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Section1-3:彼の観察

朝の光は、薄絹うすぎぬのカーテン越しに部屋に流れ込み、イリスのベッドを優しく照らしていた。いつもなら七時ぴったりにシルヴィアが扉をノックする時間。だが今朝は違った。


「お嬢様、失礼いたします」


いつもより十分早い。その声はシルヴィアだった。扉が開き、亜麻色の髪の女官長が入ってきた。その表情には、いつもの冷静さの中に、かすかな緊張が混じっていた。


「どうしたの、シルヴィア?」イリスは静かに尋ねた。枕に白い髪を広げ、淡いラベンダー色の瞳で女官長を見上げる。


「本日から、新しい執事が参りました」シルヴィアの声は、いつもより少しだけ高かった。「お嬢様がお選びになった方です」


イリスの胸の奥で、何かが小さく跳ねた。昨日の出来事が鮮明に蘇る。あの琥珀色の瞳。まっすぐな視線。


「そう」彼女は短く答え、ゆっくりと起き上がった。「会わせて」


「はい、しかし——」シルヴィアが言葉を選ぶように間を置いた。「お支度が先でよろしいのでは?」


「いいえ」イリスは珍しく即答した。「このままで」


シルヴィアの目が、わずかに見開かれた。「……かしこまりました」


シルヴィアが部屋を出て行き、一分もしないうちに扉がまた開いた。そこに立っていたのは、イリスが昨日選んだ青年——ヴァルト=グレイハウンドだった。


彼は黒のタキシード風の制服に身を包み、銀の留め具が胸元で輝いていた。昨日の襤褸ぼろとは打って変わって、完璧な執事の姿。だが、その琥珀色の瞳と、どこか野性的な佇まいは変わらない。


扉の外に立っていたシルヴィアが声を上げた。「ノクターン侯爵家執事見習い、ヴァルト=グレイハウンドです」


ヴァルトは深く一礼した。「お嬢様、本日より仕えさせていただきます」


その声は低く、しかし澄んでいた。イリスは彼をじっと見つめた。昨日、彼女は衝動的にこの男を選んだ。なぜなのか、自分自身にも説明できない。


「執事の経験はある?」イリスは静かに尋ねた。


「いいえ」ヴァルトは正直に答えた。「ですが、学びます」


「正直なのね」イリスの唇が、わずかに動いた。それは笑顔と呼べるほどのものではなかったが、彼女にしては珍しい反応だった。


シルヴィアが小さく咳をした。「ヴァルトさん、執事の基本はシルクさんから教わりましたね?」


「はい」ヴァルトがうなずいた。「朝の支度、食事の給仕、部屋の清掃、護衛の心得——一通り説明を受けました」


イリスはベッドから立ち上がり、窓際に歩み寄った。薄い寝間着姿のまま、彼女は振り返ってヴァルトを見た。「私の日常は退屈よ。ほとんど屋敷の外に出ないし、誰とも話さない。それでも構わない?」


「はい」ヴァルトの返事に迷いはなかった。「お嬢様の望みなら、何でも」


「本当に何でも?」イリスの声に、かすかな皮肉が混じった。「父上は、あなたを『道具』として扱えと言ったわ」


ヴァルトの表情が、一瞬だけ動いた。「私は道具ではありません。しかし、お嬢様の命令には従います」


「矛盾しているわね」イリスは淡々と言った。「道具じゃないのに、命令には従う」


馴致じゅんちされた獣と同じです」ヴァルトは静かに答えた。「鎖につながれていても、獣は獣のままです」


それは予想外の答えだった。イリスの心に、小さな波紋が広がる。彼女は長年、自分を「人形」と考えてきた。だが、この男は「獣」と自らを呼ぶ。似ているようで、根本的に違う。


「あなたを選んだ理由、知りたい?」イリスは突然尋ねた。


シルヴィアが小さく息を呑む音が聞こえた。


「知りたいです」ヴァルトは正直に答えた。


「私にもわからないの」イリスは窓の外を見た。「十人以上の異能者がいたのに、あなただけが……怖くなかった」


「怖くなかった?」ヴァルトが繰り返した。


「ええ」イリスは振り返り、彼の目をまっすぐ見た。「他の人たちは皆、私に何かを求めていた。利用しようとする目、恐悦きょうえつを買おうとする態度。でもあなたは違った」


