人形姫の日常は、永遠に続く冬のようだった。
執事見習いのヴァルトがノクターン侯爵邸にやってきてから一週間が過ぎた。イリスの周りには相変わらず冷たい空気が漂っていたが、ほんの少しだけ——彼女自身も気づかないほどわずかに——部屋の温度が上がったように感じられた。
「お嬢様、本日のお召し物です」
朝の光が窓から差し込む中、シルヴィアが控えめにドアをノックした。いつもなら彼女一人がイリスの朝の支度を手伝うのだが、今日は異なっていた。
「ヴァルトも一緒に入れて」
イリスの声は感情を殺したように平坦だったが、その指示自体が彼女にしては珍しかった。
シルヴィアの後ろから姿を現したヴァルトは、黒の執事服に銀の飾りを身につけ、姿勢正しく立っていた。一週間の間に、彼は急速に執事としての立ち振る舞いを覚えていた。
「お嬢様」ヴァルトの声は低く、しかし明瞭だった。「本日も晴天です。外庭で朝食をとられてはいかがでしょうか」
イリスはほんの少し目を見開いた。屋敷の外で食事をするなど、彼女には馴染みのない提案だった。
「外?」
「はい。季節の花が咲き始めています。特に
シルヴィアが微かに目を丸くした。「ヴァルトさん、お嬢様は通常、室内でお食事を——」
「いいわ」
イリスの言葉に、二人は驚いて顔を見合わせた。
「外で食べてみたい」イリスは窓の外を見つめた。「ずっと同じ部屋で食べるのも、飽きたわ」
これは新しい展開だった。イリスが自ら変化を求めるなど、シルヴィアの記憶にはなかった。
「かしこまりました」ヴァルトはうやうやしく頭を下げた。「すぐに準備させます」
彼が部屋を出た後、シルヴィアはイリスの服選びを手伝いながら、小声で言った。「彼は、優秀な執事になりそうですね」
「ええ」イリスは短く答えた。「でも執事というより、獣のようね」
「獣、ですか?」
「鎖につながれた獣」イリスは淡々と言った。「でも、それは私も同じかもしれない」
シルヴィアには、その言葉の意味が痛いほどよくわかった。
◆◆◆
朝の
白いテーブルクロスをかけた小さなテーブルが、薔薇の小道の中に置かれている。イリスは白いドレスに身を包み、まるで庭に咲く花の一部のように静かに座っていた。
「紅茶、もう一杯いかがですか?」ヴァルトが丁寧にティーポットを傾けた。
「ありがとう」イリスは小さく言った。
この一週間、彼女はヴァルトの動きを観察していた。奴隷出身とは思えないほど、彼は早く礼儀作法を身につけていた。ただ、時折見せる野性的な仕草——鋭く辺りを見回す目つきや、物音に対する敏感な反応——が、彼の獣人としての本質を思い出させた。
「お嬢様」シルヴィアが庭に現れた。「本日から新しいメイドが着任します。よろしければ、ご紹介させていただきたいのですが」
イリスは黙ってうなずいた。
シルヴィアが手招きすると、茶色の髪をした若い少女が恐る恐る姿を現した。十五、六歳くらいだろうか。栗毛の三つ編みとそばかすのある丸い顔が特徴的だった。
「ユナ・カールベリーと申します!」少女は緊張のあまり、必要以上に大きな声で言った。「お、お嬢様のお世話をさせていただきます!どうぞよろしくお願いいたします!」
その後、深々と頭を下げたが、あまりの勢いでバランスを崩し、よろめいた。
イリスは静かに彼女を見つめた。この少女は、屋敷の使用人としては珍しく活気に満ちていた。ほとんどの使用人は、イリスに対して恐怖や畏怖を示す。だがこの子は違った。怖がっているのは確かだが、それは単なる初対面の緊張のようだった。
「よろしく」イリスは短く答えた。
「はい!」ユナは勢いよく頷き、今度はティーカップをカタカタと鳴らした。「あの、お嬢様!何かできることがあれば、なんでも言ってください!お部屋の掃除でも、お洋服のお手入れでも!」
シルヴィアが咳払いをした。「ユナ、落ち着きなさい。お嬢様を驚かせてしまうわ」
「す、すみません…」ユナは顔を赤らめた。
イリスはユナの様子を冷静に観察していた。不思議な感覚だった。彼女は長年、人との距離を保ち、感情を見せないよう教育されてきた。だがこの少女は、まるで感情の
「ユナ」イリスが突然口を開いた。「あなた、私を怖がっていないの?」
ユナは驚いた顔をした。「え?怖い…ですか?」
「ええ。侯爵の娘で、『人形姫』と呼ばれる私を」
「あ、あの…」ユナは考え込むように首を傾げた。「確かにちょっと緊張しますけど…怖いというより、お嬢様は本当に綺麗で…ため息が出るくらいです!」
イリスの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
「おせっかいかもしれませんけど」ユナは続けた。「せっかくの
シルヴィアが息を呑む音がした。「ユナ!それは——」
「いいのよ」イリスは静かに言った。「正直な子ね」
彼女は立ち上がり、白い薔薇に手を伸ばした。触れずに、ただ眺めるだけ。
「ユナ」イリスが言った。「今日から私の身の回りの世話をお願いするわ。シルヴィアとヴァルトがやり方を教えてくれるから」
「はい!頑張ります!」ユナは目を輝かせた。
「では、屋敷の案内をしてあげましょう」シルヴィアが言った。「ヴァルト、お嬢様をお願いします」
「かしこまりました」
シルヴィアとユナが去った後、庭には再び静けさが戻った。イリスはじっと薔薇を見つめ続けていた。
「白い薔薇は、何も感じないの?」イリスが突然尋ねた。
