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Section3-3:ヴァルトの「獣」としての一面

父が屋敷に戻ってくる日、朝の空は不気味なほど赤かった。


イリスは窓辺に立ち、朱色あかいろに染まる空を見上げた。「血のような色ね」


「お嬢様、準備はよろしいですか?」シルヴィアが部屋に入ってきた。「侯爵様は正午頃に到着される予定です」


「ええ」イリスは振り返った。「父上に会わなければならないのね」


彼女の声には、かすかな緊張が滲んでいた。昨日発覚した彼女の力——異能の兆し。それを父から隠し通せるだろうか。


「大丈夫です」シルヴィアが彼女の肩に優しく手を置いた。「普段通りに振る舞えば」


イリスはうなずいたが、心の中では不安が渦巻いていた。「普段通り」とは、感情のない人形のように振る舞うこと。でも今の彼女には、もう難しかった。


朝食を終えたイリスは、庭に出ることにした。父が戻る前の、最後の自由な時間を味わうために。


「ヴァルトがどこにいるか知ってる?」イリスはシルヴィアに尋ねた。


「裏庭の練習場にいらっしゃいます」シルヴィアが答えた。「警備の衛兵たちに、何か教えているようでしたが…」


イリスは目を輝かせた。「見に行くわ」


「でも、お嬢様」シルヴィアが心配そうな声を上げる。「あそこは男たちの場所です。お嬢様が行くには…」


「私が行くと決めたの」イリスはきっぱりと言った。


シルヴィアは小さく溜息をついた。昨日から、イリスの態度が明らかに変わっていた。より芯があり、自分の意志をはっきりと示すようになっていた。それは喜ばしいことでもあり、危険なことでもあった。


「では、私もお供します」


◆◆◆


裏庭の練習場は、屋敷の東側、厩舎と倉庫の間にあった。普段、イリスが立ち入ることのない場所だ。


二人が近づくと、男たちの声と、木の棒がぶつかる音が聞こえてきた。


練習場に足を踏み入れた瞬間、イリスは息を呑んだ。


中央の円陣えんじんで、ヴァルトが五人の衛兵を相手に立ち回っていた。彼は上着を脱ぎ、シャツ一枚になっている。その動きは人間離れしていた——まるで風のように速く、影のように滑らか。


