朝の光が窓から差し込み、イリスの白銀の髪を金色に染め上げた。
「お嬢様、今日のスケジュールをご説明します」
ヴァルトの声は、朝の静けさの中にも響く低音だった。彼は窓際に立ち、一歩も動かず、完璧な姿勢を保っている。
イリスは鏡台に座ったまま、うなずいた。「お願い」
「午前中はピアノのレッスン。その後、刺繍の時間です。午後には英語と歴史の教師が来られます」ヴァルトは手帳を見ながら話した。「夕方は特に予定がございません」
「いつもと変わらないわね」イリスはブラシを手に取った。
彼女の日常は、あまりにも均質だった。まるで同じ日を何度も繰り返しているかのように。
「お嬢様」
イリスが髪をとかそうとしたとき、ヴァルトが一歩近づいた。
「わたくしが」
イリスは少し驚いた顔をした。シルヴィアが髪をとかしてくれることはあっても、ヴァルトが申し出るのは初めてだった。
「いいわ」
彼女はブラシを差し出した。ヴァルトはゆっくりと受け取り、彼女の後ろに立った。
「少し失礼します」
その声は、思ったよりも柔らかかった。イリスは息を止めた。男性が彼女の髪に触れるのは、生まれて初めてのことだった。
ヴァルトの指先が、彼女の髪に触れた瞬間、奇妙な電流が背中を走った。イリスは小さく息を呑んだ。
「痛みましたか?」ヴァルトが静かに尋ねた。
「いいえ」イリスは声を落ち着かせた。「続けて」
ヴァルトはブラシを髪に滑らせた。彼の動きは慎重で、それでいて慣れた様子。まるで以前にも誰かの髪をとかしたことがあるかのように。
「ヴァルト」イリスは鏡越しに彼を見た。「あなた、執事の経験がないと言ったわよね」
彼の手が一瞬止まった。「はい」
「でも、髪をとかすのがうまいわ」
ヴァルトの琥珀色の瞳が、鏡を通してイリスと交わった。「奴隷時代、病気の友人の世話をしたことがあります」
イリスは黙った。彼の過去は、ほとんど知らなかった。ただ、彼が獣人であること、生まれながらに賤民とされたこと、以前の主人に抵抗したことだけ。
「女性でした」ヴァルトは静かに続けた。「同じく獣人の。彼女は長い銀髪を持っていました」
「彼女は……」イリスは言葉を選んだ。「あなたにとって特別な人?」
ヴァルトの手が再び動きを止めた。「母のような存在でした」
イリスには、その言葉の重みが伝わってきた。「もういないの?」
「はい」簡潔な返事。しかし、その一言には多くの物語が隠されていた。
二人の間に沈黙が広がった。イリスは鏡に映るヴァルトの姿を見つめた。彼の表情は変わらなかったが、瞳の奥に何かを感じた。
「お嬢様の髪は美しい」ヴァルトが突然言った。「月光のようです」
イリスは驚いた。心からの褒め言葉は、長い間誰からももらっていなかった。
「ありがとう」彼女は小さく答えた。
ヴァルトは丁寧に彼女の髪をとかし続けた。その指先は、獣人特有の長い爪があるにもかかわらず、驚くほど繊細だった。
「ヴァルト」イリスが再び口を開いた。「あなたは、私の髪を触って何を感じる?」
「何を感じるか、ですか」ヴァルトは少し考えるように間を置いた。「柔らかさと、強さです」
「強さ?」イリスは首を傾げた。
「はい。一見繊細でも、根元からしっかりしている」ヴァルトは静かに言った。「それは、お嬢様ご自身にも似ています」
イリスの胸の奥で、何かが震えた。彼女自身が気づいていなかった側面を、このヴァルトという男は見抜いているようだった。
「私は強くないわ」イリスは言った。「ただの人形よ」
「人形は壊れるもの」ヴァルトの声が少し低くなった。「お嬢様は、壊れていない」
その言葉に、イリスは言い返せなかった。彼女自身でさえ、自分を「壊れていない」と思ったことはなかった。むしろ、何かが欠けている、不完全な存在だと。
「もし私が壊れたら」イリスは思わず口にした。「あなたはどうする?」
ヴァルトの手が再び止まった。彼は鏡越しにイリスの目をまっすぐ見た。
「修復します」彼はきっぱりと言った。
