ノクターン侯爵邸の西棟、厚手のカーテンに覆われた窓からは、星明かりがかすかに漏れていた。秋深まる夜、薔薇の香りが漂う寝室で、イリスは硬く結われた髪を解き始めていた。成人の儀を終え、政略結婚の話が具体的になってきたこの時期——彼女の心は今宵も冷たく凍えていた。
銀色の髪が淡いラベンダー色の瞳を覆い隠すように流れ落ちる。イリスの白い指が、滑らかな髪を梳かしていく動作は、まるで人形を扱うかのように機械的だった。彼女の着ている寝間着は、純白のシルクに薄い金の刺繍が施された上品なもので、その袖は長く、ひらひらとしていた。
「失礼します」
三度のノックの後、低い声と共に扉が開く。
そこに佇むのは、高身長で筋肉質な体格の獣人男性だった。|漆黒
「お嬢様、就寝前のお茶をお持ちしました」
「ヴァルト…」イリスは振り向きもせず、鏡越しに彼を見た。「今日は|紫蘇
「はい。お嬢様の寝つきを良くするために、シルヴィア様が特別に調合されたものです」
ヴァルトは静かに部屋に入り、銀のトレイを窓際の小さなテーブルに置いた。彼の動きには無駄がなく、それでいて優雅さが宿っていた。
「いつもこの時間に来るのね。他の執事や侍女たちは決して入ってこないのに」イリスの声は感情を感じさせない平坦なものだった。
「失礼ながら、他の者たちは『薔薇の籠』の決まりを守っているだけです。お嬢様に触れることは許されていませんから」
ヴァルトは一歩下がり、姿勢を正した。彼の視線はイリスの顔から決して離れない。
「そう…『令嬢閉門制度』ね。父上の言う『完璧な貴族の娘』を形作るための、この屋敷の不文律」
イリスはゆっくりと立ち上がり、窓際のテーブルへと向かった。月光に照らされた彼女の肌は、まるで上質な白磁器のように滑らかで透き通っていた。
「ヴァルト、あなたは知っているの? ノクターン家の令嬢が守るべき三つの|鉄則
「はい。シルヴィア様から伺いました」彼は真っ直ぐに答えた。「第一に、男性使用人との接触禁止。第二に、十五歳の社交界デビューまでの外出禁止。第三に、感情表現の抑制…」
「ふふ…よく覚えているわね」イリスは小さく笑ったが、その表情には何の温かみもなかった。「でも、あなたはその鉄則を破っているわ。私の髪に触れたじゃない」
「おそらく、獣人は人間扱いされてないからかと」
「そう」
「執事というのは、単に給仕をするだけの存在ではありません。貴族の
「貴族の秘密を守る者」
イリスが静かに言葉を継いだ。「父から聞いたことがあるわ」
二人の間に沈黙が落ちた。その静寂は重く、しかし不快なものではなかった。
「ねえ、ヴァルト」
イリスが再び口を開いた。「ノクターン家の令嬢としての
ヴァルトは少し驚いた表情を見せた。
「それはシルヴィア女史の方が…」
「シルヴィアは教えてくれないわ。『ご本人にはお教えできません』だって」
イリスの声音には珍しく苛立ちが混じっていた。
「私は…ノクターン家の令嬢として何をすべきで、何をしてはいけないのか。父は私に何を期待しているの?」
ヴァルトは少し考え、それから静かに答えた。
「ノクターン家の令嬢は、完璧な
「内面…?」
「はい。特にあなた様の場合は、感情を表に出さないことが重視されてきたように見受けられます」
イリスの表情が僅かに曇った。
「感情を出さない人形…それが父の望みなのね」
「しかし」
ヴァルトは一瞬躊躇したが、続けた。
「私が見る限り、それはあなた様を守るための
イリスは驚いて目を見開いた。
「どういう意味?」
「ノクターン侯爵家は王国内でも古い
ヴァルトは窓際へと歩み寄り、月明かりに照らされた庭園を見た。
「あなた様が感情を表に出さない
「…それは優しい
イリスは皮肉っぽく言ったが、その声には不思議な温かさが混じっていた。
「でも、ヴァルト。もしそれが本当なら、私はその鎧を脱ぎ捨てる時が来たと思うの」
「お嬢様…」
「私は人形じゃない。感情がないわけじゃない」
彼女はゆっくりと立ち上がり、ヴァルトに近づいた。二人の間には、まだ一定の距離があった。
「ヴァルト、あなたは私をどう思う?私は本当に完璧な令嬢?それとも…」
ヴァルトは一瞬だけ言葉に詰まった。彼の金色の瞳が、何かを
「あなた様は…完璧ではありません」
イリスの目が僅かに見開かれた。
「しかし」
ヴァルトは続けた。
「完璧でないからこそ、人間として美しい」
彼の言葉は、部屋の静寂の中に響き渡った。イリスは驚いて彼を見つめたが、すぐに表情を平静に戻した。それでも、彼女の頬が僅かに紅潮していることをヴァルトは見逃さなかった。
「随分と
イリスは少し顔を背け、月明かりに照らされた窓辺へと戻った。
「明日から礼儀作法の練習を始めましょう」
ヴァルトは一礼した。
「何の練習?」
「社交界デビューに向けた準備です。舞踏、会話術、食事のマナー…」
「それはシルヴィアの仕事じゃないの?」
イリスが振り返り、首を傾げた。その仕草は彼女自身が気づいていない
「シルヴィア女史に基本を教わりましたので、私でも務まるかと」
ヴァルトは淡々と言ったが、その瞳は妙に真剣だった。
「それに…男性との
