「お嬢様、大丈夫ですか?」
誘拐未遂事件から二日後、朝のイリスの寝室。シルヴィアの声には、いつも以上の心配が滲んでいた。
イリスはベッドに腰掛けたまま、窓の外を見つめていた。彼女の白銀の髪が朝日を受けて輝いている。しかし、その表情には何か異変があった。
「ええ、大丈夫よ」イリスは答えたが、その声に力はなかった。
シルヴィアは彼女に近づき、そっと額に手を当てた。「熱はないようですが...」
「本当に大丈夫。ただ…」イリスは言葉を途切れさせた。
「ただ?」
「夢を見たの」イリスはポツリと言った。「変な夢」
シルヴィアは黙って聞き続けた。イリスが自分から心の内を語ることは、滅多になかった。
「光が私の周りを取り囲んで…」イリスは両手を見つめた。「そして、何かが私の中から…あふれ出そうとしていた」
「あふれ出す?」
「うまく説明できないわ」イリスは首を振った。「でも、その感覚は昨日から続いているの。何か…私の中に眠っていたものが、少しずつ目覚めていくような」
シルヴィアの表情が、一瞬だけ固まった。「お嬢様…」
「変な話よね」イリスは小さく笑った。「人形が感情を持ち始めたみたいで」
「あなたは人形ではありません」シルヴィアはきっぱりと言った。「あなたはいつだって、ちゃんと…」
彼女の言葉は、ドアのノックで遮られた。
「失礼します」
ヴァルトの低い声。誘拐未遂事件以来、彼は一段と警戒を強めていた。今朝も、いつもより早く現れたようだ。
「どうぞ」イリスが答えると、ヴァルトが静かに入ってきた。
彼は入室するとすぐに、イリスの様子を観察した。琥珀色の瞳が、彼女の顔から手、そして全身へと視線を走らせる。一瞬のことだったが、イリスはその視線を感じ取った。
「お嬢様、本日のスケジュールですが…」
「ヴァルト」イリスが彼の言葉を遮った。「私、変だと思う?」
ヴァルトの眉がわずかに動いた。「変、とは?」
「わからないの」イリスは静かに言った。「何か違う感じがするの…自分自身が」
ヴァルトとシルヴィアが顔を見合わせた。二人の間には、イリスには読み取れない何かが流れた。
「お嬢様」ヴァルトが慎重に言葉を選ぶように話した。「誘拐未遂のような出来事を経験すれば、感覚が変わることもあります。それは…自然なことです」
「そうじゃないの」イリスは首を振った。「体の中に…何か別のものがあるような感じ」
再び、ヴァルトとシルヴィアの間で視線が交わされた。今度はイリスもそれを見逃さなかった。
「二人とも何か知っているの?」彼女はまっすぐ二人を見た。「隠していることがあるなら、教えて」
「お嬢様」シルヴィアが深呼吸をした。「まだお話しする時ではないかもしれません。しかし…」
「いつになれば話してくれるの?」イリスの声にはわずかな怒りが混じった。「私の体のことよ。知る権利があるはずでしょう?」
部屋の空気が急に重くなった。そして、不思議なことが起きた。
イリスの周りの空気が、かすかに揺らめき始めたのだ。
「お嬢様!」ヴァルトが一歩前に出た。「落ち着いてください」
イリスは自分の感情が高ぶっていることに気づいた。怒り、混乱、そして恐怖。普段なら抑え込むはずのそれらの感情が、今は抑えられなかった。
「どうして…」彼女の声が震えた。「どうして私だけ何も知らされないの?」
窓ガラスがかすかに
「イリス」ヴァルトが初めて彼女の名前を呼んだ。それは人の前では決してしないはずのこと。「まずは深呼吸を」
彼の声が、不思議と彼女の心に届いた。イリスはゆっくりと息を吸い、吐いた。
少しずつ、部屋の異変は収まっていった。
「何が…起きたの?」イリスは自分の手を見つめた。「今のは…私?」
シルヴィアが意を決したように前に出た。「お嬢様、あなたには特別な力があります。それは…」
「異能ね」イリスが言葉を継いだ。
「…はい」シルヴィアは驚いたように目を見開いた。「どうして?」
