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Section4-1:初めての社交場へ

朝の光が窓を通して差し込み、寝台の上に横たわる銀髪の少女を優しく照らした。だが、イリスはすでに目を覚ましていた。今日が特別な日だということを、彼女の体は先に知っていたかのようだった。


「今日が来るなんて…信じられないわ」


小さな声で呟いたその言葉は、部屋の静寂を破るほどの重みを持っていた。


ノクターン侯爵家の令嬢として生まれながらも、十七年間、屋敷のおりから一歩も外に出ることを許されなかったイリス=ノクターン。箱入り令嬢の象徴として生きてきた彼女にとって、今夜の行事は人生初の"外界"への一歩を意味している。


「ロシュフォール家主催の舞踏会…」


その言葉を口にするだけで、どこか遠い国の話をしているような気分になった。


ノックの音が静かに響き、イリスの思考を現実に引き戻した。


「お嬢様、失礼します」


シルヴィアの声と共に扉が開き、亜麻色の髪をきっちりとまとめた女官長が入ってきた。彼女の背後には、いつも以上に緊張した面持ちのユナが控えていた。


「おはようございます、お嬢様!今日は、その、大切な日ですね!」ユナの声が弾む。


イリスは小さく微笑んだ。「ええ、そうね」


「舞踏会の衣装が届きました」シルヴィアが穏やかに言った。「ご覧になりますか?」


「見せて」


シルヴィアがうなずくと、ユナが小走りで部屋を出て行き、すぐに大きな箱を抱えて戻ってきた。


箱の蓋が開かれると、息を呑むような美しさのドレスが姿を現した。淡い月光色を基調としながらも、裾や縁取りには薄紫色の刺繍が施されている。まるで夜空を映し出したかのような、幻想的な輝きを放つドレスだった。


