朝の光は、
「お嬢様、失礼いたします」
いつもより十分早い。その声はシルヴィアだった。扉が開き、亜麻色の髪の女官長が入ってきた。その表情には、いつもの冷静さの中に、かすかな緊張が混じっていた。
「どうしたの、シルヴィア?」イリスは静かに尋ねた。枕に白い髪を広げ、淡いラベンダー色の瞳で女官長を見上げる。
「本日から、新しい執事が参りました」シルヴィアの声は、いつもより少しだけ高かった。「お嬢様がお選びになった方です」
イリスの胸の奥で、何かが小さく跳ねた。昨日の出来事が鮮明に蘇る。あの琥珀色の瞳。まっすぐな視線。
「そう」彼女は短く答え、ゆっくりと起き上がった。「会わせて」
「はい、しかし——」シルヴィアが言葉を選ぶように間を置いた。「お支度が先でよろしいのでは?」
「いいえ」イリスは珍しく即答した。「このままで」
シルヴィアの目が、わずかに見開かれた。「……かしこまりました」
シルヴィアが部屋を出て行き、一分もしないうちに扉がまた開いた。そこに立っていたのは、イリスが昨日選んだ青年——ヴァルト=グレイハウンドだった。
彼は黒のタキシード風の制服に身を包み、銀の留め具が胸元で輝いていた。昨日の
扉の外に立っていたシルヴィアが声を上げた。「ノクターン侯爵家執事見習い、ヴァルト=グレイハウンドです」
ヴァルトは深く一礼した。「お嬢様、本日より仕えさせていただきます」
その声は低く、しかし澄んでいた。イリスは彼をじっと見つめた。昨日、彼女は衝動的にこの男を選んだ。なぜなのか、自分自身にも説明できない。
「執事の経験はある?」イリスは静かに尋ねた。
「いいえ」ヴァルトは正直に答えた。「ですが、学びます」
「正直なのね」イリスの唇が、わずかに動いた。それは笑顔と呼べるほどのものではなかったが、彼女にしては珍しい反応だった。
シルヴィアが小さく咳をした。「ヴァルトさん、執事の基本はシルクさんから教わりましたね?」
「はい」ヴァルトがうなずいた。「朝の支度、食事の給仕、部屋の清掃、護衛の心得——一通り説明を受けました」
イリスはベッドから立ち上がり、窓際に歩み寄った。薄い寝間着姿のまま、彼女は振り返ってヴァルトを見た。「私の日常は退屈よ。ほとんど屋敷の外に出ないし、誰とも話さない。それでも構わない?」
「はい」ヴァルトの返事に迷いはなかった。「お嬢様の望みなら、何でも」
「本当に何でも?」イリスの声に、かすかな皮肉が混じった。「父上は、あなたを『道具』として扱えと言ったわ」
ヴァルトの表情が、一瞬だけ動いた。「私は道具ではありません。しかし、お嬢様の命令には従います」
「矛盾しているわね」イリスは淡々と言った。「道具じゃないのに、命令には従う」
「
それは予想外の答えだった。イリスの心に、小さな波紋が広がる。彼女は長年、自分を「人形」と考えてきた。だが、この男は「獣」と自らを呼ぶ。似ているようで、根本的に違う。
「あなたを選んだ理由、知りたい?」イリスは突然尋ねた。
シルヴィアが小さく息を呑む音が聞こえた。
「知りたいです」ヴァルトは正直に答えた。
「私にもわからないの」イリスは窓の外を見た。「十人以上の異能者がいたのに、あなただけが……怖くなかった」
「怖くなかった?」ヴァルトが繰り返した。
「ええ」イリスは振り返り、彼の目をまっすぐ見た。「他の人たちは皆、私に何かを求めていた。利用しようとする目、
ヴァルトは黙ってイリスを見つめ返した。
「いいえ、違うわ」イリスはすぐに言葉を訂正した。自分の感情を素直に語ることに慣れていない。「単に、あなたの能力が最も優れていると判断しただけよ」
