放課後の校舎は、夏の終わりの匂いをまとっていた。
蝉の鳴き声も途切れがちで、風が吹き抜けるたびに校庭の木々がざわめく。
図書室での“名簿事件”以降、詩旺埋のノートは奇妙な沈黙を保っていた。
描かれなくなった――のではない。何も“見えなく”なったのだ。
「……0番の気配が、消えた?」
海夏人が静かに尋ねた。
「いや。隠れただけ。たぶん、もう“姿を変えてる”。私たちの誰かの中じゃない。“別の記録の層”に入り込んだ」
詩旺埋の手はノートの背表紙をなぞっていた。
「記録の層?」
「“記録を残す側”に回ったってこと。……つまり、教師。管理する側」
その言葉に、陸人が息を飲んだ。
「……まさか、教師の中に、“0番”がいるって言いたいのか?」
「違う。“0番”の起点は、教師だった。
“名を呼ぶはずの存在”が、“名を呼ばなかった”ことで生まれた“記録の歪み”」
詩旺埋は、ある一枚の紙を取り出す。
旧教員名簿のコピー――そこには、薄く書かれた文字。
「三年前の二年四組担任 教諭・佐原恭介」
※記録不備により、現在閲覧不可
「佐原……?」
日菜が思い出したように顔をしかめる。
「いた……確かに、いた。うちの学年主任になる前に、どこかで見た気がする。……でも、ちゃんと話した記憶がない」
「その人が、“紬”の名前を呼ばなかった」
詩旺埋の声が冷たくなった。
「担任として、“記録に残すべきだった生徒”の名前を、意図的に除外した。
誰にも言わずに、“存在を最初からなかったこと”にした」
克宣が拳を握った。
「それ、教師がやっちゃいけないことだろ……!」
「だけど、彼がやったのはそれだけじゃない」
詩旺埋はノートの新しいページを開いた。
そこには、描きかけの“教卓”と“チョークの音”があった。
そして、黒板に浮かぶ、明らかに教員の字で書かれた記述。
「不要な記録は混乱を生む。忘れた方が、生徒のためだ」
「この言葉、今も――使われてる。進路指導や出席確認のとき、“いなかったことにする生徒”って、今も実際に……」
「……それが、“0番”の原型?」
陸人が呟くと、海夏人が目を細めて答えた。
「“記録されなかった記録”が、積もり積もって“意志”を持った。
それが“0番”。名もなく、番号だけ与えられ、誰の記憶にも留まれなかった者たちの集合体」
「じゃあ、佐原恭介は……?」
詩旺埋の筆が、ノートにこう書く。
「“最初に名前を呼ばなかった者”。
“0番”の始祖であり、今も“誰かの記録”を支配している存在」
そのとき――廊下のスピーカーがノイズを吐き出した。
「“次は、職員室”」
「……始まった」
詩旺埋の声は震えていた。
「次の“記録の切断”は、教師たち。
“名を呼ぶ側”が、名を失っていく。
でも、それが始まったら――生徒の存在も“記録されなくなる”」
「じゃあ……止めないと」
陸人の言葉に、全員がうなずいた。
そしてその夜。
職員室の掲示板には、誰も書いた覚えのない紙が貼られていた。
【出席番号:職員0番 担当:記録抹消】
翌朝――佐原恭介の机は、空席になっていた。
だが、誰一人として、「昨日までそこにいた」と思い出すことができなかった。
終