セドリック=ロシュフォールの突然の訪問から一週間が過ぎた。
イリスにとって、あの日の対面は奇妙なものだった。華やかで愛想のいい金髪の青年は、彼女の想像していた
「おはようございます、お嬢様」
朝の光が差し込む寝室で、シルヴィアが静かにカーテンを開けた。今日も変わらない日常の始まり——そう思っていた矢先、シルヴィアが意外な言葉を口にした。
「本日、エドガー様がお出かけになります。王都での政務で、三日ほど留守にされるそうです」
イリスは一瞬、耳を疑った。「父上が?」
「はい」シルヴィアはうなずいた。「久しぶりの長期外出ですね」
父が屋敷を空けることは滅多になかった。特に最近は、イリスの婚約話が進んでいることもあり、ほとんど外出していなかった。
「シルク執事長が留守を預かり、私とヴァルトさんがお嬢様のお側につくようにと指示がありました」シルヴィアが続けた。
イリスの心に、小さな希望が灯った。父がいない間——それは少しだけ自由を意味していた。
「シルヴィア」イリスは静かに言った。「王都の本、もっと持ってきてもらえる?」
シルヴィアは微笑んだ。「もちろんです。何か特に知りたいことはありますか?」
「市場のこと」イリスは即答した。「特に花市場。母が好きだったって言ってたでしょう?」
「…わかりました」シルヴィアの目に懐かしさが浮かんだ。「お探しします」
◆◆◆
朝食後、イリスは庭で読書をしていた。初夏の陽気は心地よく、花々の香りが風に乗って漂っていた。ヴァルトが静かに彼女の側に立っている。
「お嬢様、お呼びですよ!」
明るい声と共に、ユナが小走りでやってきた。陽に照らされた彼女の茶色い髪が、風に揺れていた。
「どうしたの?」イリスは本から目を上げた。
「シルク様が、お嬢様に会いたい方がいらしたとおっしゃってます」ユナが少し息を切らして言った。「歌劇場からのお客様だとか」
「歌劇場?」イリスは不思議そうに首を傾げた。「私に何の用?」
「さあ…」ユナは首を傾げた。「でも、とても
イリスは立ち上がった。彼女は歌劇場の人間を知らなかったが、何か興味を引かれるものを感じた。
「行きましょう」イリスはヴァルトに目配せした。「ヴァルト、一緒に」
応接室に通されると、そこには確かにピンク色の髪を持つ美しい女性が座っていた。二十代半ばくらいだろうか、優雅な身のこなしと華やかな衣装が目を引く。
「イリス=ノクターン嬢」女性は立ち上がり、優雅に
「はじめまして」イリスは丁寧に会釈を返した。「突然の訪問、何かご用件が?」
「実は」ローザはアーモンド形の目を輝かせた。「来週、歌劇場で特別公演があるのです。侯爵家の令嬢方をご招待しており、ぜひノクターン家のお嬢様にも来ていただきたくて」
イリスの心臓が高鳴った。歌劇場——シルヴィアが言っていた、母が彼女をよく連れて行った場所。幼すぎて記憶にないとはいえ、そこに行く機会を得られるなんて。
「それは…」イリスは言葉に詰まった。「父が不在で、決められないのですが」
「エドガー侯爵様には既にお手紙を送っておりました」ローザは微笑んだ。「多分、お出かけの前にお読みになっていないかもしれませんね。でも、貴族令嬢方をお招きしての公演ですから、きっとお許しいただけるでしょう」
イリスはチラリとシルクを見た。執事長は少し考え込むような表情をしていたが、最終的にうなずいた。
「侯爵様からの特別な禁止事項はありませんでしたので」シルクは静かに言った。「お嬢様のご判断にお任せします」
イリスの胸に期待が膨らんだ。これは外の世界に触れる絶好の機会だった。
「ぜひ伺いたいです」イリスは決意を込めて言った。
「素晴らしい!」ローザは手を叩いた。「では、来週火曜日、夕方六時の公演です。私どものキャリッジでお迎えに上がりますね」
「キャリッジ?」イリスは少し驚いた。
「ええ、他の令嬢方もお迎えします」ローザは説明した。「各家から順に、お迎えする予定なのです」
話し合いの後、ローザは優雅に退出した。イリスは、この予想外の出来事に興奮していた。初めての屋敷の外。初めての歌劇場。初めての…自由。
