その日は、いつもと同じ朝だった。
校舎も、生徒たちの笑い声も、チャイムの音も、すべてが“いつも通り”に見えた。
――ただひとつを除いて。
教室の黒板に、誰かがチョークで書いた文字があった。
「今日が“最後の出席”です」
それを見た瞬間、詩旺埋の背筋が静かに震えた。
ノートは開いても何も書かれず、ページがめくられても“真っ白なまま”。
記録はもう、“次の誰か”を待っているのだ。
昼休み、詩旺埋は屋上へと向かった。
陸人、日菜、海夏人、紗代子、克宣、鼓大郎――全員が、黙ってついてきた。
屋上の中央。
風に揺れる空気の中、ひとつの机と椅子が置かれていた。
それは“教室のもの”と同じ形をしていた。
「……この席、“誰かのため”じゃなく、“誰かだったもの”のためにある」
詩旺埋がそう言うと、ノートの最終ページが開いた。
そこには、たった一行の文字。
「この“最後の出席”を、あなたがとる」
陸人が息をのむ。
「……“名前を呼ぶこと”が、最後の鍵なんだ」
「でも、“誰を呼べばいい?”」
紗代子が顔を上げて問いかける。
詩旺埋は答えなかった。
代わりに、机の上に置かれていた名簿を開く。
そこには、“すべての出席番号”が空欄だった。
番号も、名前も、字も、全てが薄くなり、輪郭さえ消えかけている。
「このままじゃ、“全員が0番になる”」
「……じゃあ、私たちが“出席をとる”しかないんだ」
陸人が一歩、前に出た。
そして、黒板に立ち、チョークを持つ。
その手が震えていたのは、恐怖からではなかった。
責任の重さに、彼自身が気づいていたから。
「出席番号、1番――吉田海夏人」
「はい」
「2番――今泉日菜」
「はい」
「3番――鼓大郎」
「はいっ」
一人一人、名前が呼ばれていく。
“声に出して呼ぶ”ことで、“ここにいる”という実感が、確かにこの空間を縫いとめていく。
そして――最後に詩旺埋がチョークを握った。
「出席番号“0番”――絢音(あやね)」
屋上に、風が吹いた。
机の上のノートが、一気にページをめくり、最初のページへと戻る。
そこには、あの手紙の文字が、もう一度浮かび上がっていた。
「よんでくれて、ありがとう。」
そして――その瞬間、空に佇んでいた影が、ふっと微笑んだ。
黒く歪んでいた“0番”の輪郭が、白く淡く揺らぎながら、空へと昇っていく。
誰かの声が言った。
「出席、しました。」
空気が静かになった。
そして、黒板の文字がひとりでに消え――そこには、何も残らなかった。
それからというもの、空席はひとつもなくなった。
記録は、正確に残るようになり、音のしないチャイムも消えた。
ノートの最後のページは、まっさらな白紙に戻っていた。
それは“忘れるため”ではなく、“これからの記録”を始めるための白紙だった。
終