その一言に、イリスは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。不思議だった。彼女はずっと、自分は修復不可能なほど壊れていると思っていた。感情を失った人形。しかしヴァルトは、そうは思っていないようだった。
「ありがとう」イリスは再び小さく言った。今日二度目の感謝の言葉。彼女にしては珍しかった。
ヴァルトは静かに彼女の髪を整え、最後に小さなリボンを結んだ。「完成です」
イリスは鏡を見た。いつもとほんの少し違う髪型。いつもシルヴィアがするより、少しだけ柔らかい印象になっていた。
「気に入りました」イリスは立ち上がった。「今日一日、このままにするわ」
「光栄です」ヴァルトは一礼した。
◆◆◆
午前のピアノレッスンは、いつも通り進んだ。
イリスの指がピアノの鍵盤を滑るように動く。弾くのは
「素晴らしいわ、お嬢様」ピアノ教師のレディ・ミランダが微笑んだ。「あなたの演奏は日に日に深みを増しています」
「ありがとうございます」イリスは無表情に答えた。
部屋の隅では、ヴァルトが静かに立っていた。イリスは演奏しながら、時折彼の気配を感じた。彼が聴いていることで、なぜか集中力が増すような感覚があった。
「では、次は名曲『愛の夢』を」
ミランダが楽譜を開いた。イリスはピアノに向かい、深呼吸をした。指が鍵盤に触れる前、彼女はふと、ヴァルトの方を見た。
彼は静かに目を閉じていた。音楽に身を委ねているようだった。
イリスは弾き始めた。『愛の夢』——彼女自身が一度も感じたことのない感情の曲。それでも、彼女の指は楽譜に忠実に動いた。技術的には完璧だった。しかし、何かが足りなかった。
「お嬢様」レッスンの終わりに、ミランダは優しく言った。「技術は素晴らしい。でも、音楽には感情も必要です」
「感情」イリスは繰り返した。「どうすれば、感じたことのないものを表現できるでしょう」
ミランダは困ったように微笑んだ。「想像してみるのです。愛とは、誰かのためにすべてを捧げる気持ち。その人がいるだけで、心が温かくなる感覚」
イリスは黙ってうなずいた。しかし、その言葉はただの音として彼女の耳に届いただけだった。
レッスンが終わり、ミランダが去った後、イリスは再びピアノに向かった。
「もう一度弾いてみるわ」彼女は、ヴァルトに言うでもなく呟いた。
鍵盤に向かう前に、彼女は朝のことを思い出していた。ヴァルトの指が髪に触れた瞬間の、あの不思議な感覚。
イリスは指を動かし始めた。今度は楽譜を見ずに、目を閉じて。
彼女の演奏が部屋に響く。最初は機械的だったが、徐々に変化していった。指先には、朝感じた温かさの記憶が宿っていた。
演奏が終わると、静寂が部屋を満たした。
「……お嬢様」
ヴァルトの声が、その静けさを破った。イリスは振り返った。
「どうだった?」彼女は尋ねた。
ヴァルトの表情は、相変わらず読み取りにくかった。しかし、彼の目には何か新しい光が宿っていた。
「言葉にできません」彼は静かに言った。「ただ……心に響きました」
イリスはピアノの蓋を閉じた。「そう」
彼女自身も、自分の演奏に何か違いがあったことを感じていた。完全に理解できないものの、確かに何かが変わっていた。
◆◆◆
刺繍の時間、イリスは集中できなかった。指先が、何度も糸を引き違えた。
「あら、お嬢様」シルヴィアが心配そうに言った。「今日は珍しく、お疲れですか?」
「いいえ」イリスは短く答えた。「ただ、考え事をしていただけ」
シルヴィアは少し首を傾げた。「髪型が少し違いますね。とても素敵です」
「ヴァルトがしてくれたの」
その言葉に、シルヴィアの目が驚きで見開かれた。「ヴァルトさんが?」
イリスはただうなずいた。シルヴィアの表情に、微妙な変化が見えた。驚きと共に、何か別の感情——理解だろうか。
「そうですか」シルヴィアは小さく微笑んだ。「彼は、色々な才能をお持ちのようですね」
イリスは無言で刺繍を続けた。指先がまた糸を引き違える。
「もういいわ」彼女は突然刺繍枠を置いた。「今日は気分が乗らない」