「お嬢様」ヴァルトが静かに近づいてきた。「少し気になることがあります」
「何?」イリスは彼を見上げた。
「その女性、香水の匂いが強すぎました」ヴァルトの琥珀色の瞳に警戒の色が浮かんでいた。「何かを隠そうとしているように感じました」
イリスは少し考えた。「歌劇場の人間なら、香水をつけるのは普通じゃない?」
「それだけではないんです」ヴァルトは言葉を選ぶように言った。「彼女の話し方に…
「虚飾?」
「はい。真実と嘘が混ざっている感じです」
イリスは首を傾げた。ヴァルトは獣人の鋭い感覚を持っている。彼の直感を無視すべきではないだろう。
「調べてみて」イリスは決断した。「ローザ・カンタービレという人物が本当に歌劇場の
「かしこまりました」ヴァルトは一礼した。「すぐに」
◆◆◆
昼下がり、イリスは図書室で王都の本を読んでいた。ユナがお茶を運んできた。
「お嬢様!」ユナが目を輝かせて言った。「歌劇場に行かれるんですって?いいなあ」
「ええ」イリスは微笑んだ。ユナの素直な反応は、いつも彼女の気持ちを明るくした。「あなたも行ったことある?」
「ないです!」ユナは勢いよく首を振った。「高すぎて、私たちみたいな下層民には無理です」
「そう…」イリスは少し考え込んだ。「もし可能なら、一緒に連れていきたいわ」
ユナの目が丸くなった。「え?本当ですか?」
「ええ」イリスは本を閉じた。「シルヴィアとヴァルトも一緒に」
「わぁ!ありがとうございます!」ユナは思わず跳ねた。「でも、いいんでしょうか?私なんかが…」
「どうして駄目なの?」イリスは静かに言った。「私の友達だもの」
「友達…」ユナの目に涙が浮かんだ。「お嬢様…」
その時、扉がノックされ、ヴァルトが入ってきた。その表情は厳しく引き締まっていた。
「お嬢様」彼は低い声で言った。「調査結果をご報告します」
「ユナ、少し席を外してもらえる?」イリスが言うと、ユナは大きくうなずいて部屋を出た。
「どうだった?」イリスは真剣な表情でヴァルトを見た。
「ローザ・カンタービレという名前の
イリスの表情が硬くなった。「つまり…」
「罠です」ヴァルトの目が鋭く光った。「恐らく誘拐目的と思われます」
「誘拐?」イリスは驚いて立ち上がった。「なぜ私を?」
「考えられる理由はいくつかあります」ヴァルトは冷静に言った。「ノクターン家の莫大な財産を狙った身代金目的。政敵による策略。または…」
「または?」
「お嬢様の持つ特別な価値を知る者の関与」
イリスは眉をひそめた。「特別な価値?」
ヴァルトは一瞬、言葉を選ぶように間を置いた。「お嬢様のような高貴なお生まれの方は、様々な意味で…価値があります」
イリスには、彼が言いたくないことがあるのを感じた。だが今は、それを追求する時ではなかった。
「シルヴィアとシルクに知らせて」イリスは決断した。「警備を強化してもらいましょう」
「もう話しました」ヴァルトが言った。「そして、私からお願いがあります」
「何?」
「来週火曜日、お嬢様の側を離れさせないでください」彼の声には、強い決意が込められていた。「どこへ行くにも、必ず私をお側に」
イリスはじっとヴァルトを見た。彼の眼には、真剣な光が宿っていた。彼女を守るという断固たる意志を感じた。
「わかったわ」イリスはうなずいた。「あなたを信頼している」
◆◆◆
そして火曜日がやってきた。
朝から屋敷全体が緊張感に包まれていた。シルクは門と庭の警備を倍増させ、シルヴィアはイリスの身の回りの安全を確認した。ヴァルトは一度もイリスの側を離れなかった。
「本当に来るでしょうか」午後になって、イリスは窓の外を見ながら言った。
「来るでしょう」ヴァルトは静かに答えた。「しかし、我々の警戒を知れば、計画を変更するかもしれません」
「どう変更するかしら」
「早めるか、遅らせるか」ヴァルトは言った。「または、別の手段を」
そして、彼の予想は当たった。
夕方四時頃、使用人の一人が慌てて報告に来た。
