ノクターン侯爵邸の奥深く、銀の調度品が並ぶイリスの私室。春の月明かりが窓から差し込み、白い大理石の床を青く染めていた。政略結婚の話を告げられてから三日目の夜。イリス・ノクターンは初めて、自分だけの執事となった「獣」に対して好奇心を抱いていた。
「獣人について、もう少し詳しく話して」
淡いラベンダー色の瞳を持つイリスは、白銀の髪を肩に流し、ベッドの端に腰掛けていた。シルクのナイトドレスは膝下まであり、薄い生地が月光に透けて見える。彼女は感情を閉ざしたまま育てられたが、今夜はわずかに瞳に輝きがあった。
「お望みなら」
ヴァルト・グレイハウンドは部屋の片隅に立ち、黒の執事服を纏っていた。身長は185センチを超え、深いグレーの髪が月明かりに反射している。彼の琥珀色の瞳は、人間とは違う野性の色を帯びていた。
「獣人は三つの姿を持ちます。今のような人間に近い姿、獣の特徴が強く出る獣人の姿、そして完全な獣の姿です」
イリスは眉を少し上げた。「見せてくれる?」彼女の声には普段ない柔らかさがあった。
ためらいの後、ヴァルトは静かに頷いた。彼の体が微かに震え、手の形が変わり始めた。指が少し長くなり、爪が鋭く伸び、腕に灰色の毛が生え始める。顔つきも変わり、眉間にしわが寄り、鼻筋が少し長くなった。獣人の姿だ。
「触れても、良いかしら」
イリスの問いにヴァルトは動揺した様子を見せた。彼の心臓が早鐘を打つ音が部屋に響いていた。
「ご主人様の望みなら」
イリスはベッドから立ち上がり、ヴァルトに近づいた。彼女の足音は静かで、まるで幽霊のようだった。小さな白い手が伸び、ヴァルトの腕に触れる。獣の毛並みは想像以上に柔らかく、指を沈めると心地よい温もりを感じた。
「とても、やわらかい...」イリスの声は囁きのようだった。
ヴァルトの喉から低い唸り声が漏れる。彼の体はこわばっていたが、イリスが毛に指を通すたびに、少しずつ緊張が解けていくのがわかった。
「もう一つの姿は?」イリスは好奇心に目を輝かせていた。
「それは...危険です。獣の本能が強くなります」
「怖くないわ」彼女は意外にも微笑んだ。その笑顔は十年来見せたことのないものだった。
深い吐息の後、ヴァルトの体が前屈みになり、骨格が変化し始めた。顔が細長くなり、灰色の毛皮が全身を覆う。数秒後、イリスの前には一匹の大きな狼が立っていた。琥珀色の目だけが、彼がヴァルトであることを物語っていた。
イリスは息を呑んだ。恐怖ではなく、驚きと畏敬の念だった。彼女は狼の頭に手を伸ばし、おずおずと耳の後ろを撫でた。毛は予想以上にふわふわとして、指に絡まった。
「こんなにも...モフモフなのね」
彼女の頬が微かに赤く染まり、指先が獣の首筋へと移動した。ヴァルトの喉から気持ちの良さそうな唸り声が漏れる。彼の体温は人間のときより高く、イリスの冷たい手を温めた。
「あなたは不思議な生き物ね」彼女は静かに言った。「でも、私が思っていたような怖いものではないわ」
ヴァルトはゆっくりと人間の姿に戻りながら、イリスを見つめた。彼の目には驚きと共に、何か深い感情が宿っていた。
「お嬢様...私を恐れないのですか?」
イリスは首を振った。「私はあなたを選んだのよ。あなたの全てを」
その言葉は、彼女自身をも驚かせた。人形と呼ばれた少女の胸の中で、小さな炎が灯ったような感覚。初めて自分の意思で誰かを選んだことへの、小さな誇りだった。
ヴァルトは片膝をついて頭を下げた。「この命、お嬢様にささげます」
月明かりの中、白き人形姫と獣の執事の間に、言葉では表せない絆が芽生え始めていた。