「前から薄々感じていたわ」イリスは静かに言った。「父が私を閉じ込める理由がほかにあるはずだと。そして、あの誘拐犯たちが『特別な価値』と言っていたこと…」
ヴァルトが一歩近づいた。「お嬢様の洞察力は見事です」
「でも、どんな力なの?」イリスは自分の手をじっと見た。「さっきのこと?」
「感情に反応する力かもしれません」シルヴィアが慎重に言った。「あなたが感情を強く抱くと、周囲の物質に影響を与える…」
「だから父は感情を捨てろと…」イリスの瞳に理解の色が浮かんだ。「だから『人形』になれと」
「ノクターン家には、特別な
「母も?」イリスの声が高くなった。
「はい」シルヴィアの目に涙が浮かんだ。「彼女は特に強い力を持っていました。喜びを感じると、周りの花が咲き誇り、悲しむと雨が降ると言われていました」
イリスは黙って聞いていた。彼女の中の何かが急速に目覚めていくのを感じた。
「そして、あなたはお母様よりもさらに強い力を持っているのではと…侯爵様は恐れているのです」
「恐れている?」
「力があまりにも強すぎれば、制御できなくなる」ヴァルトが低い声で言った。「だから感情を封じ込め、力の覚醒を防いできたのでしょう」
イリスはベッドから立ち上がった。足元がおぼつかない。
「でも、もう遅いのね」彼女は震える声で言った。「私の中で、何かが目覚め始めている」
◆◆◆
昼食時、イリスは一口も食べられなかった。
「お嬢様、少しでも召し上がらないと」シルヴィアが心配そうに勧めた。
「食欲がないの」イリスは短く答えた。
彼女の頭の中は、朝の会話でいっぱいだった。自分には特別な力がある。それは感情に呼応する。だから父は彼女を「人形」にしようとした…感情を捨てさせるために。
「何か飲み物は?」ヴァルトが静かに提案した。「温かい紅茶を?」
イリスは小さくうなずいた。ヴァルトがさっと動き、すぐに紅茶を用意した。それを受け取ったイリスの指が、ヴァルトの手に触れた。
その瞬間、カップが微かに震えた。紅茶の表面に小さな波紋が広がる。
イリスは慌ててカップを置いた。「ごめんなさい…」
「大丈夫です」ヴァルトは落ち着いた声で言った。「ただの偶然です」
しかし、それが偶然でないことは二人とも分かっていた。イリスの力が、また少し漏れ出したのだ。
「ヴァルト」イリスは小声で尋ねた。「この力を…制御する方法はあるの?」
ヴァルトは少し考えてから答えた。「獣人の世界では、生まれつきの力を持つ者がいます。彼らは瞑想と訓練で制御を学びます」
「教えてくれる?」イリスの目に決意が浮かんだ。
「私にできることなら」ヴァルトは真剣な表情で言った。
「お嬢様、それは…」シルヴィアが心配そうに言いかけた。
「父には内緒よ」イリスはきっぱりと言った。「今の私には、この力を理解する必要があるわ。制御できなければ、いつ暴走するかわからない」
シルヴィアは反論できなかった。イリスの言う通りだった。
「では、午後の読書時間に」ヴァルトが提案した。「図書室なら人目につかず、静かに練習できます」
イリスはうなずいた。「お願い」
◆◆◆
図書室は、午後の陽光が差し込み、暖かな空気に包まれていた。イリスとヴァルトは、奥の小さなスペースに場所を取った。
「まず、リラックスすることから始めましょう」ヴァルトは静かに言った。「目を閉じて、深く息をしてください」
イリスは言われた通りにした。目を閉じ、ゆっくりと呼吸を整えていく。
「異能は、体の一部です」ヴァルトの声が、落ち着いた響きで彼女の耳に届いた。「腕や足と同じように、使い方を学べば自分の意志で動かせます」
「でも、どうやって?」イリスは目を閉じたまま尋ねた。
「まず、その力を感じてみてください」ヴァルトは言った。「あなたの中にある、普段とは違う感覚」
