朝の光が窓を通して差し込み、寝台の上に横たわる銀髪の少女を優しく照らした。だが、イリスはすでに目を覚ましていた。今日が特別な日だということを、彼女の体は先に知っていたかのようだった。
「今日が来るなんて…信じられないわ」
小さな声で呟いたその言葉は、部屋の静寂を破るほどの重みを持っていた。
ノクターン侯爵家の令嬢として生まれながらも、十七年間、屋敷の
「ロシュフォール家主催の舞踏会…」
その言葉を口にするだけで、どこか遠い国の話をしているような気分になった。
ノックの音が静かに響き、イリスの思考を現実に引き戻した。
「お嬢様、失礼します」
シルヴィアの声と共に扉が開き、亜麻色の髪をきっちりとまとめた女官長が入ってきた。彼女の背後には、いつも以上に緊張した面持ちのユナが控えていた。
「おはようございます、お嬢様!今日は、その、大切な日ですね!」ユナの声が弾む。
イリスは小さく微笑んだ。「ええ、そうね」
「舞踏会の衣装が届きました」シルヴィアが穏やかに言った。「ご覧になりますか?」
「見せて」
シルヴィアがうなずくと、ユナが小走りで部屋を出て行き、すぐに大きな箱を抱えて戻ってきた。
箱の蓋が開かれると、息を呑むような美しさのドレスが姿を現した。淡い月光色を基調としながらも、裾や縁取りには薄紫色の刺繍が施されている。まるで夜空を映し出したかのような、幻想的な輝きを放つドレスだった。
「なんて…素敵」思わずユナが囁いた。
イリスの指先がドレスの生地に触れる。これまで彼女が着てきたドレスは、どれも白や淡いブルーばかり。こんな色合いは初めてだった。
「お父様が特別に注文されたそうです」シルヴィアが言った。「あなたの初めての社交界デビューですから」
イリスは静かにうなずいた。父、エドガー侯爵の真意は明白だった。これは、娘を政略結婚の舞台に送り出すための
それでも、彼女の心には小さな期待の炎が灯っていた。
「今日は本当に屋敷の外に出られるのね」
「はい」シルヴィアの声に優しさが混じる。「ロシュフォール家の邸宅まで馬車で向かいます。エドガー様も同行されます」
「それから…」シルヴィアが少し躊躇した。「ヴァルトさんも護衛として同行することになりました」
イリスの顔がわずかに明るくなった。「ヴァルトも?」
「はい。侯爵様は最初は難色を示されましたが、あの誘拐事件以来、あなたの安全には特に気を遣われているようです」
「そう」イリスは無表情を装ったが、心の中では安堵の波が広がっていた。知っている顔が一つでも増えることは、彼女にとっての
特に、あの金色の瞳の主が側にいることは。
「お嬢様」ユナが突然、真剣な表情で前に出た。「わたし、今日はお嬢様をとっても綺麗にしますからね!みんなが振り返るくらい!」
その素直な言葉に、イリスは思わず小さく笑みを零した。「ありがとう、ユナ」
◆◆◆
正午過ぎ、イリスは書斎で静かに本を開いていた。頭の中では、夜の舞踏会への不安と期待が渦巻いている。そんな中、ノックの音が響いた。
「どうぞ」
扉が開くと、そこにはヴァルトの姿があった。彼はいつもより一層端正な服装で、黒の礼服に銀の飾りをつけている。
「お嬢様」彼は一礼した。「本日の舞踏会について、いくつか確認事項がございます」
イリスは本を閉じ、静かにヴァルトを見上げた。「何かしら?」
「まず、警備の配置ですが…」ヴァルトは淡々と説明を始めた。しかし、イリスはその言葉よりも、彼の
今日のヴァルトは違う。いつもの執事としての慎み深さは変わらないが、どこか厳格さが増している。まるで、彼女を守るという使命感がより強くなったかのように。
「…それから、もし何か不審な点があれば、すぐにお知らせください」ヴァルトが言い終えると、イリスは我に返った。
「ええ、わかったわ」彼女は小さくうなずいた。「でも、ヴァルト…」
「はい?」
「社交界って…どんなところなの?」
その質問に、ヴァルトの眉がわずかに動いた。「私も詳しくはありませんが…」
「あなたなりの印象で良いの」イリスは静かに付け加えた。
ヴァルトは少し考え込むような表情をした後、慎重に言葉を選んだ。「表向きは華やかな笑顔と優雅な立ち振る舞いの場所です。しかし、その裏では…言葉という名の刃が飛び交っています」
「刃…」イリスはその表現を噛みしめた。
「お嬢様」ヴァルトが一歩近づいてきた。「失礼を承知で申し上げれば…あなたは今まで、そういった世界とは無縁に育ってこられました」
「ええ、そうね」イリスは窓の外を見やった。「だからこそ、怖いの」
「恐れる必要はありません」ヴァルトの声が、いつもより少し柔らかくなった。「私がお側にいます」
イリスは振り返り、彼の琥珀色の瞳をまっすぐ見つめた。「約束して」
「はい」
「もし私が…」イリスは言葉を選ぶように少し間を置いた。「もし私の中のあの力が、うっかり漏れてしまいそうになったら、すぐに知らせて」
ヴァルトは理解するようにうなずいた。「わかりました。しかし、お嬢様はこの一週間で驚くほど制御力を高められました」
「でも、まだ不安定よ」イリスは自分の手を見つめた。「特に…感情が揺れると」
「だからこそ」ヴァルトはきっぱりと言った。「その場合は、私が必ずあなたの側にいます」
彼の言葉には、単なる執事の約束以上のものが込められていた。イリスにはそれが感じられた。そして彼女の胸の中で、安心感と共に何か温かいものが広がっていった。