「なんて…素敵」思わずユナが囁いた。


イリスの指先がドレスの生地に触れる。これまで彼女が着てきたドレスは、どれも白や淡いブルーばかり。こんな色合いは初めてだった。


「お父様が特別に注文されたそうです」シルヴィアが言った。「あなたの初めての社交界デビューですから」


イリスは静かにうなずいた。父、エドガー侯爵の真意は明白だった。これは、娘を政略結婚の舞台に送り出すための衣装いしょうだ。華やかに着飾られた商品しょうひん


それでも、彼女の心には小さな期待の炎が灯っていた。


「今日は本当に屋敷の外に出られるのね」


「はい」シルヴィアの声に優しさが混じる。「ロシュフォール家の邸宅まで馬車で向かいます。エドガー様も同行されます」


「それから…」シルヴィアが少し躊躇した。「ヴァルトさんも護衛として同行することになりました」


イリスの顔がわずかに明るくなった。「ヴァルトも?」


「はい。侯爵様は最初は難色を示されましたが、あの誘拐事件以来、あなたの安全には特に気を遣われているようです」


「そう」イリスは無表情を装ったが、心の中では安堵の波が広がっていた。知っている顔が一つでも増えることは、彼女にとっての救いすくいだった。


特に、あの金色の瞳の主が側にいることは。


「お嬢様」ユナが突然、真剣な表情で前に出た。「わたし、今日はお嬢様をとっても綺麗にしますからね!みんなが振り返るくらい!」


その素直な言葉に、イリスは思わず小さく笑みを零した。「ありがとう、ユナ」


◆◆◆


正午過ぎ、イリスは書斎で静かに本を開いていた。頭の中では、夜の舞踏会への不安と期待が渦巻いている。そんな中、ノックの音が響いた。


「どうぞ」


扉が開くと、そこにはヴァルトの姿があった。彼はいつもより一層端正な服装で、黒の礼服に銀の飾りをつけている。


「お嬢様」彼は一礼した。「本日の舞踏会について、いくつか確認事項がございます」


イリスは本を閉じ、静かにヴァルトを見上げた。「何かしら?」


「まず、警備の配置ですが…」ヴァルトは淡々と説明を始めた。しかし、イリスはその言葉よりも、彼の佇まいたたずまいに意識が向いていた。


今日のヴァルトは違う。いつもの執事としての慎み深さは変わらないが、どこか厳格さが増している。まるで、彼女を守るという使命感がより強くなったかのように。


「…それから、もし何か不審な点があれば、すぐにお知らせください」ヴァルトが言い終えると、イリスは我に返った。


「ええ、わかったわ」彼女は小さくうなずいた。「でも、ヴァルト…」


「はい?」


「社交界って…どんなところなの?」


その質問に、ヴァルトの眉がわずかに動いた。「私も詳しくはありませんが…」


「あなたなりの印象で良いの」イリスは静かに付け加えた。


ヴァルトは少し考え込むような表情をした後、慎重に言葉を選んだ。「表向きは華やかな笑顔と優雅な立ち振る舞いの場所です。しかし、その裏では…言葉という名の刃が飛び交っています」


「刃…」イリスはその表現を噛みしめた。


「お嬢様」ヴァルトが一歩近づいてきた。「失礼を承知で申し上げれば…あなたは今まで、そういった世界とは無縁に育ってこられました」


「ええ、そうね」イリスは窓の外を見やった。「だからこそ、怖いの」


「恐れる必要はありません」ヴァルトの声が、いつもより少し柔らかくなった。「私がお側にいます」


イリスは振り返り、彼の琥珀色の瞳をまっすぐ見つめた。「約束して」


「はい」


「もし私が…」イリスは言葉を選ぶように少し間を置いた。「もし私の中のあの力が、うっかり漏れてしまいそうになったら、すぐに知らせて」


ヴァルトは理解するようにうなずいた。「わかりました。しかし、お嬢様はこの一週間で驚くほど制御力を高められました」


「でも、まだ不安定よ」イリスは自分の手を見つめた。「特に…感情が揺れると」


「だからこそ」ヴァルトはきっぱりと言った。「その場合は、私が必ずあなたの側にいます」


彼の言葉には、単なる執事の約束以上のものが込められていた。イリスにはそれが感じられた。そして彼女の胸の中で、安心感と共に何か温かいものが広がっていった。


「ありがとう、ヴァルト」彼女はほんの少し微笑んだ。


彼はただ黙って頭を下げたが、その瞳の奥に浮かぶ決意は、言葉よりも雄弁に彼の思いを語っていた。


◆◆◆


午後、イリスの寝室は準備の賑わいに包まれていた。


ユナが熱心にイリスの髪を整え、シルヴィアがドレスの最終調整を行っている。鏡に映る自分の姿に、イリスは少し戸惑いを覚えた。


「これが…私?」


普段の白銀の髪は、今宵は上品に編み込まれ、真珠しんじゅのような飾りが施されている。淡い月光色のドレスは、彼女の肌の透明感を一層引き立てていた。


「お嬢様、本当に美しい…」シルヴィアの目に、かすかな涙が浮かんだ。「まるで、あなたのお母様のようです」


母…その言葉にイリスの心がわずかに揺れた。彼女は母のことをほとんど覚えていない。幼すぎる頃に失ったからだ。しかし時々、こうして周りの大人たちの反応から、母の断片を拾い集めるしかなかった。


「綺麗すぎて、お辞儀するのも勿体ないくらいです!」ユナが目を輝かせて言った。「きっと、みんな驚きますよ!」


イリスは小さく息を吐いた。「怖いわ」


その正直な言葉に、シルヴィアとユナは驚いたように顔を見合わせた。普段のイリスなら、こんな感情を素直に口にすることはなかった。


「大丈夫です」シルヴィアが優しく彼女の肩に手を置いた。「あなたはノクターン家の令嬢です。生まれながらの気品を持っている」


「それに!」ユナが明るく付け加えた。「お嬢様、笑顔を見せるだけで、みんなお嬢様のとりこになりますよ!」


「笑顔…」イリスはその言葉を反芻した。彼女は心の中で、本当の笑顔を見せるということがどういうことなのか、まだ完全には理解していなかった。


「それでは、最後の仕上げを」シルヴィアがジュエリーボックスを開けた。中には繊細な細工のネックレスが。「これは、お母様が遺されたものです」


「母の…?」イリスの目が見開かれた。


「はい。初めての社交界デビューの日に、あなたに身につけてほしいと」


シルヴィアが静かにネックレスを取り出した。銀の繊細な鎖に、淡い紫色の宝石ほうせきが揺れている。まるで、イリス自身のひとみの色を映し出したかのような色合いいろあいだった。


