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第十六章 “屋上”に“紬”がいる理由

 午前11時30分。

 五時間目が始まっても、陸人たちは屋上への階段を登っていた。

 校則では立入禁止の場所。

 だが、今その“禁止”が薄皮のように剥がれかけている。

 扉には鍵がかかっていなかった。いや、そもそも――鍵穴が消えていた。

「……“向こう側”と混ざり始めてる」

 詩旺埋の声は落ち着いていたが、手にするノートの角がわずかに湿っていた。

 それは、見えない雨の気配のように、誰かの感情が滲み込んでいる証拠だった。

 屋上の扉を開ける。

 そこには、いた。

 風に髪をなびかせ、柵の向こうに立つ少女。

 セーラー服。白い靴下。足元は濡れていないのに、影だけが“波打っていた”。

「紬……」

 日菜が一歩、前に出る。

 しかし、紬は振り返らない。

 ただ、ゆっくりと、まるで“音のない声”で語り始めた。

「ここに立つのは、“記憶されなかった私”の居場所だから」

「階段の数を数えても、出席番号を追っても、私の席はどこにもなかった」

「だから、ここに立っている。誰も来ない場所で、ただ、“思い出されるのを待つ”」

 その声は誰にも聞こえなかった。だが、全員が**“分かっていた”**。

 声は耳ではなく、“記憶の底”で響いていた。

「紬……あんたは、怒ってるの?」

 詩旺埋が静かに尋ねる。

 彼女はゆっくりと振り返った。

 目元は、どこか泣き腫らしたように赤かった。

 だが口元には、はっきりと笑みがあった。

「ううん。怒ってない。ただ、“悲しかった”だけ。

 あたしは、“描かれていた”のに、誰にも名前を呼ばれなかった。

 いたのに、“いなかったこと”にされた。それが、いちばん苦しかったの」

「でも……」

 海夏人が言葉を継ぐ。

「いま、こうしてあんたのことを知って、思い出して、名を呼んで――それでも、まだ“外”にいる理由は?」

 紬は、少しだけ目を伏せてから、答えた。

「私の“記録”は、すでに“0番”に傷つけられてる。

 “名前”はあっても、“中身”が空っぽになってる。

 だから、私がここにいたら、いずれ“0番”に飲み込まれて、あなたたちを襲う」

「それだけは、絶対に避けたい。

 だから、“ここ”にいる。

 “記憶と現実の境界”で、止まり続けてる」

「……でも、それじゃ紬がずっとひとりのままじゃないか」

 陸人の声が震えた。

「いいよ。だって、いまこうして、名前を呼んでくれてる」

「“紬”って、言ってくれる人がいれば、それだけでここにいられる。

 それだけで、もう十分だから」

 その言葉に、教室のチャイムが鳴る。

 だが、やはり音はなかった。

 ただ、ノートの最後のページに一文が浮かび上がる。

「“完全に消える”のは、“完全に忘れられたとき”。」

 そのとき、屋上の隅から黒い影がにじみ始める。

「来た……“0番”」

 詩旺埋が絞り出すように言った。

「紬! 行け――あっちへ!」

 克宣が叫ぶ。

 しかし、紬はただ、微笑んで言った。

「平気。だって、私、**“ちゃんと名を呼ばれた”**から」

 その瞬間、黒い影が紬の足元に達する。

 だが、それは彼女を飲み込まずに、はじかれた。

「……!? 効かない……?」

「記録が、“守ってる”。――“呼ばれた名前”には、もう触れられない」

 詩旺埋の声に力がこもる。

 紬は、その場で静かに頷いた。

 そして、手を振った。

「ありがとう。“記録”してくれて」

 次の瞬間、彼女の姿は――空に融けるように、ゆっくりと消えていった。

 誰も泣かなかった。

 ただ、屋上の風が、確かに誰かが歩き去ったように吹き抜けていった。

 そして、ノートのページが――一枚、白紙に戻った。

 終


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