十年前。
旧校舎――第二校舎の東側棟が、原因不明の火災で全焼した。
けが人ゼロ。出火原因不明。だが、ある一点だけ、不自然な記録が残っていた。
「火災当時、保存されていた生徒名簿のうち、“一部のみ”が焼け残っていた」
「焼け残ったページには、出席番号“0番”だけが記載されていた」
それが記された報告書のコピーを、海夏人がファイルから引き抜いた。
「これ……燃え残った手紙って、この記録のこと?」
「違う。本当の“手紙”が、ある」
詩旺埋が、ノートから一枚の封筒を取り出した。
煤けて、ところどころ焼け焦げた封筒。差出人不明。封は破かれていた。
中に入っていたのは、一枚の便箋。
そこに書かれていたのは、子どもの文字だった。
「せんせいへ
わたしのなまえをよんでくれてありがとう
でも、もしわすれても、またよんでくれたらいいよ
あたしはここにいるから」
一同が言葉を失った。
「……これ、“紬”が書いたのか?」
鼓大郎が問いかけるが、詩旺埋は首を振る。
「筆跡が違う。“紬”よりも前。たぶん、“最初の存在”。“名前を願っただけ”で、誰にも読まれなかった子の“記録”」
「……この手紙、“火の中で残った”ってことは……?」
「意図的に、“この子の想い”だけが“焼け残された”。
記録じゃない。“想い”そのものが、物理的に“形”を持った」
その瞬間、ノートが震えた。
詩旺埋の膝の上で、まるで心臓のように、ページが脈打っていた。
「……なに?」
ノートが開かれ、白紙のはずのページに、文字が浮かび上がる。
「忘れないでくれてありがとう。
でも、“呼ばれなかった名前”は、まだ“戻れてない”。
“火”は、“記憶を焼くもの”じゃない。
“記憶を守るもの”でもある。」
詩旺埋の目が大きく見開かれる。
「……そうか。“火事”は、記録の“消去”じゃなかった」
「どういう意味だ?」
陸人が尋ねる。
「“火事”が起きたのは、“名前を呼ばれなかった存在”が“記録されないことに抗った”から。
だけど、完全に焼き尽くすことはできなかった。
“誰かが名前を呼んだ”――それが、“この手紙”」
詩旺埋は便箋を手に取り、ゆっくりと読み上げた。
「……“わたしのなまえをよんでくれてありがとう”」
読み終わった瞬間、空気が震えた。
まるで教室中が――“誰かの呼吸”に包まれたように。
「“この子”だけが、“自力で記録された存在”だった」
「……名前を呼ばれたことが、“証明”だったんだ」
日菜がかすれた声で言った。
「そして、その記録は――“火”にすら焼けなかった」
その瞬間、ノートの片隅に、ひとつの名前が現れた。
「絢音(あやね)」
誰もその名を聞いたことはなかった。
だが全員が、胸の奥に“何かを思い出しかけた”感覚に襲われた。
「この子が、“0番”になるはずだった存在……?」
「違う。“ならなかった”存在。“記録された記憶”が一度でもあったから、“0番”に吸収されなかった”」
「つまり……“0番”を止める鍵は、“記録された想い”」
「――“呼ばれた名前”。」
そのとき、教室の窓の外。
かすかに微笑む少女の姿が、ガラス越しに浮かび上がった。
終