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Side Talk:王都リュミエール散策録†薔薇と魔法と社交界

春の陽光が石畳を優しく照らす午後、王都リュミエールの中心部は華やかな活気に満ちていた。イリスの社交界デビューから一月後のこの日、彼女は特別な許可を得て、執事ヴァルトと共に初めて王都の散策に出ていた。白銀の髪を上品に結い上げ、淡い青を基調とした長袖のドレスに身を包んだイリスは、まるで水彩画から抜け出してきたかのように美しく、そして儚げだった。


ラ・ルミエール大噴水広場に立ち、ヴァルトはイリスの傍らで警戒を怠らない。彼の漆黒に近い灰色の髪は朝の光を受けて微かに輝き、金色の瞳は周囲の人々を素早く見渡していた。黒のタキシード風執事服に身を包み、銀の留め具は胸元で静かに光っている。


巨大な噴水から絶え間なく舞い上がる水しぶきは、魔法の光を浴びて七色に輝いていた。


「これが王都の中心…」イリスは小さくつぶやいた。「ノクターン家の窓から見えていた景色とは、まるで違う世界ね」


「お嬢様、こちらに注目してください」ヴァルトは噴水の向こう側を指差した。「あれが王立魔法理論院、|フェザリア塔《フェザリアとう》です」


視線の先には、白亜の巨大な塔が青空に向かって伸びていた。その頂には水晶のような球体が掲げられ、太陽の光を集めて虹色に輝いている。


「魔法理論を研究する場所ね」イリスの声には珍しく興味が滲んでいた。「私たち貴族は基本的な魔法理論を学ぶけれど、実践は禁じられているわ」


「はい。王国では魔法の実践は限られた者にのみ許可されています」ヴァルトは周囲を見回しながら答えた。「異能を持つ者は『呪われし者』とされ…」


彼は言葉を切った。それは彼自身の境遇を思い起こさせる話題だったからだ。


イリスはそっと彼の表情を窺った。「この王国の矛盾ね。魔法を研究する一方で、生まれながらの魔法使いは排除する」


二人が歩を進めると、石畳の道は徐々に上り坂となり、より上品な建物が立ち並ぶ区画へと続いていた。ヴァルトはイリスの前に立ち、説明を始めた。


「ここからが貴族街です。リュシアン王国の社交階級は、血筋と領地所有によって厳格に定められています」


イリスは頷いた。「王族、公爵家、侯爵家、伯爵家、子爵家、男爵家…そして一般貴族という序列ね」


「正確には、その上に『異能を持つ王』の時代があったと言われています」ヴァルトは声を落として言った。「しかし、その歴史は公には語られません」


彼らは大通りから脇道に入り、薔薇の香りが漂うエレガントな通りに出た。「ここがグラン=サロン通り。貴族専用のショッピング街です」


通りの両側には、宝飾品店「ル・シエル」や高級帽子店「マルシェット」などの優雅な店が並んでいた。窓ガラスには金の装飾が施され、入口には制服を着た従業員が立っている。


「あら…」イリスは足を止め、小さな店の前で立ち止まった。


「薔薇の書房」と書かれた古風な看板を掲げた書店。窓からは、革装丁の本が幾重にも並んでいるのが見えた。


「こちらは…?」ヴァルトが尋ねる。


「詩と童話を扱う書店よ」イリスの声には珍しい感情が滲んでいた。「子供の頃、母が密かに連れてきてくれたの…一度だけ」


ヴァルトは彼女の表情の変化に気づいた。いつもの無表情から、僅かに柔らかさが覗いている。


「お入りになりますか?」


「いいえ、今日は…」イリスは首を横に振った。「社交界の話を続けて」


二人は再び歩き出し、道を急坂に取った。上り詰めると、目の前に聖ノア礼拝堂の荘厳な姿が現れた。白い石造りの尖塔が空へと伸び、ステンドグラスからは色とりどりの光が漏れている。


「社交界で最も重要なのは、立ち振る舞いと家柄です」イリスは説明するように言った。「特に私たち名門の令嬢は、一挙手一投足が常に注目の的」


「礼拝堂では、社交界の重要な行事も行われると聞きます」


「ええ。成人の儀、婚約発表会…そして貴族同士の政略結婚の儀式も」イリスの声が冷たくなった。「私もいずれ…」


彼女の言葉が途切れた時、一群の貴族たちが彼らの前を通り過ぎていった。豪華な衣装に身を包み、従者を従えた彼らは、イリスを一瞥すると小声で囁き合っている。


「あの子があの|噂《うわさ》の…」

「ノクターン侯の人形姫だわ…」

「感情のない子、と聞いたわ…」


ヴァルトの背筋が一瞬で強張った。彼の目が鋭く光り、獣のような低い唸り声が喉の奥から漏れそうになる。


「気にしないで」イリスは静かに言った。「私はもう慣れているわ」


「お嬢様…」


「ねえ、ヴァルト。もう少し歩きましょう。王立教養学院が見たいの」


彼女の声には何の感情も感じられなかったが、ヴァルトには分かっていた。彼女の心の奥では、何かが静かに揺れ動いていること。薔薇の籠に閉じ込められた姫が、少しずつだが確実に、感情という名の翼を広げ始めていることを。


「かしこまりました」彼は深々と頭を下げた。「どうぞこちらへ」


ヴァルトは彼女の傍らに立ち、自分の影がイリスを優しく包み込むように位置を調整した。春の陽光の下、王都リュミエールの社交界を歩む二人の姿は、白と黒のコントラストが際立ち、静かな物語を紡ぎ始めていた。


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