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Act of Intimacy-3. 壊れた静寂

誘拐未遂事件から一週間後のノクターン侯爵邸。深夜の闇が屋敷を包み込み、風の音だけが静けさを破っていた。イリス・ノクターンの私室は、銀の燭台の温かな光に照らされている。生まれて初めて望まぬ者に体を触れられる恐怖を知ったイリスと、その身を賭して彼女を守り抜いたヴァルト・グレイハウンドにとって、この夜は確かに何かが変わる時だった。


「動かないで」


イリスの声は、いつもの冷たさを失っていた。白銀の髪が肩に流れ落ち、淡いラベンダー色の瞳には珍しい感情の揺らぎが見える。大理石のように白い肌を持つ彼女は、薄いシルクのナイトドレスに身を包み、ベッドの端に座っていた。その細い指には、血に染まった包帯が握られている。


「このくらいの傷、問題ありません」


ヴァルトは片膝をついて座り、琥珀色の瞳で彼女を見上げていた。執事服の上着は脱ぎ、白いシャツは袖が巻き上げられ、右腕には誘拐犯との闘いで負った深い傷が走っていた。筋肉質の腕に付いた血は、彼の野性を際立たせていた。


「私のせいで...」


イリスの言葉は途切れた。「私が誘拐されそうになったせいで、あなたはこんな傷を」


彼女の指が震えていた。感情を表に出してはいけないと教えられてきた令嬢の心の中で、罪悪感と共に何かが揺れ動いていた。


「お嬢様を守るのは、私の務めです」


ヴァルトの声は低く、しかし優しかった。彼の呼吸は深く、イリスの近さに反応しているようだった。「それに、獣人は人間より治りが早い。心配には及びません」


イリスはアルコールを染み込ませた布を取り上げた。彼女は躊躇いながらも、ヴァルトの腕に触れた。初めて自分から他者に触れる感覚。彼の肌は予想以上に熱く、筋肉の硬さが指先に伝わってきた。


「うっ...」


アルコールが傷に触れた瞬間、ヴァルトの体が強張った。彼の喉から低い唸り声が漏れる。それは痛みによるものだけではなかった。


「ごめんなさい...痛かった?」


イリスの顔が近づいた。彼女の息が彼の肌を撫でる。ヴァルトは自分の体が反応するのを感じ、必死に理性を保とうとしていた。主従の境界線を越えてはならない—その掟が、彼の中で崩れかけていた。


「大丈夫です...続けてください」


彼の声は普段より荒く、獣の面影を感じさせた。イリスは慎重に傷を拭い、薬草の軟膏を塗り始めた。彼女の指がヴァルトの肌を這うたび、二人の呼吸が少しずつ乱れていく。


「あなたの血は...熱いのね」


イリスの言葉に、ヴァルトの鼓動が加速した。彼の目が獣人特有の鋭さを帯び始める。薬草の香りと、イリスの甘い体臭が混ざり合い、彼の感覚を刺激していた。


「獣の血だから...です」


言葉とは裏腹に、ヴァルトの視線はイリスの唇を捉えていた。彼女は何も言わず、包帯を巻き始めた。細い指が彼の筋肉を撫で、時に爪が軽く肌を引っかく。その度に、ヴァルトの体が微かに震えた。


「きつくないかしら」


イリスの声は囁きのようだった。彼女自身も、この異様な緊張感に呑まれつつあった。感情を抑え込んで育った彼女の中で、名前のない感覚が蠢いている。


「ちょうど、いいです...」


ヴァルトの言葉が途切れた。イリスの指が誤って彼の手の甲に触れたのだ。その一瞬の接触に、二人の視線がぶつかり合う。沈黙。しかし、その静寂は二人の荒い息遣いで満たされていた。


「獣人って...いつも体がこんなに熱いの?」


イリスの問いには、好奇心以上のものが含まれていた。彼女の指がヴァルトの手の上に留まったまま。


「いいえ...」ヴァルトは喉を鳴らした。「お嬢様が近くにいるときだけです」


告白にも似た言葉に、イリスの頬が薔薇色に染まった。彼女は初めて自分の心臓の音を意識した。早く、強く、そして切なく。


「ヴァルト...」


彼女の呼びかけに、ヴァルトの理性の糸が一本切れた。彼の左手がゆっくりとイリスの頬に伸び、その冷たさを感じた。イリスは身を引くどころか、その手に頬を寄せた。


「お嬢様...これは」


「イリス」彼女は彼を遮った。「今だけ...イリスと呼んで」


彼女の言葉に、ヴァルトの瞳孔が開いた。獣の本能と人の理性の狭間で、彼は葛藤していた。主を守るべき執事が、主を求めるという矛盾。しかし、彼の本能は既に彼女を「守るべき存在」から「求めるべき存在」へと変えていた。


「イリス...様」彼の唇から初めて、彼女の名前だけが呼ばれた。


その瞬間、二人の間に張り詰めていた糸が切れた。ヴァルトがゆっくりと立ち上がり、イリスを見下ろす。彼の手が彼女の髪に触れ、首筋を撫でる。イリスの体が震えたが、それは恐怖ではなく、期待だった。


彼の顔が近づいてくる。イリスは目を閉じた。生まれて初めて味わう「触れられる悦び」を受け入れようとしていた。二人の唇の距離は、指一本分になった。


「イリス嬢、お休みになられましたか?」


廊下から女官長シルヴィアの声が聞こえた。二人は我に返り、すぐに距離を取った。


「は、はい!もう休みます」イリスの声は普段より高かった。


ヴァルトは急いで執事服の上着を拾い、着た。彼の呼吸はまだ整っておらず、獣の目が残っていた。「失礼します、お嬢様」


去り際、彼は一瞬だけ振り返った。イリスもまた、彼を見つめていた。二人の間に生まれた「何か」は、まだ名前がなかった。しかし、それがどちらの心も動かし始めたことは確かだった。


イリスはそっと自分の唇に触れた。何も起こらなかったにもかかわらず、彼女の体は火のように熱かった。箱の中の人形が、少しずつ人間らしさを取り戻し始めていた。


静寂は完全に壊れていた。そして、新たな物語が紡がれ始めていた。


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