ロシュフォール家の
天井から吊るされた巨大な
「イリス、背筋を伸ばしなさい」
エドガー侯爵の低い声が彼女の耳元で響く。イリスは無言で従った。彼女の心臓は激しく鼓動していたが、顔には何も感情を表さないよう細心の注意を払っていた。
「あれがロシュフォール侯爵だ」エドガーが顎でしるしをした。「挨拶に行くぞ」
イリスは父の後ろに続いて進み、人々の視線を背中に感じながら、広間の奥へと歩を進めた。
「エドガー!」
豪華な衣装に身を包んだ中年の男性が両手を広げて近づいてきた。ロシュフォール侯爵だ。彼の豊かな金髪と明るい青い目は、何世代にもわたって受け継がれてきた家系の特徴を色濃く表していた。
「よく来てくれた!そして——」彼の視線がイリスに移る。「これが噂の令嬢かね。実に美しい!」
イリスは教えられた通りに優雅にお辞儀をした。「ロシュフォール侯爵様、この度はご招待いただき、誠にありがとうございます」
彼女の声は小さかったが、明瞭で上品だった。これもまた、長年の教育の賜物だ。
「素晴らしい躾だ、エドガー」ロシュフォール侯が満足げに言った。その言葉にイリスの胸の奥で何かが軋んだが、彼女は表情を変えなかった。
「さて、セドリックを呼んでこよう。きっと喜ぶだろう」
侯爵が小さく手を上げると、すぐに侍従が駆けつけた。息子を呼ぶよう指示し、再びイリスとエドガーに向き直る。
「ワインはいかがかね?特別なヴィンテージを用意しているんだ」
エドガーが頷き、二人の侯爵は談笑を始めた。イリスはその会話から自然と
部屋の隅に、ヴァルトの姿を見つける。彼は壁際に立ち、周囲を警戒するように目を光らせていた。その鋭い視線が一瞬イリスと交差し、彼はわずかに頷いた。その仕草だけで、イリスは少し安心を覚えた。
「あ、セドリックが来たようだ」
ロシュフォール侯爵の声に、イリスは正面に視線を戻した。そして——彼を見た。
人混みをかき分けるように近づいてくる青年は、想像していたのとは少し違っていた。
セドリック=ロシュフォールは、金色の巻き毛と父親譲りの青い目を持っていたが、その表情には何か
「父上、お呼びですか?」
彼の声は柔らかく、どこか
「ああ、セドリック」侯爵が満面の笑みで言った。「ほら、エドガー侯爵とイリス嬢だ。」
セドリックの視線がイリスに向けられた。彼の青い目が僅かに見開かれる。
「イリス嬢」彼は優雅に一礼した。「先日ぶりです、今宵はさらなる美しさですね」
イリスは形通りに頭を下げた。「セドリック様、またお目にかかれて光栄です」
「二人とも、少しダンスでもどうだ?」ロシュフォール侯爵が提案した。「オーケストラは最高の演奏者ばかりだぞ」
エドガーが同意を示し、イリスとセドリックは
「宜しければ」セドリックが手を差し出した。
「はい」イリスは震える手で、その申し出を受けた。
三拍子のリズミカルな音楽が流れ始め、二人は踊りの輪に加わった。イリスは幼い頃から舞踏の訓練を受けていたため、ステップそのものは難なくこなせた。ヴァルトとも練習した。しかし、実際に人前で、しかも見知らぬ男性と踊るのは初めての経験だった。
「緊張されていますか?」セドリックが小声で尋ねた。
イリスは咄嗟に答えられなかった。感情を隠すよう教えられてきた彼女は、今、どう振る舞えばいいのかわからなかったのだ。
「大丈夫ですよ」セドリックの声が優しくなった。「私も実は緊張しているんです」
「…え?」
イリスの素直な反応に、セドリックの表情がわずかに緩んだ。それは、これまでの作り笑いとは違う、本物の表情のように見えた。
「意外ですか?」彼は小さく笑った。「私もこういう場は好きではないんです。でも、
彼の言葉に、イリスは初めて興味を抱いた。
「役目…」彼女はつぶやくように言った。「わかります」
「そうですか?」セドリックの青い目が彼女をじっと見た。「それは少し心強いですね」
音楽に合わせて二人は回転する。イリスは周囲の視線を感じた。きっと今、彼らは大勢の人に見られている。ノクターン家の箱入り令嬢と、ロシュフォール家の跡取り息子。政略結婚の
「イリス嬢」セドリックが再び口を開いた。「失礼を承知で、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「あなたは本当に、この婚約を望んでいるのですか?」
その予想外の質問に、イリスは思わず足を止めそうになった。セドリックはそれに気づいたのか、さりげなく彼女をリードし直し、踊りを続けさせた。
「私は…」イリスは言葉に詰まった。正直に答えるべきか?それとも父が望むような応答をすべきか?