ヴァルトは黙ってイリスを見つめ返した。


「いいえ、違うわ」イリスはすぐに言葉を訂正した。自分の感情を素直に語ることに慣れていない。「単に、あなたの能力が最も優れていると判断しただけよ」


「……」ヴァルトは何も言わなかったが、その瞳には理解の色が浮かんでいた。


「さあ、仕事を始めましょう」シルヴィアが場の空気を変えるように声を上げた。「ヴァルトさん、まずはお嬢様の朝食の準備をお手伝いください。その間に私がお嬢様の支度を」


「了解しました」ヴァルトは一礼し、退出しようとした。


「待って」イリスが声をかけた。「ヴァルト」


「はい?」彼が振り返る。


「あなたは——」イリスは言いかけて止まった。何を言おうとしたのか、彼女自身もわからない。「……いいえ、何でもないわ」


ヴァルトは深く頭を下げ、部屋を出た。


◆◆◆


朝食の間、イリスは新しい執事をじっと観察していた。


ヴァルトは壁際に立ち、動かない。完璧な姿勢で、必要なときだけ給仕に動く。その所作は少し硬いが、不器用というわけではない。むしろ、慎重に一つ一つの動きを考えているように見えた。


「紅茶をもう一杯」イリスが言った。


ヴァルトはすぐにティーポットを持ち、彼女のカップに注いだ。その動きは素早く、しかし丁寧だった。


「お嬢様」食堂の入り口でシルクという年配の執事長が咳払いをした。「本日の午後のご予定をご確認ください」


「何?」イリスは淡々と尋ねた。


「ロシュフォール家からの使者が、婚約に関する書類をお持ちになるそうです」


イリスの手が、わずかに止まった。婚約——その言葉は、彼女の中に空虚な響きを残す。


「わかったわ」彼女は表情を変えずに答えた。「書斎で待つ」


ヴァルトの表情にも変化はなかったが、イリスは不思議と彼の気配の変化を感じ取った。好奇心だろうか?それとも——彼も誰かに縛られた経験があるのだろうか。


「ヴァルト」イリスが呼んだ。


「はい」


「あなたは、いつから奴隷だったの?」


食堂の空気が凍りついた。シルクが驚いたように目を見開き、給仕係の少女が小さく息を呑んだ。そんな質問をするのは、貴族として不敬ふけいに近いことだった。


だがヴァルトは平然と答えた。「生まれたときからです」


「家族は?」


「いません」彼の声に感情はなかった。「獣人の子として生まれた時点で、全てを失いました」


イリスはカップを置いた。「そう」


彼女は立ち上がり、ヴァルトに視線を向けた。「午後までの予定は?」


「読書室での勉強と、ピアノのレッスンです」ヴァルトが答えた。シルクから予定を聞いていたのだろう。


「じゃあ行きましょう」イリスは静かに言った。「あなたも一緒に」


ヴァルトは無言で頷き、イリスの後に続いた。


◆◆◆


読書室は、ノクターン侯爵邸の中でも特別な場所だった。


三層吹き抜けの大きな部屋に、無数の書物が並べられている。大きな窓からは柔らかな光が差し込み、部屋全体を優しく照らしていた。


イリスは窓際の読書机に座り、歴史書を開いた。ヴァルトは彼女から適度な距離を保ち、静かに立っている。


しばらくの沈黙の後、イリスは本から目を上げた。「つまらないでしょう?」


「いいえ」ヴァルトは首を振った。


「嘘ばかり」イリスは言った。「こんな場所で何時間も立っているなんて、誰だって退屈よ」


「以前に比べれば天国です」ヴァルトの言葉には皮肉が含まれていたが、彼の表情からは読み取れない。


「じゃあ、本を読んでいいわ」イリスは指で書棚を示した。「好きなものを選んで」


ヴァルトの目に、一瞬だけ驚きが浮かんだ。「よろしいのですか?」


「ええ」イリスはページをめくりながら言った。「誰も見ていないし、父上に言うつもりもないわ」