「お嬢様!キャリッジが来ました!予定より早く!」
イリスとヴァルトは顔を見合わせた。
「準備はいい?」イリスがヴァルトに問うと、彼は静かにうなずいた。
「片時も離れません」
イリスは深呼吸をした。「来客をお通しして」
しばらくして、ローザが現れた。昨日と同じピンクの髪、同じ華やかな衣装。微笑みも同じだったが、イリスはその目に何か冷たいものを感じた。
「イリス嬢」ローザは優雅に一礼した。「少々早いですが、お迎えに参りました」
「こんにちは、カンタービレさん」イリスは丁寧に挨拶を返した。「少々準備がありますので、少しお待ちいただけますか」
「もちろん」ローザは微笑んだ。「急かすつもりはありませんよ」
イリスはシルヴィアに目配せし、支度をする振りをして部屋を出た。廊下に出るとすぐに、ヴァルトが彼女の側に来た。
「香水の匂いの下に、金属と何か化学薬品の臭いがします」彼は小声で言った。「武器か、または
イリスの心臓が早鐘を打ち始めた。「複数犯?」
「少なくとも三人」ヴァルトはきっぱりと言った。「門の外にもう二人待機しています」
シルヴィアが静かに近づいてきた。「シルクが裏口から衛兵を呼びに行きました。約二十分かかります」
「二十分か…」イリスは考えた。「時間稼ぎをしなければ」
「お嬢様に危険は冒させません」ヴァルトの声が低くなった。「私が処理します」
「一人では無理よ」イリスは静かに言った。「協力する」
こうして、彼らは急いで対策を練った。
◆◆◆
応接室に戻ったイリスは、落ち着いた様子でローザに微笑みかけた。
「お待たせしました」彼女は優雅に言った。「お茶をいかがですか?」
「いいえ、結構です」ローザは少し焦っているようだった。「そろそろ出発したほうが」
「他の令嬢方は?」イリスは知らないふりをした。
「ええ…先に迎えに行きましたわ」ローザの微笑みに、わずかな
イリスはうなずいた。「では、行きましょうか」
応接室を出る時、イリスは故意に足を滑らせ、バランスを崩した。
「あっ!」
彼女の体が傾いだ瞬間、ローザが驚くべき速さで彼女を支えようと手を伸ばした。その動きは、優雅な
「大丈夫ですか?」ローザの声には焦りが混じっていた。
「ええ」イリスは微笑んだ。「ただの不注意です」
廊下に出ると、ヴァルトが静かに待っていた。イリスは心の中で「三」と数えた。計画通りだった。
「あら、執事さんまでついてくる必要はありませんわ」ローザが言った。「私がしっかりエスコートしますから」
「申し訳ありません」ヴァルトは冷静に言った。「お嬢様を一人にするわけにはまいりません」
「でも…」
「ヴァルト」イリスが言った。「私のマントを取ってきてくれる?寒くなりそうだから」
ヴァルトはうなずき、その場を離れた——見たところでは。実際には、彼は影に紛れて彼らの後をつけていた。
玄関に向かう途中、イリスは故意にペースを落とした。「カンタービレさん、どんな演目なのでしょう?」
「え?」ローザは一瞬、混乱した表情を見せた。「ああ、『月影の誓い』という新作です」
「楽しみです」イリスは微笑んだ。「母が私を連れて行ってくれたのを覚えていないのですが、歌劇場には特別な思い出があるんです」
「そう…ですか」ローザの笑顔に緊張が混じり始めた。「もうすぐ着きますから」
玄関に着くと、豪華な
「さあ、どうぞ」ローザが馬車のドアを開けた。
イリスが一歩踏み出したその時——
「お嬢様!」
シルヴィアの声が響いた。彼女は小走りで近づいてきた。
「大事なものをお忘れです」彼女は小さな包みを手渡した。
「ありがとう」イリスはそれを受け取った。「カンタービレさん、少々お待ちを」
ローザの表情が変わった。焦燥と怒りが見えた。「急ぎましょう。もう時間が」
「どうして急ぐの?」イリスは静かに言った。「歌劇場はまだ二時間も先でしょう?」
ローザの目が細くなった。一瞬の沈黙の後、彼女の態度が一変した。
「賢いじゃない、お嬢様」彼女の声が低く冷たくなった。「でも、もう遅いわ」