「なんて…」イリスは思わず呟いた。


五人の衛兵たちは木刀を持ち、ヴァルトを取り囲んでいた。彼らが一斉に攻め込むも、ヴァルトはそれをすべて躱し、あるいは払い、一人また一人と崩していく。


「すごい」シルヴィアも感嘆の声を上げた。「あれほどの技量があるとは」


イリスは言葉もなく見入っていた。これまで彼女の前で見せていた姿とは、まるで別人のようだった。ヴァルトの動きには獣の野性があり、そして優美さがあった。


やがて、五人全員が地面に倒れた。ヴァルトは一人も傷つけてはいなかったが、彼らは立ち上がる気力も残っていないようだった。


「まだまだだな」ヴァルトが静かに言った。「実戦では、こんな甘さは命取りだ」


「くそっ…」若い衛兵の一人がうめいた。「お前は人間じゃねえよ…」


「その通りだ」ヴァルトの声に冷たさが混じった。「私は獣人だ。だが、それが何か?」


「いや、その…すまない」衛兵は恐縮して頭を下げた。


ヴァルトは何も言わず、汗を拭おうと振り返った。そして、そこに立つイリスと目が合った。


「お嬢様!」彼は驚いて立ち止まった。


イリスを見つけた衛兵たちが慌てて立ち上がり、頭を下げる。「お嬢様、こんなところに…」


「続けて」イリスは落ち着いた声で言った。「邪魔するつもりはないわ」


ヴァルトは一瞬躊躇したが、すぐに執事としての態度に戻った。「いいえ、もう終わりです。皆、今日はここまで」


衛兵たちは礼をして退場し、練習場にはイリス、シルヴィア、そしてヴァルトだけが残った。


「見事だったわ」イリスは素直に言った。「そんな風に戦えるなんて知らなかった」


ヴァルトは少し困ったように髪をかき上げた。汗で濡れた前髪が、彼の引き締まった顔を一層野性的に見せていた。


「お見苦しいところをお見せしました」彼は静かに言った。「獣のような姿を」


「獣じゃないわ」イリスは首を振った。「美しかった」


その言葉に、ヴァルトの目が見開かれた。イリス自身も、自分の素直さに驚いていた。


「お嬢様…」


「どうして隠していたの?」イリスは一歩近づいた。「こんなに凄い能力があるのに」


ヴァルトは視線を落とした。「私の力は…危険だと思われています。特に高貴な方々の前では、抑えるよう言われてきました」


「抑える?」イリスは首を傾げた。「でも、あなたの力こそ、あなた自身じゃない?」


彼はゆっくりと顔を上げた。彼の琥珀色の瞳に、複雑な感情が浮かんでいた。


「私たち、似ているのね」イリスは小さく微笑んだ。「二人とも、本来の姿を隠して生きてきた」


シルヴィアが少し離れた場所に下がり、二人に空間を与えた。


「その力…どうやって身につけたの?」イリスが尋ねた。


ヴァルトは少し迷った後、話し始めた。「賤民区せんみんくで、生き抜くために必要だったんです。弱い者は、すぐに餌食になる」


「餓えた獣たちの世界だったわけね」イリスの声には理解があった。


「はい。しかし、私には師がいました」ヴァルトの目が遠くを見た。「アレン老人…彼もまた獣人で、かつては王宮の護衛だったそうです」


「王宮の?」イリスは驚いた。「獣人が?」


「昔は…もう少し違っていたようです」ヴァルトは静かに言った。「彼から戦いを、生き方を学びました」


「その人は…」


「亡くなりました」ヴァルトの声が少し暗くなった。「私を護ろうとして」


イリスは黙った。ヴァルトの過去に、深い傷があることを感じた。


「ごめんなさい」彼女は静かに言った。「辛い記憶を思い出させて」


「いいえ」ヴァルトは首を振った。「お嬢様に知ってもらえて、むしろ…嬉しいです」


二人の間に静かな沈黙が流れた。それは重いものではなく、理解と共感に満ちたものだった。


「ヴァルト」イリスが再び口を開いた。「私にも、あなたの技を少し教えてもらえない?」


「え?」ヴァルトは驚いて目を見開いた。


「自分を守れるようになりたいの」イリスはきっぱりと言った。「誰かに守られるだけじゃなく」


シルヴィアが慌てて駆け寄った。「お嬢様!それは…」


「嫌?」イリスはヴァルトをまっすぐ見た。


ヴァルトは困惑した表情を浮かべていたが、やがて静かにうなずいた。「わかりました。ですが、とても基本的なことだけです」


「それでいいわ」イリスは満足げに微笑んだ。


◆◆◆


正午を告げる鐘が鳴り、エドガー侯爵の馬車が屋敷の門をくぐった。


イリスは玄関ホールで、シルヴィア、ヴァルト、そして管理人のシルクと共に父の帰還を待っていた。彼女は白いドレスに身を包み、感情を隠した仮面のような表情を作った。


「父上」エドガーが入ってくると、イリスは優雅にお辞儀をした。「お帰りなさいませ」


「イリス」エドガーの鋭い目が彼女を観察した。「変わりはないか?」


「はい」イリスは短く答えた。以前の自分のように。


エドガーは執事長のシルクに向き直った。「留守中の報告を」


「はい」シルクが一歩前に出た。「実は、事件がございまして…」


シルクが誘拐未遂事件について説明する間、エドガーの表情は徐々に強ばっていった。


「なぜすぐに報告しなかった!」彼の怒声がホールに響いた。


「緊急性があると判断し、まずは対処いたしました」シルクは冷静に答えた。「また、お嬢様は無事でございました」


エドガーはイリスを見た。「お前は無事だったのか?」


「はい、父上」イリスは静かに答えた。「ヴァルトのおかげで」


エドガーの視線がヴァルトに向いた。「ほう…あの獣が?」


「獣ではありません」


言葉が口から出てしまったのは、自分でも驚きだった。イリスは思わず口をついて言ってしまったのだ。


エドガーの目が危険な光を放った。「何と言った?」


「申し訳ありません」イリスは急いで頭を下げた。「ただ、ヴァルトは私を救ってくれました。感謝しているだけです」


エドガーは長い間、彼女を観察していた。彼の鋭い目は、彼女の中の変化を探っているようだった。


「お前は変わった」彼はついに言った。「以前のお前なら、そんな感情的な言葉は決して口にしなかった」


イリスの心臓が跳ねた。発覚してしまったのか?彼女はできる限り平静を装った。


「誘拐事件のショックかもしれません」シルヴィアが助け舟を出した。「お嬢様は強い恐怖を経験されました」


エドガーはシルヴィアを一瞥してから、再びイリスに目を戻した。「部屋で休め。後で話がある」


「はい、父上」イリスは小さくお辞儀をして退出した。


◆◆◆


イリスの部屋。彼女は窓際に立ち、庭を見下ろしていた。


「大丈夫だったかしら…」彼女は小さく呟いた。


ドアがノックされ、ヴァルトが入ってきた。「お嬢様、大丈夫ですか?」


「ヴァルト」イリスは振り返った。「父上、怒っていたわ」


「侯爵様は…心配されていたのでしょう」ヴァルトは慎重に言った。


イリスは小さく首を振った。「心配じゃないわ。怒りよ」


彼女は窓に近づき、外を見た。庭では、父が何人かの男と話していた。見たことのない黒い服の男たちだった。


「あの人たち、誰?」イリスが尋ねた。


ヴァルトが窓際に来て、外を見た。彼の目が鋭くなった。「魔法監視局の者たちです」


「魔法監視局?」


「異能者を探し、監視、場合によっては拘束こうそくする組織です」ヴァルトの声が冷たくなった。「獣人たちにとっては、恐るべき存在」


イリスの背筋に冷たいものが走った。「なぜ父が彼らと?」


「わかりません」ヴァルトは緊張した様子で言った。「ですが、良くない予感がします」


イリスは彼の目を見た。「私の力のこと…父は知っていると思う?」


「可能性はあります」ヴァルトはまっすぐ彼女を見返した。「侯爵様は、あなたの力を封じ込めるために、感情を抑えるよう育ててきました。今、その変化に気づかれたのかもしれません」


