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Section2-3:外界を知らぬ姫の願い

朝、イリスの部屋に差し込む陽光は、いつもより明るく感じられた。


窓の外では小鳥がさえずり、風が木々を優しく揺らしている。イリスはベッドの中で目を覚まし、窓の外を見つめていた。どこか違う。今日の自分は、いつもと違う。


「お嬢様、おはようございます」


ドアがノックされ、シルヴィアが入ってきた。彼女の腕には、いつものように白いドレスが掛けられている。


「今日は素晴らしい天気ですね」シルヴィアが微笑みながら言った。「お目覚めはいかがですか?」


「ええ」イリスはゆっくりと起き上がった。「シルヴィア、ちょっと聞きたいことがあるの」


「はい、なんでしょう?」


イリスはほんの少し言葉を選ぶように間を置いた。「王都リュミエールって、どんな場所?」


シルヴィアの表情に、一瞬驚きが浮かんだ。「王都ですか?」


「ええ。屋敷の外」イリスは窓の外を見ながら言った。「私、生まれてからほとんど外に出たことがないの」


それは事実だった。ノクターン侯爵家の箱入り娘はこいりむすめは、社交界デビューまで外界から隔離される伝統があった。イリスは十七年間、この屋敷の庭以外の場所をほとんど知らずに育ってきた。


「王都は…とても美しい場所です」シルヴィアは懐かしそうに言った。「大きな水晶塔があり、魔法の光で街全体が照らされています。広場には噴水があって、晴れた日には虹がかかることも」


