがて坂の頂上、例の廃屋が姿を見せる。
昨日と同じように、二階の窓は暗く、打ちつけられた板の隙間からは何も見えない。
時計は、午後3時55分を指していた。
「五分で何ができるかね」
克宣が乾いた声をこぼすと、詩旺埋がすっと手を上げた。
「中に入る前に、私が先に周囲を調べる。あと三分……きっちり測って」
そう言うと彼女は、足元の雑草をよけながら家の裏手へと回った。
その間、残った六人は入り口の前に立ち、ただ時間を待った。
3時59分――秒針が進むたび、誰かの呼吸が荒くなる。
4時00分。
「……だめっ!」
裏手から詩旺埋の声が飛んだ瞬間、克宣が反射的にドアノブへと手を伸ばしていた。
「克っ――!」
叫んだのは日菜だった。だがもう遅い。
克宣の指がドアノブに触れた瞬間、金属の冷たさが手のひらに伝わり、次の瞬間――
「……あれ?」
克宣は何事もなかったかのように、振り向いた。
「……何も起こらな――」
――がたん。
ドアが、勝手に開いた。
しかも、音も立てずに。
「な、なんで……」
ドアの向こうには、真っ暗な廊下が続いていた。埃の匂い、閉め切られた空気、そして――異様な“静けさ”。
「ちょっと待て、入る気か?」
鼓大郎が止めるが、陸人は一歩踏み出していた。
「……佐紀子、いるかもしれない」
「でも……」
「もう、“触っちゃった”んだ。入るしかないだろ」
陸人の後に続くように、日菜と海夏人が続く。
詩旺埋と紗代子は顔を見合わせた後、息を整えてから踏み出す。
そして、最後に克宣と鼓大郎が足を踏み入れた。
ドアが――音もなく、閉じた。
その音を、外の誰も聞いてはいなかった。
廃屋の中は想像以上に広く、廊下は不自然なまでに真っ直ぐ伸びていた。
ただ埃を被っているだけでなく、空間そのものが、どこか“現実感”を欠いている。
「……変だな」
海夏人がつぶやいた。
「構造がおかしい。昨日の外観から見て、ここまで奥行きがあるわけない」
足元にはほこりまみれの木の床、左右には古びた部屋の扉。だがどの部屋のドアノブも、錆びているのに綺麗に揃っていた。
「どうする?」
日菜が陸人の後ろから問いかける。
「一つずつ、開けて確認する」
陸人の声は低く、だが確かに響いた。
最初の扉を克宣が開ける。
中は空っぽだった。ただ、子ども用の靴が一足、ぽつんと床に落ちている。
次の扉――開けたのは詩旺埋だった。
中は真っ暗で、天井から垂れたロープが一本、ぐらりと揺れていた。
「これ……やばいって」
鼓大郎が額の汗を拭いながら、後ずさった。
陸人は三つ目の扉の前で立ち止まる。
「……ここ、開けてみる」
扉を押し開けると、そこには……机と椅子、そして鏡台。
「誰か住んでた?」
紗代子が小声で尋ねる。
「……いや。今も住んでる」
海夏人の指差す先、鏡台の鏡に――“誰かの背中”が映っていた。
だが、部屋の中には誰もいない。
映っているのは、長い黒髪の女。その肩越しに“こちら”を見ていた。
日菜が息を呑む。
「これ……佐紀子じゃない?」
だが、鏡の中の女が“にやり”と口元を歪めた瞬間――
陸人が振り向く。
「いない……!」
誰も、いない。
部屋も、廊下も、仲間の姿は消えていた。
「――っ」
気がつけば、陸人はただ一人、廃屋の中にいた。
壁の色が変わっていた。天井が低くなり、床には濡れたような染みが無数に広がっている。
空気が変わっている。まるで生き物の腹の中にいるような、ねっとりとした湿気が陸人の肌を這った。
(みんな……どこに――)
そのとき、背後から声がした。
「……たすけて」
振り向いた瞬間、佐紀子が、そこにいた。
制服のまま、顔色は青白く、声はまるで遠くの井戸から届くようにくぐもっていた。
「佐紀子……! 無事だったのか!?」
陸人が駆け寄ろうとした瞬間――
彼女は、後ずさった。目を見開いたまま、口をパクパクとさせている。
「……さけ、……ろ……」
その言葉を最後に、彼女の体が闇へと引きずり込まれていく。
「まてっ!!」
陸人が腕を伸ばすが、指先が触れたのは――冷たい壁だった。
次の瞬間、天井がぐにゃりと波打ち、空間が歪みはじめた。
「陸人っ!!」
誰かの声――日菜の声が響いた。
気づけば、彼は廊下の中央に倒れていた。海夏人が肩を支え、克宣が扉を開け放った状態でこちらを見ていた。
「陸人、お前……」
「……見た。佐紀子が、いたんだ……!」
「俺たちはずっとこの廊下にいた。お前、一人で部屋に入ったみたいに見えたぞ」
「そんなはずは……」
混乱する思考を押さえ込むように、陸人は立ち上がった。
だが、その目は確かに“佐紀子は生きている”と告げていた。
「……もう一度、あの窓のある部屋に行く。あそこなら、戻れるかもしれない」
「わかった。だが、時間には気をつけろ。……この家には“ルール”がある」
「午後四時に触れてはいけないドアノブみたいなやつか」
海夏人は無言でうなずいた。
そして、七人は再び歩き出した。
夜になる前に――“あの窓”にたどり着くために。
終