イリスは集中した。彼女の中に、確かに何かがあった。小さな温かさのようなそれは、胸の辺りでかすかに脈打っていた。
「感じる…」彼女は小さく言った。「温かくて、でも時々冷たくて…」
「その感覚に意識を向けてください」ヴァルトの声が彼女を導いた。「それがあなたの力です」
イリスは意識を内側に向けた。その感覚はますます明確になっていく。光のようなそれは、彼女の全身を巡っていた。
「次は、その力を少しだけ外に出してみましょう」ヴァルトが続けた。「手のひらに集中してください」
イリスは右手を前に出し、その温かな感覚を手のひらに集めようとした。最初は何も起こらなかったが、やがて…
「ヴァルト…見て」
彼女の手のひらの上に、かすかな光の
「見事です」ヴァルトの声に、珍しく感嘆の色が混じった。「才能がありますね」
イリスは驚きと喜びで目を見開いた。彼女の感情が高まるにつれ、光も強くなっていく。
「これが…私の力」
しかし、その喜びとともに、急に光が膨らみ始めた。紫色の靄が彼女の手から溢れ出し、周囲に広がっていく。
「あ…」イリスの表情が恐怖に変わった。「止まらない」
「落ち着いて」ヴァルトが彼女の肩に手を置いた。「恐れると、力は暴走します。ゆっくり呼吸を」
イリスは必死に呼吸を整えようとした。しかし、力は収まる気配がなかった。紫の光は部屋中に広がり、本が棚から落ち、窓ガラスが震え始めた。
「ヴァルト…どうしよう」イリスの声が震えた。「止められない」
「イリス」ヴァルトがまっすぐ彼女を見た。「私はここにいる。あなたを信じている」
その言葉が、彼女の心に響いた。イリスはゆっくりと目を閉じ、再び呼吸に集中した。
温かさを感じる…取り込む…解放する…
少しずつ、光は収まり始めた。紫の靄が彼女の体に戻っていく。
「できた…」イリスは息を切らしながら言った。
「見事でした」ヴァルトの目に、誇らしげな光が宿っていた。
イリスは疲れ切ったように椅子に崩れ落ちた。「でも、まだ完全には制御できないわ」
「それは時間がかかります」ヴァルトは彼女の横に膝をついた。「焦らないで」
「もし父が戻ってきて、この力に気づいたら…」イリスの目に恐怖が浮かんだ。
「隠し通さなければなりませんね」ヴァルトは真剣な表情で言った。「毎日少しずつ練習しましょう。私がついています」
イリスはヴァルトの金色の瞳を見つめた。「あなたがいてくれて良かった」
「私こそ、お側にいられて光栄です」
その瞬間、イリスの胸に温かい感情が広がった。それは感謝であり、信頼であり、そして…まだ名前のつけられない何か。
彼女の指先がほんのりと紫色に輝いた。今度は恐怖ではなく、穏やかな光だった。
◆◆◆
「おい、聞いたか?」
屋敷の門の外。二人の衛兵が小声で会話していた。
「何をだ?」
「あの事件の犯人たちがさ、全員
「そりゃあ怖いんだろうよ。雇い主が身元を知られたら命はないだろうしな」
「でもな、奴ら、拷問の最中にも『銀の姫』とか『目覚めの時』とか、訳のわからん言葉を呟いていたらしいぜ」
「銀の姫?まさかイリス嬢のことか?」
「さあな。でも、侯爵様が明日帰ってくるそうだ。何かあったら大変なことになるぞ」
「余計なことは考えるな。俺たちは与えられた任務をこなすだけだ」
二人の会話は夜風に溶けていった。
◆◆◆
夜、寝室でイリスは自分の手をじっと見つめていた。
「銀の姫…」彼女は小さく呟いた。
シルヴィアが会話を聞き、イリスに伝えたのだ。犯人たちが口にした謎の言葉。それは明らかに彼女を指していた。
「私の力を狙っていたのね」彼女は静かに言った。「でも、誰が?」
イリスは窓辺に立ち、夜空を見上げた。明日、父が戻ってくる。今日の出来事を隠せるだろうか。彼女の体の中の力を、父に気づかれずに済むだろうか。
「私は…もう人形ではないわ」彼女はきっぱりと呟いた。
彼女の指先が再び薄紫色に輝いた。今度は意図的に。イリスは少しだけ微笑んだ。