「ありがとう、ヴァルト」彼女はほんの少し微笑んだ。
彼はただ黙って頭を下げたが、その瞳の奥に浮かぶ決意は、言葉よりも雄弁に彼の思いを語っていた。
◆◆◆
午後、イリスの寝室は準備の賑わいに包まれていた。
ユナが熱心にイリスの髪を整え、シルヴィアがドレスの最終調整を行っている。鏡に映る自分の姿に、イリスは少し戸惑いを覚えた。
「これが…私?」
普段の白銀の髪は、今宵は上品に編み込まれ、
「お嬢様、本当に美しい…」シルヴィアの目に、かすかな涙が浮かんだ。「まるで、あなたのお母様のようです」
母…その言葉にイリスの心がわずかに揺れた。彼女は母のことをほとんど覚えていない。幼すぎる頃に失ったからだ。しかし時々、こうして周りの大人たちの反応から、母の断片を拾い集めるしかなかった。
「綺麗すぎて、お辞儀するのも勿体ないくらいです!」ユナが目を輝かせて言った。「きっと、みんな驚きますよ!」
イリスは小さく息を吐いた。「怖いわ」
その正直な言葉に、シルヴィアとユナは驚いたように顔を見合わせた。普段のイリスなら、こんな感情を素直に口にすることはなかった。
「大丈夫です」シルヴィアが優しく彼女の肩に手を置いた。「あなたはノクターン家の令嬢です。生まれながらの気品を持っている」
「それに!」ユナが明るく付け加えた。「お嬢様、笑顔を見せるだけで、みんなお嬢様のとりこになりますよ!」
「笑顔…」イリスはその言葉を反芻した。彼女は心の中で、本当の笑顔を見せるということがどういうことなのか、まだ完全には理解していなかった。
「それでは、最後の仕上げを」シルヴィアがジュエリーボックスを開けた。中には繊細な細工のネックレスが。「これは、お母様が遺されたものです」
「母の…?」イリスの目が見開かれた。
「はい。初めての社交界デビューの日に、あなたに身につけてほしいと」
シルヴィアが静かにネックレスを取り出した。銀の繊細な鎖に、淡い紫色の
「エドガー様には内緒で…私が預かっていました」シルヴィアが小さく付け加えた。
イリスは言葉を失った。母からの贈り物。それは彼女にとって、何よりも
ネックレスが首元に収まると、不思議と彼女の体に温かさが広がった。幻想だとわかっていても、それは母の温もりのように感じられた。
「さあ、馬車の時間です」シルヴィアが静かに言った。「エドガー様がお待ちです」
イリスは深呼吸をした。人形姫の社交界デビュー。これが彼女の人生を変える夜になるとは、まだ誰も知らなかった。
◆◆◆
馬車の中は静寂に包まれていた。
イリスとエドガー侯爵が向かい合って座り、ヴァルトは運転台のすぐ後ろの護衛席に配置されていた。窓の外の景色は、屋敷を出てから刻々と変化していく。イリスは初めて見る街並みに、息をのむような思いで見入っていた。
「イリス」エドガーの冷たい声が響いた。「今日の心得を復唱してみなさい」
彼女は父から視線を外すことなく、教え込まれた通りに言葉を紡いだ。「一、常に礼儀正しく振る舞うこと。二、不必要な会話は避けること。三、セドリック様を立てること。四、ノクターン家の名に恥じぬよう行動すること」
「良し」エドガーはわずかに満足げな表情を見せた。「特に三番目を忘れるな。今日の舞踏会は、お前とセドリックの婚約を社交界に
イリスは静かにうなずいただけだった。彼女の心の中では、見知らぬセドリックという男性との結婚への不安よりも、今この瞬間、馬車の窓から見える輝く街並みへの好奇心が勝っていた。
「見事な
王都リュミエールの夜景は、彼女の想像をはるかに超える美しさだった。魔法の灯が街路樹を照らし、建物の窓からは温かな光が溢れている。通りを行き交う人々の衣装も色鮮やかで、イリスの目には別世界のように映った。
エドガーは彼女の反応を冷ややかに見ていた。「初めて見るものに目を奪われるのは、下品ぞ」
「申し訳ありません」イリスは言葉通りに謝ったが、その心は謝罪と無縁だった。彼女の胸の内で、小さな反抗心が燃え始めていた。
馬車が豪華な
ヴァルトが馬車のドアを開け、静かに言った。「お嬢様、到着いたしました」
イリスは彼の差し出した手を取り、馬車から降りた。目の前に広がる光景に、彼女は息を呑んだ。
ロシュフォール邸は、ノクターン家とは明らかに異なる
「エドガー侯爵、お嬢様」門の前で出迎えた執事が深々と頭を下げる。「お待ちしておりました」
エドガーが威厳をもってうなずき、イリスの方を振り返った。「行くぞ」
イリスは深呼吸をした。ヴァルトが彼女の背後で静かに囁いた。「お嬢様、どうか自信を持って」
その言葉に、彼女は少しだけ肩の力を抜くことができた。
階段を上るにつれ、音楽の音と人々の笑い声がだんだんと大きくなっていく。華やかな衣装を身にまとった貴族たちの間を進みながら、イリスは自分が異質な存在のように感じた。
まるで、展示用の人形が初めて人間の世界に足を踏み入れたかのように。
大広間の入口で、執事が大きな声で宣言した。
「ノクターン侯爵、エドガー様。そしてノクターン家令嬢、イリス様のご到着です」
その声と共に、何十もの視線が一斉に彼女に向けられた。イリスは背筋を伸ばし、教えられた通りに優雅に会釈をした。
人形姫の社交界デビュー——その幕が、今上がったばかりだった。