ロシュフォール家の舞踏会から戻った夜、イリスの心は不思議な高揚感で満ちていた。
閉じ込められた鳥かごの扉が、ほんの少しだけ開いたような感覚。初めて外の世界を覗いた彼女の瞳には、まだ舞踏場の
「お嬢様、お疲れさまでした」
寝室でドレスを脱がせながら、シルヴィアが優しく声をかけた。
「ええ…」イリスは小さく返事をしたが、その声には普段にない色があった。
「いかがでしたか?社交界は」シルヴィアが彼女の反応を見ながら尋ねた。
イリスは言葉を選ぶように少し間を置いた。「…あんなにたくさんの人がいるなんて、想像を超えていたわ」
「セドリック様とはお話されましたか?」
その名前を聞いて、イリスの心にセドリックとのバルコニーでの会話が蘇った。彼の言葉、本心を隠した生き方、そして彼との不思議な共鳴。
「ええ、少し」彼女は素っ気なく答えた。本当のことを言うのが怖かった。あの時間が彼女の中で特別だったことを認めるのが。
シルヴィアはそれ以上追及しなかったが、洞察に満ちた目でイリスを見ていた。長年この子を見守ってきた女官長には、彼女の微妙な変化が手に取るようにわかった。
「明日はお休みになって構いません」シルヴィアがナイトドレスを手渡しながら言った。「今日は特別な一日でしたから」
「ありがとう」イリスはドレスに着替えると、疲れた様子でベッドに腰掛けた。
シルヴィアが退出した後も、イリスの頭からは舞踏会の光景が離れなかった。これまで本でしか知らなかった世界を実際に目にし、触れたことの衝撃。そして、セドリックという存在。彼は想像していたような
「でも…」彼女は小さく呟いた。「なぜかしら、少し…」
言葉にできないもやもやとした感覚。それは舞踏会の終わり頃から、彼女の胸の中でずっとくすぶっていた。
馬車に乗り込む時、ヴァルトが彼女を手伝った瞬間のこと。彼は普段と違って、ほとんど彼女の顔を見なかった。その冷たさは、まるで別人のようだった。
「ヴァルト…」
その名を口にした途端、ドアがノックされた。イリスは思わず背筋を伸ばした。
「どうぞ」
ドアが開き、まるで彼女の思いに応えるかのように、ヴァルトが姿を現した。彼はいつもの黒い執事服を着ているが、どこか緊張感をまとった佇まいだった。
「失礼します、お嬢様」彼は一礼した。「明日のスケジュールについて、最終確認に参りました」
「ああ…」イリスはほっとしたような、少し残念なような複雑な気持ちになった。彼が来たのはただの業務連絡のためだったのか。
「明日は午前中、休息をとられるよう、シルヴィアから伺っております」ヴァルトは淡々と言葉を続けた。「午後からは通常通り、ピアノのレッスンと英語の勉強が予定されています」
「ありがとう」イリスは小さく返事をした。
普段なら、これで会話は終わるはずだった。イリスが頷き、ヴァルトが一礼して退出する。それが二人の間の決まりきった型だった。
しかし、今夜は違った。
「あの…ヴァルト」
イリスの呼びかけに、ヴァルトはわずかに驚いたように顔を上げた。「はい?」
「今日は…どうだったと思う?」彼女は思い切って尋ねた。「私の社交界デビュー」
ヴァルトの表情が一瞬だけ硬くなった。それから、丁寧に答えた。「お嬢様は素晴らしかったです。多くの貴族方が感嘆されていました」
その言葉はあまりにも
「…どういう意味でしょうか」
「あなたの本当の感想が知りたいの」イリスは真っ直ぐ彼を見た。「執事としてではなく…あなた自身の」
ヴァルトの琥珀色の瞳に、複雑な感情が浮かんだ。彼は一瞬言葉に詰まり、それから静かに答えた。
「お嬢様は…光り輝いていました」
その言葉に、イリスの胸がわずかに熱くなった。
「でも」ヴァルトは続けた。「私の感想など、重要ではありません」
「重要よ」イリスは咄嗟に言った。「私にとっては」
部屋に沈黙が落ちた。ヴァルトの目が少し見開かれる。二人の間で、言葉にならない何かが揺れていた。
「お嬢様」ヴァルトが口を開いた。「セドリック様とは…いかがでしたか」
その質問は、執事としての仕事を超えたものだった。イリスはそれを感じ取った。
「セドリックは…」彼女は言葉を選びながら言った。「思っていたより、話しやすい人だった」
ヴァルトの顔に、一瞬だけ影が差した。あまりに短い変化で、イリスは自分の見間違いかと思った。
「そうですか」彼は静かに言った。「ロシュフォール家は名門。セドリック様もまた、優れた教養をお持ちでしょう」
「教養だけじゃないの」イリスは言った。「彼は…私と似ている部分があるみたい」