イリスは黙って聞いていた。シルヴィアの言葉が、彼女の頭の中で絵を描いていく。見たことのない風景。


「市場は特に活気があります」シルヴィアは続けた。「色とりどりの花、美味しそうなお菓子、珍しい品々…人々の笑い声や呼び声で、いつも賑やかです」


「行ってみたい」


イリスの言葉に、シルヴィアの動きが止まった。「お嬢様?」


「王都に行ってみたいの」イリスは静かに、しかし決意を込めて言った。


シルヴィアは困ったように唇を噛んだ。「でも…侯爵様のお許しが」


「父上が許してくれるはずがないわ」イリスは苦笑した。「十八になるまで、屋敷から出してもらえないことくらい知ってる」


「お嬢様…」


「でも、知りたいのよ」イリスはまっすぐシルヴィアを見た。「外の世界を。父上が私から奪っているもの」


シルヴィアの目に、複雑な感情が浮かんだ。「わかりました。できる限りのことを」


「本当に?」イリスの声に、珍しく期待の色が混じった。


「はい」シルヴィアは微笑んだ。「まずは、本を集めましょう。王都の地図や歴史、風俗を記した書物なら、図書室にもあるはずです」


イリスの顔に、小さな喜びが浮かんだ。「ありがとう、シルヴィア」


「お嬢様」シルヴィアは優しく言った。「あなたのお母様も、外の世界を愛していました。特に、王都の花市場を」


イリスの胸が締め付けられた。母の話は、父から禁止されていた。だからこそ、彼女は母のことをほとんど知らなかった。


「母は…どんな人だったの?」イリスは小さく尋ねた。


シルヴィアの目に涙が浮かんだ。「とても優しく、笑顔の美しい方でした。そして、自由を愛していました」


「なのに、なぜこんな掟を?」イリスは自分の置かれた状況を指した。


「それは…」シルヴィアは言葉に詰まった。「話せることと話せないことがあります。いつか、時が来たら」


イリスはそれ以上追及しなかった。シルヴィアが言わないことには、理由があるはずだった。


「支度をしましょう」シルヴィアは話題を変えた。「今日もヴァルトさんに髪を整えてもらいますか?」


イリスはほんの少し頬を赤らめた。「ええ、そうするわ」


◆◆◆


イリスが朝食を終えると、図書室に向かった。ヴァルトが静かに後に続く。


「ヴァルト」イリスが歩きながら言った。「あなたは王都を知ってる?」


「はい、少しは」ヴァルトは答えた。「奴隷商人に連れられて、何度か通りました」


イリスは立ち止まり、振り返った。「どんなところ?シルヴィアが言うほど美しい?」


ヴァルトは少し考え込むように目を伏せた。「場所によります。貴族街は美しい。光と香りの街です。でも…」


「でも?」


裏街うらがい賤民区せんみんくは違います」彼は静かに言った。「影と飢えの街」


イリスはじっとヴァルトを見た。彼の言葉には、シルヴィアが語らなかった真実が含まれていた。


「全部見てみたい」イリスは決意を込めて言った。「美しい部分も、そうでない部分も」


ヴァルトの目が少し見開かれた。「お嬢様…」


「あなたは連れていってくれる?」イリスは直接尋ねた。「もちろん、父上に黙って」


ヴァルトの表情が硬くなった。「それは…危険です」


「怖いの?」


「いいえ」彼はきっぱりと言った。「ただ、お嬢様を危険に晒すことはできません」


「あなたがいれば、大丈夫でしょう?」イリスは少し頭を傾けた。「獣人の感覚で、危険を察知できるんじゃない?」


「感覚の問題ではありません」ヴァルトは言った。「もしお嬢様に何かあれば、それは私の責任です」


「そうね」イリスは少し皮肉っぽく言った。「奴隷なんだから、主人に従う義務があるわ」


その言葉に、ヴァルトの瞳が暗くなった。「はい」


イリスは自分の言葉を後悔した。「ごめんなさい、そういう意味じゃ…」


「いいえ」ヴァルトは冷静に言った。「お嬢様の仰る通りです。私は命令に従います」


イリスは言葉に詰まった。この男の心を傷つけたくなかった。なぜか、彼だけは傷つけたくなかった。


「ヴァルト」彼女は静かに言った。「私はあなたを道具だとは思っていないわ。だから、奴隷としてじゃなく…」彼女は少し躊躇った。「友人として頼みたいの」


「友人?」ヴァルトの声に、驚きが混じった。


「そう。友人」イリスは自分でも信じられない言葉を口にしていた。「私、一度も友達がいたことないから、何をどう言えばいいのかわからない。でも…あなたを信頼している」


ヴァルトの表情が柔らかくなった。「お嬢様…」


「イリスでいいわ」彼女は言った。「二人きりのときくらい」


長い沈黙の後、ヴァルトがゆっくりと頭を下げた。「わかりました…イリス」


彼の口から自分の名前が発せられた瞬間、イリスの心臓が大きく跳ねた。思いがけない喜びだった。


「じゃあ、約束して」イリスは言った。「いつか、私を王都に連れていってくれる?」


ヴァルトはしばらく考え、最後にうなずいた。「約束します。ただし、安全を確保できる時に」


イリスは小さく微笑んだ。彼女にとっては珍しい表情だった。「ありがとう」


二人は図書室へと歩き続けた。イリスの心は、不思議なほど軽くなっていた。


◆◆◆


図書室では、シルヴィアが既に何冊かの本を用意していた。