「はい」シルヴィアは静かに片付け始めた。「お嬢様、よろしければお昼の準備をしましょうか」
「ヴァルトは?」イリスは窓の外を見た。
「執事長のシルクさんと、屋敷の警備について話し合っています」シルヴィアは答えた。「先ほど、ロシュフォール家から使者が来るとの知らせがありまして」
イリスの表情が硬くなった。「またセドリックの件?」
「はい」シルヴィアは言葉を選ぶように続けた。「婚約指輪を持ってくるそうです」
婚約指輪。それはイリスにとって、もう一つの鎖を意味していた。彼女の自由——もともと持っていなかったものを、さらに奪うもの。
「お嬢様?」シルヴィアが心配そうに呼びかけた。
「聞こえたわ」イリスは立ち上がった。「昼食は部屋で取るわ。一人で」
「はい」シルヴィアは一礼した。「すぐに準備させます」
シルヴィアが去った後、イリスは再び窓辺に立った。彼女の指が無意識に髪に触れた。朝、ヴァルトが触れた場所。
「なぜ」彼女は小さく呟いた。「なぜ私は、あの時震えたの?」
それは恐怖ではなかった。嫌悪でもなかった。彼女にとって新しい、名前のない感情。それが何なのか、イリスには分からなかった。
◆◆◆
午後の授業が終わり、イリスは書斎で本を読んでいた。しかし、文字が頭に入ってこなかった。
「失礼します」
ドアがノックされ、ヴァルトが入ってきた。彼の手には小さな箱があった。
「ロシュフォール家からの使者が、これをお持ちしました」
イリスは本を閉じた。「置いておいて」
ヴァルトは箱をテーブルに置いた。しかし、立ち去らなかった。
「何か?」イリスが尋ねた。
「お嬢様」ヴァルトは少し言葉を選ぶように間を置いた。「もし、よろしければ」
「何?」
「お嬢様の髪を、もう一度」彼は静かに言った。「先ほど、外出で少し乱れてしまったようで」
イリスは彼をじっと見た。心の奥底で、また朝の感覚を味わいたいという思いがあった。それが何なのか分からなくても。
「いいわ」彼女は席を立った。
ヴァルトが近づき、そっと彼女の髪に触れた。今朝と同じ感覚。しかし今度は、イリスはその感覚を意識的に感じようとした。
「ヴァルト」イリスは静かに言った。「あなたの指は、いつも震えているの?」
ヴァルトの手が一瞬止まった。「いいえ」
「でも今、震えているわ」
確かに、彼の指には微かな震えがあった。
「お嬢様の髪に触れるとき、緊張するのです」ヴァルトは正直に答えた。
「なぜ?」
「あまりにも繊細だから」彼は慎重に言葉を選んだ。「壊してしまうのが、怖い」
イリスの心臓が早く打ち始めた。「壊す?」
「はい」ヴァルトの声は、ほんの少しだけ感情を帯びていた。「私はこの手で、多くのものを壊してきました。だからこそ、壊したくないものに触れるとき、怖いのです」
イリスは振り返り、彼の目を見た。互いの顔が、予想以上に近かった。
「私は壊れないわ」彼女は言った。「あなたが言ったでしょう。『お嬢様は壊れていない』と」
ヴァルトの琥珀色の瞳が、真剣な光を宿していた。「はい」
「だから」イリスは小さく息を吸った。「怖がらなくていいの」
彼女は自分でも驚くような言葉を口にしていた。いつもの自分なら決して言わないようなこと。しかし今、この瞬間は違った。
ヴァルトの指が、再び彼女の髪に触れた。今度は震えていなかった。その指先が彼女の頬を掠めた瞬間、イリスは息を止めた。
「お嬢様」ヴァルトの声が、いつもより低く響いた。
その時、ドアがノックされた。
「お嬢様、失礼します」
シルヴィアの声だった。イリスとヴァルトは素早く距離を取った。イリスの頬には、微かな赤みが浮かんでいた。
「ユナが、お茶を持ってきました」シルヴィアが入ってきた。彼女はイリスの表情を見て、わずかに目を細めた。「大丈夫ですか?」
「ええ」イリスは冷静さを取り戻した。「入れていいわ」
ユナが元気よく入ってきた。「お嬢様!今日のお茶はカモミールです!」
彼女の明るい声に、部屋の空気が一変した。しかしイリスの心の中では、さっきの感覚がまだ残っていた。ヴァルトの指が触れた場所が、温かかった。