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Section1-2:奴隷名簿から「彼」を選ぶ

朝の光は、ノクターン侯爵邸の白い壁を優しく照らしていた。だが、その暖かさはイリスの心には届かない。


「お嬢様、お目覚めですか?」


シルヴィアの声に、イリスはゆっくりと目を開けた。寝室の天井に描かれた天使画が、彼女を見下ろしている。いつもの朝だ。変わり映えのしない日常の始まり。


「昨日はよくお休みになられましたか?」シルヴィアがカーテンを開けながら尋ねた。


「ええ」イリスは短く答えた。彼女が眠れなかったこと、婚約の知らせに胸が締め付けられる感覚があったことは、口にする必要もない。感情は、隠すもの——それが彼女の掟だった。


「本日のご予定ですが、午前中に新しい使用人の面接がございます」シルヴィアが言った。「そして午後は——」


「新しい使用人?」イリスが珍しく質問を挟んだ。「私が面接するの?」


シルヴィアの表情が微妙に変化した。「はい。侯爵様が、お嬢様の判断にお任せするとのことで」


「珍しいわね」イリスはベッドから起き上がった。「父上が私に何かを任せるなんて」


「……実は」シルヴィアが言葉を選ぶように間を置いた。「通常の女性使用人が人材不足でして、仕方なく賤民区せんみんくから選ばれた者たちの中から選ぶよう指示がありまして」


イリスの動きが一瞬止まった。「賤民区せんみんく?」


「はい。異能を持つ者たちの区画です」


異能者——生まれながらに特殊な力を持ち、「呪われし者」として忌避きひされる人々。彼らの多くは奴隷として売買されるか、国の最下層さいかそうで生きている。


「父上の考えが知りたいわ」イリスは淡々と言った。


シルヴィアの視線が揺れた。「私にもわかりかねますが……おそらく、婚約されたことで、より厳重な護衛が必要とお考えなのでは」


「護衛のはずなのに、なぜ奴隷?」


「異能者は、忠誠心さえあれば普通の人間より遥かに優れた護衛になると言われています」シルヴィアはそっと付け加えた。「しかも、主人の命令には絶対服従ですから」


イリスは無言で朝の支度を始めた。胸の奥に、何かが渦巻いていた。怒り?疑問?それとも——期待?


◆◆◆


書斎の扉が開かれた。


大理石の床に設えられた重厚な木製机の前に、エドガー侯爵が立っていた。その隣には見知らぬ男が一人。黒いローブに身を包み、顔の半分を覆面ふくめんで隠した怪訝けげんな風体の男だ。


