人形姫と呼ばれていた。
それは褒め言葉ではなかった。
リュシアン王国の第三位に位置する名門、ノクターン侯爵家の令嬢、イリス=ノクターンは、幼い頃からそう呼ばれ続けてきた。動かない瞳。表情のない顔。感情を映さない心。まるで
「お嬢様、本日のお召し物をご用意いたしました」
シルヴィアの声が、重厚な扉の向こうから響いた。イリスは鏡台の前から動かず、うっすらと開いた唇から「入りなさい」と漏らした。それだけで十分だった。女官長のシルヴィアは、長年の経験でその小さな声も聞き逃さない。
扉が開き、シルヴィアが入ってきた。亜麻色の髪を丁寧に結い上げた女性は、
「本日は白を基調としたドレスと、金の刺繍のケープをご用意しました。お父様がご来客と共にお戻りになるとの知らせがございましたので」
「来客?」イリスは少しだけ眉を動かした。それは彼女の中では大きな反応だった。
シルヴィアの顔に、一瞬だけ微妙な表情が浮かんだ。「……はい。詳細は伺っておりませんが、正餐室での会食のご準備をするようにとの指示が」
「わかったわ」
イリスは立ち上がり、ゆっくりと腕を広げた。朝の支度は、いつもこの順番だ。シルヴィアがドレスを広げ、イリスはただ立っている。何も言わず、何も感じず。
「お嬢様、よろしければ……」シルヴィアの手が止まった。「本日は髪を少し違う形に結わえてみては?」
イリスの白銀の髪は、まっすぐに腰まで伸びていた。普段はただ下ろすか、シンプルに結うだけ。「理由は?」
「その……」珍しくシルヴィアが言葉に詰まった。「お客様が若い男性かもしれないと、下働きの者たちの間で噂になっておりまして」
イリスの胸の中で、何かが揺れた。それは感情だろうか。十七年間、彼女はそれを感じないよう教えられてきた。おかげで、感情を表に出せない。表現の仕方を知らない、と言った方が近いかもしれない。「父上の意向なら、それに従うだけよ」
「……はい」シルヴィアの声には、聞き取れないぐらいの悲しみが含まれていた。
◆◆◆
正餐室の大扉が開かれる音が、石の廊下に響き渡った。
イリスは背筋を伸ばし、まっすぐ前を見つめていた。扉の向こうから現れたのは、灰色の髪をオールバックにした高身長の男性――彼女の父、エドガー=ノクターン侯爵だった。
「イリス」低く冷たい声が部屋に満ちる。「今日は特別な来客がある。最高の礼儀作法で対応するように」
「はい、父上」イリスは小さく頭を下げた。
エドガーの後ろから現れたのは、イリスよりも少し年上に見える青年だった。金色の巻き毛と優雅な立ち振る舞い、口元には常に微笑みを浮かべている。
「ロシュフォール侯爵家の嫡男、セドリック=ロシュフォールだ」エドガーが紹介した。
セドリックは優雅にお辞儀をした。「初めまして、イリス嬢。噂には聞いていましたが、本当に美しい方ですね」
イリスは黙って会釈を返した。彼女の胸にあるのは、ただひとつの疑問。なぜこの人がここにいるのか。
三人は大きな楕円形のテーブルに着席した。エドガーが頭に、イリスとセドリックがそれぞれ横に座る。使用人たちが静かに料理を運び始めた。
「イリス」エドガーが切り出した。「今日はお前の将来について話す」
イリスの心の中で、かすかな波紋が広がった。だが、顔には何も出さない。
「おまえはもうすぐ十八になる。成人の儀の後、ロシュフォール家へ嫁ぐことになった」
イリスの手の動きが、一瞬だけ止まった。
「つまり、セドリックが婚約者だ」
セドリックが柔らかな微笑みを向けてきた。「突然のことで驚かれたでしょう。でも、王国の将来のためにも、我々の結婚は重要なのです」
イリスの唇が、かすかに震えた。「……はい」