セドリックは彼女の
「いいえ」イリスは決意したように言った。「私にはまだ、自分の望みがわからないのです」
セドリックは驚いたように彼女を見た。そして、少し考えるような表情の後、静かに言った。
「それだけでも、正直な答えですね」
彼の表情が少し和らいだ。イリスは自分が何か正しいことを言ったのだと感じた。
「実は私も」セドリックは小声で続けた。「父の決めた道を歩いているだけなんです。本当は…」
しかし、彼の言葉は中断された。音楽が終わり、周囲から拍手が沸き起こったのだ。二人は礼を交わし、踊りを終えた。
「素晴らしい!」ロシュフォール侯爵が近づいてきて叫んだ。「二人とも見事な踊りだった!」
エドガーも満足げな様子で頷いている。他の貴族たちもまた、この"お似合いのカップル"に称賛の声を送っていた。
「少し休憩されますか?」セドリックがイリスに尋ねた。
「はい、ありがとうございます」
彼はイリスを広間の側面にあるバルコニーへと導いた。外気に触れると、イリスは深く息を吸い込んだ。舞踏場の熱気から解放され、夜の涼しさが心地よかった。
「ここなら少しは話しやすいでしょう」セドリックが言った。「あの中は…息が詰まりますから」
イリスは初めて、セドリックをじっくりと観察した。公の場での彼の振舞いと、今目の前にいる彼は、微妙に違っていた。
「セドリック様は…」
「セドリックでいいですよ」彼は優しく言った。「少なくとも二人きりの時は」
「セドリック」イリスは少し戸惑いながらも続けた。「あなたはこういう社交界に慣れているのですか?」
彼は空を見上げ、小さく笑った。「見た目はそうでしょうね。でも、内心では常に演じている感覚です」
「演じる…」イリスはその言葉に共感を覚えた。「私もです」
「そうでしょうね」セドリックは彼女をじっと見た。「あなたの目を見ていればわかります」
「私の…目?」
「はい」彼はまっすぐ彼女を見つめた。「表情は完璧に作られていても、瞳は嘘をつけません。あなたの目は、どこか遠くを見ているようです。この場所に本当はいないような」
イリスは息を呑んだ。彼の観察力に驚いたのだ。
「怖がらせるつもりはなかったんです」セドリックは慌てて言った。「ただ、あなたと似た気持ちを持つ者として…」
「似た気持ち?」
「私たちは似ていると思いませんか?」彼の声は静かになった。「外から見れば完璧だけれど、内側には…」
「仮面を被っている」イリスが彼の言葉を完成させた。
セドリックは驚いたように彼女を見た。そして、ゆっくりと頷いた。「そうです、仮面を」
イリスは初めて、この人と本当に話せるかもしれないと感じた。表面的な社交辞令ではなく、何か真実を共有できるような。
「セドリック、あなたは何になりたかったのですか?」彼女は思い切って尋ねた。「もし、後継者でなかったら」
彼は一瞬躊躇い、それから小さな声で答えた。「旅をしたかったんです。遠い国々を見て、本や絵ではなく自分の目で世界を知りたくて」
その言葉に、イリスの胸が熱くなった。彼女も同じ思いを抱いていたからだ。外の世界を知りたい、触れたい、自分の目で見たいという
「私も」彼女は静かに言った。「外の世界を見てみたいです」
二人は沈黙の中で、その共通点を味わった。
「イリス」セドリックが真剣な表情で言った。「もし私たちが本当に結ばれることになったら…あなたを檻に閉じ込めるようなことはしません。約束します」
その言葉に、イリスは何と答えていいかわからなかった。彼は本当にそれを守れるのだろうか?それとも、これもまた社交界の甘い嘘なのか?
「セドリック様、イリス嬢」
振り返ると、執事が頭を下げて立っていた。
「お父上方がお呼びです。宴の
「わかりました」セドリックは執事に応え、イリスに手を差し出した。「行きますか?」
イリスはその手を取り、セドリックに導かれて再び舞踏場の中へ戻った。しかし彼女の心は、先ほどまでとは違っていた。
あの青年は、彼女が考えていたような単なる政略結婚の相手とは違うようだった。彼もまた、自分なりの葛藤を抱えている。その発見は、イリスにとって大きな意味を持っていた。
「イリス」
広間に戻る途中、セドリックが小声で呼んだ。
「はい?」
「あなたの執事…あの方は少し怖い目をしていますね」彼が遠慮がちに言った。
イリスは思わず振り返った。確かに、壁際に立つヴァルトの視線は鋭く、特にセドリックを見るときはさらに鋭利になっているように感じた。
「ヴァルトは…私の護衛です」イリスは説明した。「少し真面目すぎるところがありますが」
「そうですか」セドリックは微笑んだ。「あなたにとって大切な方なのでしょうね」
その言葉に、イリスは何故か頬が熱くなるのを感じた。「ええ…そうですね」
二人は宴会場へと向かい、それぞれの親の元へと戻っていった。
舞踏会は深夜まで続き、イリスは生まれて初めて、こんなにも多くの見知らぬ人々と言葉を交わした。エドガーの監視の下、彼女は礼儀正しく振る舞い、求められる役割を完璧にこなした。
しかし、彼女の心は今、新しい発見で満ちていた。
セドリックという人物。彼もまた、
そして、もう一つ気づいたこと。
ヴァルトの視線。彼は一晩中、決して彼女から目を離さなかった。特に彼女がセドリックと話しているときには、その琥珀色の瞳が一段と鋭くなったように感じた。
それはただの警戒だったのか、それとも別の何かだったのか——。