午前11時30分。
五時間目が始まっても、陸人たちは屋上への階段を登っていた。
校則では立入禁止の場所。
だが、今その“禁止”が薄皮のように剥がれかけている。
扉には鍵がかかっていなかった。いや、そもそも――鍵穴が消えていた。
「……“向こう側”と混ざり始めてる」
詩旺埋の声は落ち着いていたが、手にするノートの角がわずかに湿っていた。
それは、見えない雨の気配のように、誰かの感情が滲み込んでいる証拠だった。
屋上の扉を開ける。
そこには、いた。
風に髪をなびかせ、柵の向こうに立つ少女。
セーラー服。白い靴下。足元は濡れていないのに、影だけが“波打っていた”。
「紬……」
日菜が一歩、前に出る。
しかし、紬は振り返らない。
ただ、ゆっくりと、まるで“音のない声”で語り始めた。
「ここに立つのは、“記憶されなかった私”の居場所だから」
「階段の数を数えても、出席番号を追っても、私の席はどこにもなかった」
「だから、ここに立っている。誰も来ない場所で、ただ、“思い出されるのを待つ”」
その声は誰にも聞こえなかった。だが、全員が**“分かっていた”**。
声は耳ではなく、“記憶の底”で響いていた。
「紬……あんたは、怒ってるの?」
詩旺埋が静かに尋ねる。
彼女はゆっくりと振り返った。
目元は、どこか泣き腫らしたように赤かった。
だが口元には、はっきりと笑みがあった。
「ううん。怒ってない。ただ、“悲しかった”だけ。
あたしは、“描かれていた”のに、誰にも名前を呼ばれなかった。
いたのに、“いなかったこと”にされた。それが、いちばん苦しかったの」
「でも……」
海夏人が言葉を継ぐ。
「いま、こうしてあんたのことを知って、思い出して、名を呼んで――それでも、まだ“外”にいる理由は?」
紬は、少しだけ目を伏せてから、答えた。
「私の“記録”は、すでに“0番”に傷つけられてる。
“名前”はあっても、“中身”が空っぽになってる。
だから、私がここにいたら、いずれ“0番”に飲み込まれて、あなたたちを襲う」
「それだけは、絶対に避けたい。
だから、“ここ”にいる。
“記憶と現実の境界”で、止まり続けてる」
「……でも、それじゃ紬がずっとひとりのままじゃないか」
陸人の声が震えた。
「いいよ。だって、いまこうして、名前を呼んでくれてる」
「“紬”って、言ってくれる人がいれば、それだけでここにいられる。
それだけで、もう十分だから」
その言葉に、教室のチャイムが鳴る。
だが、やはり音はなかった。
ただ、ノートの最後のページに一文が浮かび上がる。
「“完全に消える”のは、“完全に忘れられたとき”。」
そのとき、屋上の隅から黒い影がにじみ始める。
「来た……“0番”」
詩旺埋が絞り出すように言った。
「紬! 行け――あっちへ!」
克宣が叫ぶ。
しかし、紬はただ、微笑んで言った。
「平気。だって、私、**“ちゃんと名を呼ばれた”**から」
その瞬間、黒い影が紬の足元に達する。
だが、それは彼女を飲み込まずに、はじかれた。
「……!? 効かない……?」
「記録が、“守ってる”。――“呼ばれた名前”には、もう触れられない」
詩旺埋の声に力がこもる。
紬は、その場で静かに頷いた。
そして、手を振った。
「ありがとう。“記録”してくれて」
次の瞬間、彼女の姿は――空に融けるように、ゆっくりと消えていった。
誰も泣かなかった。
ただ、屋上の風が、確かに誰かが歩き去ったように吹き抜けていった。
そして、ノートのページが――一枚、白紙に戻った。
終