ヴァルトは少し考えてから答えた。「薔薇は感じます。風を、雨を、太陽の暖かさを」
「でも表現できない」
「言葉では、ですね」ヴァルトは静かに言った。「しかし、花を咲かせることで表現しています」
イリスは彼をじっと見た。「あなたは面白いわね、ヴァルト」
彼の琥珀色の瞳が、朝日を浴びて輝いた。
◆◆◆
昼下がり、イリスは書斎で読書をしていた。しかし、本に集中できないでいた。
朝の出来事が頭から離れない。あの新しいメイド、ユナ。彼女のような存在が、このノクターン侯爵邸に入ってくるのは珍しかった。まるで鳥かごの中に、小さな野鳥が迷い込んだような感覚。
「お嬢様、失礼します」
ドアが開き、今度はユナ一人が入ってきた。手にはティーセットを載せたトレイ。
「シルヴィアさんが、お嬢様のお茶の時間だと教えてくれました」ユナは緊張しながらも、笑顔で言った。「私が持ってきました!」
イリスは黙ってうなずいた。ユナはテーブルにカップを置き、丁寧に紅茶を注いだ。その手つきはまだぎこちなかったが、真剣な様子が伝わってきた。
「ユナ」イリスが呼んだ。
「はい!」
「あなたは、どこから来たの?」
「あ、はい!」ユナは立ち止まり、トレイを胸の前で持った。「私は王都の東側、職人街の出身です。父は靴職人で、母は洗濯屋で働いています」
普通の家庭の子。イリスには想像もつかない世界だった。
「どうして、ここで働こうと思ったの?」
ユナは少し俯いた。「実は…家が貧しくて。姉が病気になって、治療費が必要で…」
「そう」イリスは短く言った。「父上は、なぜあなたを選んだの?」
「それは…わかりません」ユナは正直に答えた。「ただ、シルクさんという方が街の求人所に来て、『明るい性格の娘』を探していると言ったそうです」
明るい性格の娘?イリスの眉が微かに寄った。父が何を考えているのか、理解できなかった。
「ありがとう。下がっていいわ」
「はい!」ユナは深々とお辞儀をした。「あの…お嬢様」
「何?」
「もし、何か必要なことがあれば、いつでも呼んでください。私、走るの得意なんです!」
そう言って、ユナは少し照れたように笑った。イリスの胸の奥で、何かが動いた気がした。
ユナが去った後、イリスは窓際に立ち、庭を見下ろした。見ると、ユナがヴァルトと話している姿が見えた。当初、ユナはヴァルトを恐れているようだったが、今はすっかり打ち解けて、何か熱心に話している。
イリスは、自分でも気づかないうちに、その光景をじっと見つめていた。
◆◆◆
夕食時、エドガー侯爵が久しぶりに姿を見せた。
「イリス」彼の冷たい声が食堂に響いた。「ロシュフォール家から婚約の正式な書類が届いた。来月、セドリックが正式な婚約者として挨拶に来る」
イリスは静かにナイフを置いた。「はい、父上」
「その獣は、まだ使えるか?」エドガーはヴァルトをちらりと見た。
「はい」イリスは淡々と答えた。「よく仕えてくれています」
「そうか」エドガーは信じがたいものを見るような目でヴァルトを見た。「私の情報によれば、あの獣は以前の主人に牙を剥いたそうだが」
ヴァルトの表情は変わらなかったが、イリスには彼の緊張が伝わってきた。
「父上」イリスは落ち着いた声で言った。「彼は私に忠実です。何か問題があるのでしたら、私にお申し付けください」
エドガーはイリスを長い間見つめた後、軽く頷いた。「わかった。だが気をつけろ。獣は所詮獣だ。いつ本性を現すかわからん」
「その方が、人間よりも正直かもしれませんね」
イリスの言葉に、エドガーの目が鋭く光った。「何と言った?」
「何も」イリスは視線を落とした。「ただの
食事の残りの時間は沈黙の中で過ぎた。イリスはほとんど食べずに席を立ち、自室に戻った。
部屋に戻ると、ユナが待っていた。
「お嬢様!」彼女は明るく呼びかけたが、イリスの表情を見て声のトーンを落とした。「あの…お疲れでしょうか?」
「少し」イリスは窓際に立った。「ユナ、私のドレスを脱がせて」
「はい!」
ユナが後ろのボタンを外している間、イリスは言った。「ユナ、あなたは私のことをどう思う?」
「え?」ユナの手が止まった。「どうって…」
「正直に言って」
ユナは深呼吸をした。「お嬢様は、とても美しくて、上品で…でも、すごく寂しそうに見えます」
イリスの心臓が一拍飛んだ。
「寂しそう?」
「はい」ユナは小声で続けた。「だから、ちょっとでもお役に立ちたいって思うんです。お嬢様が笑顔になれるように…」
イリスは振り返り、ユナをまっすぐ見た。「笑顔…私は何年も笑っていないわ」
「でも、笑えるんじゃないですか?」ユナは純粋な目で言った。「だって、お嬢様は人間だから」
人間。イリス自身、そう思ったことがあっただろうか。彼女は自分を「人形」として見てきた。感情を持たない、ただの飾り。
「お嬢様?」ユナが心配そうに呼びかけた。
「ありがとう、ユナ」イリスは静かに言った。「もう大丈夫よ」
その夜、イリスはベッドに横たわり、天井を見つめた。今日という日は、彼女の冷たい日常に小さな変化をもたらした日だった。ユナという太陽のような少女。ヴァルトという謎めいた執事。彼らは、イリスの凍りついた世界に、わずかな温かさを持ち込んだ。
それは心地よいものだった。だが、同時に危険でもあった。感情を持つということは、傷つくということでもある。イリスはそれを知っていた。