「……」ヴァルトは何も言わなかったが、その瞳には理解の色が浮かんでいた。
「さあ、仕事を始めましょう」シルヴィアが場の空気を変えるように声を上げた。「ヴァルトさん、まずはお嬢様の朝食の準備をお手伝いください。その間に私がお嬢様の支度を」
「了解しました」ヴァルトは一礼し、退出しようとした。
「待って」イリスが声をかけた。「ヴァルト」
「はい?」彼が振り返る。
「あなたは——」イリスは言いかけて止まった。何を言おうとしたのか、彼女自身もわからない。「……いいえ、何でもないわ」
ヴァルトは深く頭を下げ、部屋を出た。
◆◆◆
朝食の間、イリスは新しい執事をじっと観察していた。
ヴァルトは壁際に立ち、動かない。完璧な姿勢で、必要なときだけ給仕に動く。その所作は少し硬いが、不器用というわけではない。むしろ、慎重に一つ一つの動きを考えているように見えた。
「紅茶をもう一杯」イリスが言った。
ヴァルトはすぐにティーポットを持ち、彼女のカップに注いだ。その動きは素早く、しかし丁寧だった。
「お嬢様」食堂の入り口でシルクという年配の執事長が咳払いをした。「本日の午後のご予定をご確認ください」
「何?」イリスは淡々と尋ねた。
「ロシュフォール家からの使者が、婚約に関する書類をお持ちになるそうです」
イリスの手が、わずかに止まった。婚約——その言葉は、彼女の中に空虚な響きを残す。
「わかったわ」彼女は表情を変えずに答えた。「書斎で待つ」
ヴァルトの表情にも変化はなかったが、イリスは不思議と彼の気配の変化を感じ取った。好奇心だろうか?それとも——彼も誰かに縛られた経験があるのだろうか。
「ヴァルト」イリスが呼んだ。
「はい」
「あなたは、いつから奴隷だったの?」
食堂の空気が凍りついた。シルクが驚いたように目を見開き、給仕係の少女が小さく息を呑んだ。そんな質問をするのは、貴族として
だがヴァルトは平然と答えた。「生まれたときからです」
「家族は?」
「いません」彼の声に感情はなかった。「獣人の子として生まれた時点で、全てを失いました」
イリスはカップを置いた。「そう」
彼女は立ち上がり、ヴァルトに視線を向けた。「午後までの予定は?」
「読書室での勉強と、ピアノのレッスンです」ヴァルトが答えた。シルクから予定を聞いていたのだろう。
「じゃあ行きましょう」イリスは静かに言った。「あなたも一緒に」
ヴァルトは無言で頷き、イリスの後に続いた。
◆◆◆
読書室は、ノクターン侯爵邸の中でも特別な場所だった。
三層吹き抜けの大きな部屋に、無数の書物が並べられている。大きな窓からは柔らかな光が差し込み、部屋全体を優しく照らしていた。
イリスは窓際の読書机に座り、歴史書を開いた。ヴァルトは彼女から適度な距離を保ち、静かに立っている。
しばらくの沈黙の後、イリスは本から目を上げた。「つまらないでしょう?」
「いいえ」ヴァルトは首を振った。
「嘘ばかり」イリスは言った。「こんな場所で何時間も立っているなんて、誰だって退屈よ」
「以前に比べれば天国です」ヴァルトの言葉には皮肉が含まれていたが、彼の表情からは読み取れない。
「じゃあ、本を読んでいいわ」イリスは指で書棚を示した。「好きなものを選んで」
ヴァルトの目に、一瞬だけ驚きが浮かんだ。「よろしいのですか?」
「ええ」イリスはページをめくりながら言った。「誰も見ていないし、父上に言うつもりもないわ」
ヴァルトは慎重に書棚に近づき、指先で背表紙を辿った。最終的に彼が選んだのは、古めかしい詩集だった。