「返事はそれだけか?」エドガーの声に冷たさが増した。「ノクターン家の娘として、もっとしかるべき対応があるだろう」
「申し訳ありません、父上」イリスはゆっくりと顔を上げた。「ロシュフォール様、父上のご決断に従います。どうぞよろしくお願いいたします」
「素晴らしい返事です」セドリックは笑顔を崩さない。「僕たちの結婚は、きっと素晴らしいものになるでしょう」
食事は静かに進んだ。イリスは完璧な作法で食事をし、問われれば短く答え、微笑みも怒りも見せなかった。人形姫として。
◆◆◆
部屋に戻ったイリスは、窓辺に立った。
王都リュミエールの灯りが、夜の闇の中でまばゆく輝いている。白い月光が彼女の顔を照らし、それはまるで
「お嬢様、よろしいですか?」シルヴィアのノックが聞こえた。
「入りなさい」
シルヴィアは静かに入ってきて、イリスの後ろに立った。「ご婚約、おめでとうございます」
イリスは振り返らなかった。「それはお祝いの言葉?それとも弔いの言葉?」
思いがけない返答に、シルヴィアはわずかに目を見開いた。「お嬢様……」
「冗談よ」イリスは空虚な声で言った。「感情のない私には、似合わないわね」
シルヴィアは静かに近づき、珍しくイリスの横に立った。「どのようにお感じになられましたか?」
「感じる?」イリスはその単語を
「それでも、結婚は一生の……」
「シルヴィア」イリスは珍しく女官長の言葉を遮った。「私は何のために生まれたと思う?」
シルヴィアは答えなかった。
「私は、ノクターン家の駒として生まれた。政略のため、家のため、父上の野望のため」イリスの声は感情がなく、ただ事実を述べるようだった。「人形に選択権はないわ」
「お嬢様、あなたは人形ではありません」シルヴィアの声が震えた。「あなたにはあなたの感情が――」
「そんなもの、私には許されていないわ。出し方も教わっていないし」イリスは窓に手を置いた。月光に照らされた彼女の指は、透き通るように白かった。「十五年前、私が笑ったとき、父上は何と言ったか覚えているでしょう?」
シルヴィアの顔が曇った。「お嬢様、それは……」
「『感情を出すとは、みっともない』」イリスはまるで他人の話をするように言った。「『ノクターン家の令嬢は、常に完璧でなければならない』」
「あなたのお母様は、違うことを望まれていました」シルヴィアが小さく言った。
イリスは初めて、シルヴィアの方を向いた。「母は、もういないわ」
「でも、あなたはここにいる」シルヴィアはまっすぐにイリスを見た。「生きているんです」
「生きている?」イリスの唇が皮肉げに歪んだ。それは彼女にしては珍しい表情だった。「箱の中の人形が、生きていると言える?」
「……」
「大丈夫よ」イリスは再び窓の外を見た。「私は従う。いつものように。だって、それが私の役目だから」
シルヴィアは何も言わず、深くお辞儀をした。出ていく前に、彼女はこう言った。「明日、新しい使用人が屋敷に来ます。お嬢様の世話をするために」
「また新しい人?」イリスは無関心に問うた。「前の子はどうしたの?」
「……お嬢様に花をお贈りしたことで、侯爵様のお怒りに触れました」
イリスの瞳に、一瞬だけ何かが宿った。「そう、やっぱりね……」
シルヴィアが部屋を出た後、イリスはそっとドレスのポケットに手を入れた。そこには、一輪の押し花が隠されていた。彼女が人に貰った、唯一の贈り物。
「感情なんて、持たないほうがいいのよ」彼女はその押し花に語りかけた。「誰かに優しくされたら、その人は不幸になる。忌々しい異能の対価…」
夜風が窓を揺らし、白い
明日、新しい使用人が来る。また一人、彼女の冷たさに触れる人が増えるのだ。イリスはそう思いながら、ベッドに向かった。人形姫の一日が、また終わろうとしていた。