「お嬢様、こちらは王都の地図です」彼女は古めかしい巻物を広げた。「そしてこれは、年中行事や祭りについての本」


イリスは熱心に地図を見つめた。複雑に入り組んだ街路、広場、建物の配置。想像以上に広大な都市だった。


「ここが王宮」シルヴィアが指さした。「そしてこの一帯が貴族街。私たちの屋敷はこの辺り」


「随分、城壁に近いのね」イリスは地図の端を見た。


「はい。ノクターン家は代々、王国の守護を担ってきました」シルヴィアは説明した。「だから城壁近くに邸宅があるのです」


イリスは指で地図を辿った。「この大きな広場は?」


ラ・ルミエールら・るみえーる大噴水広場です」シルヴィアが答えた。「王都で最も美しい場所の一つ。夜になると、魔法の光で彩られます」


「それから、この円形の建物は?」


「王立歌劇場おぺらはうすです」シルヴィアの目が懐かしそうに輝いた。「歌と音楽の殿堂。小さな頃、お母様がよくあなたを連れていかれました」


イリスは驚いた。「私が?」


「ええ。まだ二、三歳の頃です」シルヴィアは微笑んだ。「覚えていませんか?美しい歌声に、あなたはいつも目を丸くして」


イリスは頭を振った。「覚えていない」


でも、どこか心の奥で、かすかな記憶の欠片が揺れていた気がした。美しい女性の手に包まれた小さな手。光輝く舞台。


「ここは?」イリスは地図の東側を指した。


ヴァルトが静かに答えた。「東市場です。花や食料品、日用品が並びます」


「そして、この少し暗く塗られた区域は?」イリスは地図の端、城壁の外側に広がる区画を指した。


ヴァルトとシルヴィアが顔を見合わせた。


賤民区せんみんくです」ヴァルトが静かに言った。「私が生まれ育った場所」


イリスはじっとその区域を見つめた。「どんなところなの?」


「狭く、暗く、不衛生」ヴァルトは簡潔に言った。「しかし、人々は生きるために懸命に働いています」


「獣人は皆、そこに?」


「ほとんどが」ヴァルトは頷いた。「一部の特権を得た者だけが、城内に住むことを許されています」


イリスは黙って考え込んだ。彼女が知らない世界。父が見せたくなかった現実。それがすぐそこにあるのに、彼女は十七年間、何も知らずに生きてきた。


「お嬢様」シルヴィアが心配そうに言った。「あまり深く考え込まないでください。まずは楽しい部分から知っていくのも良いと思います」


「そうね」イリスは本棚から別の本を取った。『リュシアン王国の年中行事』と題された厚い本だった。「これを読むわ」


彼女は本を開き、熱心に読み始めた。時折、理解できない部分でヴァルトやシルヴィアに質問した。二人は彼女の好奇心に、できる限り応えた。


「春祭りの花車はなぐるまって何?」


「大きな車に花で飾り付けた山車です」シルヴィアが説明した。「若い女性たちが乗り、通りを練り歩きます」


「夏至祭の魔法仮面舞踏会ますくぼーるは?」


「貴族たちが魔法で作った仮面を付けて踊るのです」シルヴィアが言った。「その日だけは、身分を問わず招待された者なら誰でも参加できます」


「冬の星祭ほしまつりでは、なぜ提灯を川に流すの?」


「亡くなった人の魂を導くためと言われています」今度はヴァルトが答えた。「星になって帰ってくるようにという願いを込めて」


イリスの目は輝いていた。これほど多くの興味深いことを、彼女は今まで知らずにいた。


「全部見てみたい」彼女は本を閉じながら言った。「すべての祭り、すべての場所」


「いつか必ず」シルヴィアが約束した。「成人の儀が終われば、お嬢様は社交界に出ることができます」


「でも、それは政略結婚のためでしょう」イリスの声が冷たくなった。「父上の駒として」


「お嬢様…」


「自分の意志で外に出たい」イリスはきっぱりと言った。「誰かに連れられてじゃなく。私自身の好奇心のために」


ヴァルトとシルヴィアは何も言わなかったが、イリスの気持ちを理解しているようだった。


その時、突然ドアが開いた。


「お嬢様!」ユナが息を切らして駆け込んできた。「大変です!」


「どうしたの?」イリスは立ち上がった。


「ロシュフォール家のセドリック様が、突然いらっしゃったんです!」ユナは大きな目を見開いて言った。「侯爵様も、すぐにお嬢様をお呼びだそうと…」


イリスの表情が固まった。セドリック・ロシュフォール——彼女の婚約者。父の選んだ男。


「わかったわ」彼女は冷静に言った。「支度をして行くわ」


シルヴィアがすぐにイリスの側に来た。「髪を整え、お召し物を替えましょう」


「ヴァルト」イリスは振り返った。「あなたも一緒に来て」


「しかし、婚約者との対面に執事が…」シルヴィアが心配そうに言った。


「私の執事だから、私が決めるわ」イリスはきっぱりと言った。「ヴァルト、お願い」


「はい」ヴァルトは深く頭を下げた。その瞳には、イリスに対する心配と、何か別の感情が混じっていた。


イリスは深呼吸をした。世界を知りたいという願いを抱きながら、彼女はまず目の前の現実に対応しなければならなかった。婚約者との対面。父の決めた未来への一歩。


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