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Act of Intimacy-2. 主従の距離

リュシアン王国の貴族街、ノクターン侯爵邸の東側に位置する書庫。夕暮れの光が高窓から差し込み、埃っぽい空気が金色に輝いていた。執事として仕えるようになって二週間が過ぎたある日、ヴァルト・グレイハウンドは初めて、主であるイリス・ノクターンと「偶然」に触れ合うことになる。


書庫の重厚な梯子は年季が入っていた。イリスは白と銀を基調とした長袖のドレスに身を包み、その細い指で上段の古い詩集を取ろうとしていた。白銀の髪が一つに結われ、首筋の柔らかな曲線を露わにしている。淡いラベンダー色の瞳は、いつもの無感情さとは違う、わずかな期待を宿していた。


「お嬢様、私がお取りします」


ヴァルトの声は低く、落ち着いていた。黒の執事服は完璧に着こなされ、深いグレーの髪は後ろでまとめられている。琥珀色の瞳には、常に警戒の色が宿っていた。


「いいの。自分でやりたいの」


イリスの声は小さく、でも意志の強さを感じさせた。箱入り令嬢として育てられた彼女が、初めて「自分でやりたい」と口にした瞬間だった。


梯子の上で身を伸ばすイリス。彼女の指先は目当ての本に届かず、つま先立ちになる。その時、古い木材がきしむ音がした。


「お嬢様!」


梯子が傾いだ瞬間、ヴァルトは反射的に飛びついた。獣の俊敏さで彼女を受け止めようとしたが、勢いがつきすぎて、二人は床に倒れこんだ。


「いた...」


ヴァルトが床に背中から倒れ、イリスはその上に覆いかぶさるように横たわっていた。二人の息が混ざり合い、イリスの髪が彼の顔を優しく撫でる。部屋に流れる空気が、一瞬で熱を帯びた。


「大丈夫ですか、お嬢様」


ヴァルトの声が震えていた。彼の手はイリスの腰に添えられており、彼女の体の軽さに驚いていた。まるで人形のように繊細で壊れやすい。しかし、今感じるその体温は紛れもなく人間のものだった。


イリスは動こうとした。だが、彼女の長袖ドレスの刺繍糸が、ヴァルトの制服のボタンに絡まっていた。動けば動くほど、二人の体は引き寄せられる。


「動かないで、お嬢様」


ヴァルトの声が低くなった。獣の血が騒ぎ始めるのを感じていた。イリスの甘い香り—薔薇とバニラの混ざったような香りが、彼の鼻孔をくすぐる。


「絡まってるわ...」イリスの声もいつもより柔らかかった。「どうすれば...」


彼女の息が彼の首筋に当たり、ヴァルトの体が微かに震えた。獣人としての本能が目覚めそうになるのを必死に抑えている。心臓の鼓動が、イリスの胸に伝わっているに違いない。


「少し、時間をください」


ヴァルトは慎重に手を動かし、絡まった糸をほどこうとした。しかし、彼の大きな手と鋭い爪は、繊細な作業には向いていなかった。逆に、二人の体はさらに密着していく。


イリスの頬が、生まれて初めて赤く染まった。「あなたの...心臓の音が聞こえるわ」


時間が止まったかのような静寂。二人の呼吸だけが聞こえる。


「獣の心臓は、人間より早く打ちます」ヴァルトは言い訳めいた言葉を口にした。しかし本当は、彼女の接近が原因だということを、二人とも分かっていた。


イリスの手が彼の胸に置かれた。彼女自身も、なぜそんな行動をとったのか分からない。ただ、初めて感じる他者の温もりに、本能的に反応していた。感情を閉ざして育った彼女の中で、何かが目覚め始めていた。


「お嬢様、このままでは...」言葉を濁しながらも、彼の手はイリスの背中に回されていた。守るためなのか、閉じ込めるためなのか、彼自身にも分からない。


イリスの顔が少しずつ近づいてきた。彼女の唇が微かに開き、呼吸が浅くなっている。彼女にとって、これは未知の領域だった。感情を禁じられた箱入り令嬢が、初めて感じる「欲望」の芽生え。


その時、廊下から足音が聞こえた。


「イリス嬢、そろそろお食事の時間です」シルヴィアの声だった。


二人は我に返り、急いで体を離そうとした。しかし糸はまだ絡まったまま。


「少々お待ちください!」イリスの声には慌てた色があった。


ヴァルトは最後の力を振り絞り、糸を引きちぎった。彼の鋭い爪が光り、絡まった糸が断ち切れた瞬間だった。


二人は急いで立ち上がり、服を整えた。イリスのドレスの袖には小さな裂け目ができていたが、それは彼女と彼の間で起きた「何か」の証だった。


「お嬢様、本をお持ちしましょう」


ヴァルトは素早く梯子を上り、イリスが欲しがっていた詩集を取り降りた。二人の指が本を介して触れ合ったとき、またあの熱い感覚が戻ってきた。


「ありがとう...ヴァルト」


イリスは詩集を胸に抱きしめ、まっすぐに彼の瞳を見つめた。主従の距離を超えて、二人の間に芽生え始めた感情は、まだ名前もないものだった。


シルヴィアが入ってくる前に、イリスは小さく囁いた。

「これは...私たちの秘密よ」


ヴァルトはただ深く頭を下げた。頭を上げた時、彼の琥珀色の瞳には、忠誠と共に燃える炎があった。獣の中に眠る「何か」の形が、少しずつ形作られ始めていた。


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