「どうすればいい?」イリスの声が震えた。


ヴァルトは答える前に、部屋の扉が勢いよく開いた。エドガー侯爵が、黒服の男二人を伴って入ってきた。


「イリス」エドガーの声は冷たかった。「この者たちの言うことを聞きなさい」


「何のことですか、父上?」イリスは平静を装った。


「検査だ」黒服の一人が前に出た。「異能の兆候がないかを調べます」


イリスの心臓が早鐘を打った。彼女は思わずヴァルトの方を見た。彼の姿勢が、わずかに緊張しているのがわかった。


「検査?」イリスは声を落ち着かせようと努めた。「私に異能があるとでも?」


「念のためです」黒服の男は感情のない声で言った。「お手を、嬢様」


男が彼女に近づいてきた。その手には小さな水晶のような器具が握られていた。それが彼女の肌に触れれば、昨日目覚めたばかりの力が露見してしまうのではないか…。


イリスの体が緊張で固まった。その瞬間、部屋の空気がわずかに揺らめいた。


「お嬢様」ヴァルトが一歩前に出た。「少し落ち着いて」


彼の声が、彼女の耳に直接届いたようだった。イリスは深呼吸をした。一、二、三…


「そこの獣人」エドガーが冷たく言った。「下がれ」


ヴァルトは一歩も動かなかった。「申し訳ありませんが、お嬢様を守るのが私の役目です」


「何だと?」エドガーの目が危険な光を放った。


「イリス嬢の体調が優れません」ヴァルトは冷静に言った。「今日は検査を延期されてはいかがでしょうか」


黒服の男たちが顔を見合わせた。「侯爵様、確かに嬢様は少し青ざめておられます」


エドガーはイリスを見た。彼女は意図的に弱々しい表情を作った。「すみません、父上…昨日から少し具合が…」


長い沈黙の後、エドガーはうなずいた。「わかった。検査は明日にしよう」


黒服の男たちが下がると、エドガーはヴァルトを鋭く見た。「獣よ、覚えておけ。お前の立場をわきまえろ」


「はい、侯爵様」ヴァルトは頭を下げたが、その目には挑戦的な光が宿っていた。


エドガーは最後にイリスを見て、部屋を出ていった。


扉が閉まると、イリスは震える足でベッドに腰掛けた。「ありがとう、ヴァルト」


「大丈夫ですか?」彼は彼女の側に膝をついた。


「ええ、でも…」イリスは手を見た。指先がわずかに紫色に光っている。「時間の問題ね」


「今夜、ここを出ましょう」ヴァルトが突然言った。


「え?」イリスは驚いて顔を上げた。


「魔法監視局が関わっている以上、危険です」ヴァルトの目には決意が光っていた。「彼らはあなたの力を封じるか、または…」


「または?」


「利用しようとするでしょう」ヴァルトはきっぱりと言った。「どちらにしても、あなたの自由は奪われます」


イリスは窓の外を見た。「でも、どこへ行けばいいの?」


「先日、お嬢様が知りたがっていた王都です」ヴァルトは言った。「まずはそこから。そして、私たちのような者たちの場所へ」


「私たちのような?」


「力を持つ者たち」ヴァルトの瞳が彼女をまっすぐ見つめた。「あなたは一人じゃありません」


イリスの胸に温かいものが広がった。「ヴァルト…ありがとう」


彼は彼女の手を取った。その瞬間、二人の指先から小さな光が漏れ出た。紫とわずかに金色が混じる不思議な光だった。


「これは…」イリスは驚いて目を見開いた。


「異能の共鳴です」ヴァルトは静かに言った。「私もわずかに力を持っています。だから、あなたの力に反応するのです」


イリスはその光を見つめた。ヴァルトと彼女を結ぶ目に見える絆のようだった。


「準備をします」ヴァルトは立ち上がった。「夜になったら、また来ます」


彼が部屋を出た後、イリスはまだ温かさの残る自分の手をじっと見つめていた。


心の中で、決意が固まっていく。これまでの人形のような生活から脱し、自分の力と共に生きるために——。そして、それを可能にしてくれるのは、この「獣」と呼ばれる男なのだと。


窓の外の空は、夕日に染まり始めていた。これから始まる新しい人生の予感に、イリスの心は静かに高鳴っていた。


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