「詩?」イリスは少し意外そうに言った。「読めるの?」
「はい」ヴァルトは静かに答えた。「奴隷でも、中には教育を受ける機会があります。特に、高貴な家に仕えるために」
彼は本を開き、さらに付け加えた。「それに、言葉だけは自由です」
イリスはその言葉の意味を考えた。体は縛られていても、心まで縛ることはできない——そんな意味だろうか。
「好きな詩があるの?」彼女は尋ねた。
ヴァルトはページをめくり、一つの詩を見つけた。「これです」
「読んでみて」
「よろしいですか?」
イリスはうなずいた。
ヴァルトは静かに詩を読み始めた。彼の声は低く、しかし言葉一つ一つに力があった。
「月光の中で/獣は歩む/鎖を引きずり/されど自由を夢見て」
彼の声が部屋に満ちる。イリスはその声に、不思議な温かさを感じた。
「美しい詩ね」イリスは静かに言った。「でもどうして、こんな悲しい詩が好きなの?」
ヴァルトは本を閉じ、イリスを見た。「希望があるからです」
「希望?この詩のどこに?」
「最後の一節です」ヴァルトは言った。「『いつか月は沈み/獣は解き放たれる/その時まで/心だけは星のように』」
イリスは黙った。その言葉が彼女の胸に突き刺さったようだった。心だけは自由——彼女にとって、それは遠い概念だった。
「ヴァルト」イリスは静かに呼んだ。「あなたは、自分が自由になれると思う?」
「いいえ」彼はきっぱりと言った。「しかし、それでも希望は捨てません」
「希望……」イリスはその言葉を口にしたことがあっただろうか。「私には、よくわからないわ」
「お嬢様」ヴァルトは一歩近づいた。「もしお許しいただけるなら……」
「何?」
「お嬢様も、鎖を持っているように見えます」
イリスの心臓が一瞬止まったように感じた。「何を言っているの?」
「失礼しました」ヴァルトはすぐに頭を下げた。「余計なことを」
「いいえ」イリスは静かに言った。「続けて」
ヴァルトは慎重に言葉を選んだ。「獣人には、人の匂いがわかります。お嬢様からは、悲しみの香りがします」
「悲しみの香り?」イリスは思わず自分の手首を見た。「そんなものが、私にあるというの?」
「はい」ヴァルトはまっすぐ彼女を見た。「それは——孤独の香りでもあります」
イリスの瞳が揺れた。この男は、彼女を見抜いたのか?それとも単なる偶然の言葉なのか?
「奇妙ね」彼女は静かに言った。「昨日あなたを選んだとき、私は不思議な感覚を覚えたの。まるで……」
「まるで?」
「まるで、似た香りを感じたみたい」イリスは自分でも信じられない言葉を口にした。「あなたと私、どこか似ているのかもしれないわ」
ヴァルトの瞳が、ほんの少しだけ温かさを帯びた。「私もそう感じました」
二人の間に、不思議な沈黙が流れた。それは重苦しいものではなく、むしろ心地よい静けさだった。
「お嬢様、失礼します」
扉が開き、シルヴィアが入ってきた。彼女はイリスとヴァルトの距離感に、わずかに眉を上げた。
「ピアノのレッスンの時間です」
「わかったわ」イリスは立ち上がった。詩集を手にしたヴァルトを見て、言った。「その本、あなたにあげるわ」
「いいんですか?」ヴァルトの声に驚きが混じった。
「ええ。私のものだから、私が決められるもの」
シルヴィアの顔に、微妙な表情が浮かんだ。彼女は何かを察したようだった。
「ありがとうございます」ヴァルトは深く頭を下げた。
「行きましょう」イリスは扉へ向かった。「ヴァルト、あなたもついて来て」
「はい、お嬢様」