彼女が指を鳴らした瞬間、馬車から二人の男が飛び出してきた。黒いマスクをつけ、短剣を手にしている。
「おとなしく来るのね」ローザ——いや、偽ローザが言った。「でなければ、あなたのお仲間が傷つくわよ」
イリスの心臓が跳ねた。だが彼女は表情を変えなかった。
「あなたたちは何者?」彼女は冷静に尋ねた。「何のために私を?」
「質問は後」男の一人が近づいてきた。「さっさと乗りな」
シルヴィアがイリスの前に立ちはだかった。「お嬢様に触れさせません!」
「うるさい!」もう一人の男がシルヴィアに向かって短剣を振りかざした。
その瞬間——
影から一つの形が飛び出した。
「お嬢様に触れるな」
低い、獣のような
彼の動きは、人間離れしていた。まるで風のように男の間を通り抜け、シルヴィアの前に立った。その目は金色に輝き、爪は鋭く伸びていた。
「獣人か!」男の一人が叫んだ。「ここにいるとは聞いてない!」
「計画変更よ」偽ローザが冷たく言った。「嬢様を確保、他は始末して」
男たちが一斉にヴァルトに向かって飛びかかった。シルヴィアがイリスを引いて後ろに下がる。しかし、イリスは動かなかった。
「ヴァルト!」彼女は叫んだ。
ヴァルトの動きが、さらに速くなった。彼は二人の男の攻撃を軽々とかわし、一人を地面に叩きつけた。もう一人には、鋭い爪で武器を弾き飛ばした。
「化け物!」男が叫んだ。
偽ローザがドレスの中から何かを取り出した——小型の
「ヴァルト、気をつけて!」イリスの叫び声が響いた。
ヴァルトは銃に気づき、男の一人を盾にして偽ローザに迫った。銃が火を噴いたが、弾は男に当たった。
「くっ…」偽ローザは再び狙いを定めた。
その時、突然イリスが前に出た。
「止めなさい!」
全員の動きが止まった。イリスが偽ローザに向かって一歩、また一歩と近づいていく。
「お嬢様、危険です!」シルヴィアが叫んだ。
「撃てるものなら撃ちなさい」イリスは冷静に言った。「でも、それで私が無事に連れていかれると思う?」
偽ローザの手が震えた。「近づくな!」
「あなたたちの目的は、私を生きたまま連れ去ることでしょう?」イリスはさらに近づいた。「だったら、その銃で脅しても意味がないわ」
二人の間の緊張が高まる中、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。衛兵隊だ。
偽ローザの表情が狂気に染まった。「くそっ!計画が…」
彼女が銃をイリスに向けた瞬間、茶色い影が飛んできた。
「お嬢様!」
それはユナだった。彼女はイリスに飛びついて、地面に倒れ込んだ。銃声が響いた。
「ユナ!」イリスは叫んだ。
ユナの体から血が流れていない。弾は外れたのだ。
怒りに満ちたヴァルトの
「グォオオガガガアァァ!!」
ヴァルトの声は、もはや人間のものではなかった。彼の目は完全に獣のもので、爪と牙が剥き出しになっていた。彼は偽ローザの首に手をかけ、圧力をかけ始めた。
「ヴァルト、止めて!」イリスが叫んだ。「彼女の命まで取る必要はないわ!」
ヴァルトの体が固まった。彼は偽ローザを見下ろし、ゆっくりと手を緩めた。
「お嬢様が言うなら」
サイレンの音が近づき、門の外で馬の蹄の音が聞こえた。衛兵隊が到着したのだ。
イリスはユナを抱きしめ、彼女が無事であることを確かめた。「大丈夫?怪我はない?」
「はい…」ユナは震えながらも微笑んだ。「お嬢様を守れて、よかったです」
シルヴィアが二人に駆け寄った。「お二人とも、無事で…」
イリスはゆっくりと立ち上がり、ヴァルトの方を見た。彼はまだ獣の姿のままだった。爪と牙、野性的な目。彼女は何も恐れずに彼に近づいた。
「ヴァルト」彼女は静かに呼んだ。「もう大丈夫よ」
彼は震える手でイリスの頬に触れようとしたが、自分の爪を見て手を引っ込めた。「お嬢様…私は…」
「あなたは私を守ってくれた」イリスは微笑んだ。「ありがとう」
彼女は迷わず彼の手を取った。ヴァルトの目が驚きで見開かれた。
「あなたの言った通りね」イリスはそっと言った。「私は壊れていなかった」