ヴァルトは慎重に書棚に近づき、指先で背表紙を辿った。最終的に彼が選んだのは、古めかしい詩集だった。


「詩?」イリスは少し意外そうに言った。「読めるの?」


「はい」ヴァルトは静かに答えた。「奴隷でも、中には教育を受ける機会があります。特に、高貴な家に仕えるために」


彼は本を開き、さらに付け加えた。「それに、言葉だけは自由です」


イリスはその言葉の意味を考えた。体は縛られていても、心まで縛ることはできない——そんな意味だろうか。


「好きな詩があるの?」彼女は尋ねた。


ヴァルトはページをめくり、一つの詩を見つけた。「これです」


「読んでみて」


「よろしいですか?」


イリスはうなずいた。


ヴァルトは静かに詩を読み始めた。彼の声は低く、しかし言葉一つ一つに力があった。


「月光の中で/獣は歩む/鎖を引きずり/されど自由を夢見て」


彼の声が部屋に満ちる。イリスはその声に、不思議な温かさを感じた。


「美しい詩ね」イリスは静かに言った。「でもどうして、こんな悲しい詩が好きなの?」


ヴァルトは本を閉じ、イリスを見た。「希望があるからです」


「希望?この詩のどこに?」


「最後の一節です」ヴァルトは言った。「『いつか月は沈み/獣は解き放たれる/その時まで/心だけは星のように』」


イリスは黙った。その言葉が彼女の胸に突き刺さったようだった。心だけは自由——彼女にとって、それは遠い概念だった。


「ヴァルト」イリスは静かに呼んだ。「あなたは、自分が自由になれると思う?」


「いいえ」彼はきっぱりと言った。「しかし、それでも希望は捨てません」


「希望……」イリスはその言葉を口にしたことがあっただろうか。「私には、よくわからないわ」


「お嬢様」ヴァルトは一歩近づいた。「もしお許しいただけるなら……」


「何?」


「お嬢様も、鎖を持っているように見えます」


イリスの心臓が一瞬止まったように感じた。「何を言っているの?」


「失礼しました」ヴァルトはすぐに頭を下げた。「余計なことを」


「いいえ」イリスは静かに言った。「続けて」


ヴァルトは慎重に言葉を選んだ。「獣人には、人の匂いがわかります。お嬢様からは、悲しみの香りがします」


「悲しみの香り?」イリスは思わず自分の手首を見た。「そんなものが、私にあるというの?」


「はい」ヴァルトはまっすぐ彼女を見た。「それは——孤独の香りでもあります」


イリスの瞳が揺れた。この男は、彼女を見抜いたのか?それとも単なる偶然の言葉なのか?


「奇妙ね」彼女は静かに言った。「昨日あなたを選んだとき、私は不思議な感覚を覚えたの。まるで……」


「まるで?」


「まるで、似た香りを感じたみたい」イリスは自分でも信じられない言葉を口にした。「あなたと私、どこか似ているのかもしれないわ」


ヴァルトの瞳が、ほんの少しだけ温かさを帯びた。「私もそう感じました」


二人の間に、不思議な沈黙が流れた。それは重苦しいものではなく、むしろ心地よい静けさだった。


「お嬢様、失礼します」


扉が開き、シルヴィアが入ってきた。彼女はイリスとヴァルトの距離感に、わずかに眉を上げた。


「ピアノのレッスンの時間です」


「わかったわ」イリスは立ち上がった。詩集を手にしたヴァルトを見て、言った。「その本、あなたにあげるわ」


「いいんですか?」ヴァルトの声に驚きが混じった。


「ええ。私のものだから、私が決められるもの」


シルヴィアの顔に、微妙な表情が浮かんだ。彼女は何かを察したようだった。


「ありがとうございます」ヴァルトは深く頭を下げた。


「行きましょう」イリスは扉へ向かった。「ヴァルト、あなたもついて来て」


「はい、お嬢様」



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