「イリス、来たか」エドガーが冷たく言った。「こちらはウィリアム卿だ。王国認定の奴隷商人である」


イリスは静かに会釈をした。男は彼女を見て、不気味な笑みを浮かべた。


「うわさに聞いていた通りの美しさですな、お嬢様」ウィリアムが鼻にかかった声で言った。「私の商品の中から、どうぞ最高の一品をお選びください」


イリスは何も言わず、差し出された革表紙の名簿を受け取った。


「お前に任せる」エドガーが言った。「ただし、条件がある。第一に、異能を持つ者であること。第二に、お前の命令に絶対服従する者。第三に……」


彼は一瞬だけ、娘の顔をじっと見た。


「お前の純潔を守れる者だ。婚約者のロシュフォール家に、傷のない花嫁を送り届けるためにな。婚礼前に人間の男に触れさせるわけにはいかない」


イリスの表情は変わらなかったが、彼女の指先が名簿を強く握りしめた。「わかりました、父上」


「では私は退出する。選びが終わったら報告せよ」


エドガーが部屋を出ると、ウィリアムが不気味に近づいてきた。「どのような異能をお求めですか? 炎を操る者、風を読む者、はたまた……」


「全員に会いたいわ」イリスは冷静に言った。


「全員、ですと?」ウィリアムが驚いた声を上げた。「十人以上おりますが……」


「問題ないわ」彼女は窓の外を見つめた。「時間ならたっぷりあるもの」


◆◆◆


十人の異能者が、一人ずつ書斎に連れてこられた。


老いた魔術師、筋骨隆々とした戦士、しなやかな体つきの暗殺者……。様々な異能と経歴を持つ者たちが、イリスの前にひざまずいた。


しかし、どれも違和感があった。彼らの目には、卑屈さと同時に狡猾こうかつさが宿っていた。イリスにとって、彼らは父の望むような「完璧な道具」には見えなかった。


「最後の一人です」ウィリアムが扉を開けた。


入ってきたのは、イリスより少し年上に見える獣人の青年だった。黒に近い灰色の髪に、琥珀色の瞳。他の者たちと違い、彼は堂々と立ち、視線をまっすぐイリスに向けた。


「名前は?」イリスが尋ねた。


「ヴァルト=グレイハウンド」彼の声は低く、しかし澄んでいた。


「異能は?」


「狼の血を引いています」ヴァルトは淡々と答えた。「嗅覚、聴覚、視覚が通常の人間より優れています。また、危険を察知する能力も」


イリスは彼の手元に目をやった。長い指と、少し尖った爪。確かに人間離れした特徴がある。


「なぜあなたは賤民区せんみんくにいるの?」


ヴァルトの表情がわずかに硬くなった。「生まれつきです。獣人の血を引く者は皆、そこで生まれ、そこで死にます」


「忠誠は?」


「買い手に従います」彼はきっぱりと言った。「命令に背くことはありません」


イリスは立ち上がり、彼に近づいた。不思議だった。他の異能者たちに近づいたとき、イリスは本能的な恐怖や嫌悪を感じた。だがこの青年には、それがない。


「彼にするわ」イリスが言った。


ウィリアムが目を見開いた。「お嬢様、この男は過去に問題を——」


「問題とは?」イリスが冷たく遮った。


「この男、以前の主人を傷つけたことがあるのです。危険すぎます」


イリスはヴァルトを見つめた。「本当?」


ヴァルトは視線を逸らさなかった。「その主人が、私の仲間を殺そうとしたからです」


「仲間を守るために、主人を裏切ったのね」


「はい」


イリスの胸の奥に、かすかな温かさが生まれた。そんな感覚は初めてだった。


彼を選びたい——その思いは、理性ではなく、何か別のものから来ていた。父の命令でも、必要性でもなく、純粋に彼女自身の欲求だった。


目が「何も期待していない」ことにも惹かれた。


「彼にします」イリスは再度言った。「契約書を持ってきてください」


ウィリアムは渋々、羊皮紙の契約書を取り出した。「ノクターン家の紋章……いえ、私の個人契約印を押してちょうだい。全ての管理権限も私に。」


奴隷商は少し躊躇し、動揺を隠しつつも契約を遂行した。イリスにとっては、これが初めての選択——自分の意志での選択だったのかもしれない。


「以後、この男はあなたの所有物です」ウィリアムが言った。「どのようにお呼びになりますか?」


イリスはヴァルトを見た。「名前は変えないわ。ヴァルト=グレイハウンド。私の……」


一瞬、言葉に詰まった。「私の執事にするわ」


ヴァルトは静かに頭を下げた。「お嬢様のため、命を懸けて仕えます」


「命を懸ける必要はないわ」イリスは言った。「ただ、私の側にいて」


それは命令というより、願いに近い言葉だった。


◆◆◆


「個人契約にしたらしいな」


エドガーの声は、書斎に鉛のように重く響いた。「理由を聞こうか」


「その方が小回りが利くので」イリスは表情を変えずに答えた。「命令を修正するのに、いちいちお父様のお手を煩わせるのもどうかと」


「本当にそれだけか?」エドガーの鋭い視線が刺さる。


「はい、前の奴隷使用人は契約の融通が利きませんでした」イリスは嘘をついた。自分でも理由がわからなかったからだ。なぜあの青年を選んだのか。なぜ心が震えたのか。


「警告しておく」エドガーは立ち上がった。「あの男は獣だ。決して心を許すな。道具として使え」


「わかっています」イリスは静かに言った。「私が人形なら、彼は獣。互いに心など必要ありません」


エドガーはわずかに満足げな表情を見せた。「では明日から、彼をお前の側に置く。ただし、常に監視はつける。いいな?」


「はい、父上」


部屋を出たイリスは、廊下で待っていたシルヴィアと目が合った。


「お嬢様、どうしてあの獣人を?」


イリスは振り返り、珍しく直接シルヴィアの目を見た。「なぜだと思う?」


「わかりません」シルヴィアは正直に言った。「でも、初めて見ました。お嬢様が自分で何かを選ばれるところを」


イリスは沈黙した。そして小さく、ごく小さく言った。「私にもわからないの」

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