イリスは一瞬だけ動きを止めた。それから小さくため息をついた。
「わかったわ。明日からよろしく頼むわ、ヴァルト」
「はい、お嬢様」
ヴァルトは深々と一礼した。彼が顔を上げた時、その顔には普段見せない柔らかな表情が浮かんでいた。
「それでは、お休みなさい」
彼は静かに部屋を出ようとした。
「ヴァルト」
彼が扉に手をかけた時、イリスの声が彼を呼び止めた。
「…ありがとう」
その言葉は、風のように小さかった。ヴァルトは振り返らず、僅かに頷いただけだった。
「お役に立てて光栄です」
扉が閉まり、部屋にはイリスだけが残された。彼女は月明かりの中で、初めて小さな微笑みを浮かべていた。その表情は、人形のそれではなく、確かに生きた少女のものだった。
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翌朝、ヴァルトは時間通りにイリスの部屋を訪れた。
「失礼します」
彼がノックをして入室すると、イリスはすでに起きて窓際に立っていた。昨夜と同じ場所だ。彼女は振り返り、普段通りの無表情でヴァルトを見た。
「おはよう、ヴァルト」
「おはようございます、お嬢様」
ヴァルトは銀のトレイを持っていた。その上には小さな紅茶のポットと、バラの花が一輪。
「今日のお茶はアールグレイです。レモンの香りを加えました」
彼はテーブルにトレイを置き、手際よく紅茶を注いだ。その動作は昨日までより
「昨晩は…」
イリスが言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「はい?」
「いいえ、何でもないわ」
彼女はカップを受け取り、一口啜った。
「美味しいわ」
「光栄です」
ヴァルトは頭を下げた。
「今日からの礼儀作法の練習ですが」
彼は話題を変えた。
「まずは基本的な立ち居振る舞いから始めましょう。社交界では、あなた様の一挙手一投足が注目されます」
イリスは紅茶を置き、ヴァルトをまっすぐに見つめた。
「なぜあなたがそこまで気にかけるの?単なる執事の仕事以上のことをしているわ」
彼女の質問は鋭かったが、敵意はなかった。純粋な好奇心だった。
ヴァルトは一瞬考え、それから正直に答えた。
「私は…あなた様に借りがあります」
「借り?」
「私を選んでくださったこと。それだけで十分な理由です」
イリスは彼の金色の瞳をじっと見つめた。そこに嘘はなかった。
「わかったわ」
彼女はようやく言った。
「でも約束して。私を人形のように扱わないで。私は…感情を持っている」
ヴァルトの表情が柔らかくなった。
「もちろんです、お嬢様。あなた様は人形ではなく、血の通った人間です」
イリスの顔に安堵の色が浮かんだ。それは彼女自身が気づかないほどの小さな変化だったが、ヴァルトの鋭い目は見逃さなかった。
「では、始めましょうか」
ヴァルトが言うと、イリスは頷いた。
「どうぞ、師匠」
彼女が冗談めかして言ったのを聞いて、ヴァルトの唇が微かに上がった。笑顔とは言えないまでも、確かに彼の表情に変化があった。
こうして、人形姫と獣の執事の不思議な日々が始まった。それは二人が知らない間に、互いの
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執事の心得:ヴァルトのメモ
1. 主人に対する
- 命令には無条件に従うこと
- 主人の利益を最優先すること
- 秘密は墓場まで持っていくこと
2.
- 常に背筋を伸ばし、顎を引くこと
- 視線は常に前方か主人に向けること
- 足音を立てず、存在感を出さずに動くこと
3. 完璧な
- 主人の好みを把握し先回りすること
- 料理の温度、飲み物の濃さを確認すること
- 給仕は左側から、下げるは右側からが基本
4. 主従の
- 主人との距離は常に三歩以上を保つこと
- 目線は直接合わせず、やや下方を見ること
- 感情は表に出さないこと
5. **追記:イリス様に限り**
- 彼女は人形ではない
- 感情を持つことを恐れさせないこと
- 時には規則よりも彼女の心を優先すること
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令嬢の心得:ノクターン家の不文律
1. 感情の
- 喜怒哀楽は最小限に留めること
- 特に公の場では完璧な無表情を保つこと
- 笑顔は社交辞令としてのみ許される
2. 言葉遣いと礼儀
- 常に丁寧語で話すこと
- 声のトーンは一定に保つこと
- 質問は最小限に、返答は簡潔に
3. 立ち居振る舞い
- 背筋は常に伸ばし、肩の力は抜くこと
- 歩く際は床を滑るように、音を立てないこと
- 手は常に前で組むか、脇に添えること
4. 身だしなみ
- 服装は常にノクターン家の格式に合わせること
- 髪は乱れなく、装飾は最小限に
- 香水は控えめに、純白や淡色を基調に
5. 交際
- 男性との接触は一切禁止
- 会話は公の場でのみ許可される
- 婚約者以外との親密な関係は絶対に禁止
**イリスの密かな追記:**
これらの規則は、いつか破られるために存在するのかもしれない。