「エドガー様には内緒で…私が預かっていました」シルヴィアが小さく付け加えた。


イリスは言葉を失った。母からの贈り物。それは彼女にとって、何よりも貴重きちょうなものだった。


ネックレスが首元に収まると、不思議と彼女の体に温かさが広がった。幻想だとわかっていても、それは母の温もりのように感じられた。


「さあ、馬車の時間です」シルヴィアが静かに言った。「エドガー様がお待ちです」


イリスは深呼吸をした。人形姫の社交界デビュー。これが彼女の人生を変える夜になるとは、まだ誰も知らなかった。


◆◆◆


馬車の中は静寂に包まれていた。


イリスとエドガー侯爵が向かい合って座り、ヴァルトは運転台のすぐ後ろの護衛席に配置されていた。窓の外の景色は、屋敷を出てから刻々と変化していく。イリスは初めて見る街並みに、息をのむような思いで見入っていた。


「イリス」エドガーの冷たい声が響いた。「今日の心得を復唱してみなさい」


彼女は父から視線を外すことなく、教え込まれた通りに言葉を紡いだ。「一、常に礼儀正しく振る舞うこと。二、不必要な会話は避けること。三、セドリック様を立てること。四、ノクターン家の名に恥じぬよう行動すること」


「良し」エドガーはわずかに満足げな表情を見せた。「特に三番目を忘れるな。今日の舞踏会は、お前とセドリックの婚約を社交界に披露ひろうする場でもある」


イリスは静かにうなずいただけだった。彼女の心の中では、見知らぬセドリックという男性との結婚への不安よりも、今この瞬間、馬車の窓から見える輝く街並みへの好奇心が勝っていた。


「見事な灯火ともしびね」彼女は思わず呟いた。


王都リュミエールの夜景は、彼女の想像をはるかに超える美しさだった。魔法の灯が街路樹を照らし、建物の窓からは温かな光が溢れている。通りを行き交う人々の衣装も色鮮やかで、イリスの目には別世界のように映った。


エドガーは彼女の反応を冷ややかに見ていた。「初めて見るものに目を奪われるのは、下品ぞ」


「申し訳ありません」イリスは言葉通りに謝ったが、その心は謝罪と無縁だった。彼女の胸の内で、小さな反抗心が燃え始めていた。


馬車が豪華な門扉もんぴの前で止まる。ロシュフォール家の屋敷に到着したのだ。


ヴァルトが馬車のドアを開け、静かに言った。「お嬢様、到着いたしました」


イリスは彼の差し出した手を取り、馬車から降りた。目の前に広がる光景に、彼女は息を呑んだ。


ロシュフォール邸は、ノクターン家とは明らかに異なる雰囲気ふんいきを持っていた。ノクターン家が重厚で荘厳な印象なら、ここは洗練された明るさに満ちている。大理石の階段を上ると、すでに多くの貴族たちが行き交う玄関ホールがあった。


「エドガー侯爵、お嬢様」門の前で出迎えた執事が深々と頭を下げる。「お待ちしておりました」


エドガーが威厳をもってうなずき、イリスの方を振り返った。「行くぞ」


イリスは深呼吸をした。ヴァルトが彼女の背後で静かに囁いた。「お嬢様、どうか自信を持って」


その言葉に、彼女は少しだけ肩の力を抜くことができた。


階段を上るにつれ、音楽の音と人々の笑い声がだんだんと大きくなっていく。華やかな衣装を身にまとった貴族たちの間を進みながら、イリスは自分が異質な存在のように感じた。


まるで、展示用の人形が初めて人間の世界に足を踏み入れたかのように。


大広間の入口で、執事が大きな声で宣言した。


「ノクターン侯爵、エドガー様。そしてノクターン家令嬢、イリス様のご到着です」


その声と共に、何十もの視線が一斉に彼女に向けられた。イリスは背筋を伸ばし、教えられた通りに優雅に会釈をした。


人形姫の社交界デビュー——その幕が、今上がったばかりだった。


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