「似ている?」ヴァルトの声がわずかに強まった。
「ええ」イリスは窓の外を見ながら続けた。「両方とも、何かの
ヴァルトは黙ってイリスを見つめていた。彼の目に浮かんだ感情を、イリスは読み取れなかった。
「彼、旅をしたいって言ってたわ」イリスはセドリックとの会話を思い返した。「遠い国を見て、本当の世界を知りたいって」
「それは…」ヴァルトがようやく言葉を発した。「まるでお嬢様のようですね」
「そうなの」イリスは小さく頷いた。「だから、少し驚いたの。私みたいな人がいるなんて」
ヴァルトの拳がわずかに握りしめられた。それは彼自身も気づかぬほど小さな仕草だったが、イリスの目には捉えられていた。
「彼があなたを幸せにすることを願います」ヴァルトが突然、形式的な言葉を口にした。
イリスは驚いて顔を上げた。「何を言ってるの?」
「ロシュフォール家との婚約は、ほぼ決まったことです」ヴァルトの声は、どこか硬く、冷たかった。「セドリック様があなたと価値観を共有できるなら、それは喜ばしいことでしょう」
イリスはヴァルトの言葉に違和感を覚えた。まるで、彼が自分と距離を置こうとしているかのように。
「ヴァルト」彼女はまっすぐ彼を見た。「あなた、今日の舞踏会で何か…気になることでもあったの?」
「いいえ」ヴァルトはすぐに答えた。だが、その早すぎる応答が、逆に彼の気持ちを露呈していた。
「本当に?」イリスは立ち上がり、彼に一歩近づいた。「私に嘘をつかないで」
ヴァルトは一瞬、呼吸を止めたかのようだった。イリスがこれほど直接的に何かを問いただすことは、これまでなかった。彼女の中で何かが変わり始めていることを、彼は感じていた。
「…お嬢様」ヴァルトの声が低くなった。「私は単なる執事です。あなたのお幸せを願う以外に、感情を持つ資格はありません」
「違うわ」イリスは首を振った。「あなたは私の…」
言葉が詰まる。彼女自身、何と言おうとしていたのか分からなかった。執事?護衛?友人?それとも…
「お嬢様」ヴァルトが静かに言った。「遅い時間です。お休みになられた方が」
イリスは言葉を飲み込み、小さくうなずいた。彼がこれ以上話すつもりがないことは明らかだった。
「わかったわ」彼女は静かに言った。「おやすみ、ヴァルト」
「おやすみなさい、お嬢様」
ヴァルトが一礼し、ドアに向かった。閉まりかけたドアの隙間から、イリスは最後の言葉を投げかけた。
「明日、話を聞かせて」
ヴァルトの足が一瞬止まったが、彼は振り返らなかった。ただ、小さくうなずいただけだった。
ドアが閉まり、イリスはベッドに横たわった。天井を見上げながら、今日一日の出来事を思い返す。セドリックとの意外な共感、社交界の華やかさと
「どうして…」彼女は小さく呟いた。
◆◆◆
ヴァルトは自分の小さな部屋で、窓の外を見つめていた。
執事用の部屋は質素だったが、彼がこれまで暮らしてきた場所と比べれば天国のようなものだった。しかし今夜、その部屋の壁は彼を締め付けるように感じられた。
「何をしているんだ、俺は…」
低い声で呟きながら、彼は自分の行動を悔やんでいた。お嬢様の前であんな態度を取るべきではなかった。冷たく、よそよそしい態度。それは執事として、護衛として不適切極まりない。
だが、ヴァルト自身、自分の感情をうまく処理できずにいた。
舞踏会でイリスとセドリックが踊る姿を見た時の、あの奇妙な感覚。胸が締め付けられるような痛み。そして、バルコニーで二人が親しげに話す様子を見守るときの、あの焦燥感。
「これは…」
獣人としての鋭い感覚が、彼自身の感情の正体を教えていた。それは嫉妬だった。純粋な、否定しようのない嫉妬。
「あってはならない」彼は拳を握りしめた。「俺はただの…」
ただの使用人。ただの護衛。主人を守り、仕えるだけの存在。それが彼の役割だった。
「お嬢様は高貴な方」ヴァルトは自分に言い聞かせるように呟いた。「セドリック様こそが相応しい」
言葉にすればするほど、胸の痛みは増した。理性では分かっていても、感情がそれに従わない。
それもそのはず。今や彼の感情はすでに、単なる忠誠心を超えていた。それがいつからなのか、彼自身にもわからない。イリスを誘拐未遂から救った時だろうか。彼女が初めて彼の名を呼んだ時だろうか。あるいは、彼女の力が目覚め始め、彼を信頼して助けを求めてきた時だろうか。
きっかけがどこにあったとしても、結果は同じだった。
ヴァルト=グレイハウンドは、イリス=ノクターンに恋をしていた。
「笑い話だ」彼は苦笑した。「獣人が貴族の令嬢に恋をするなど」
しかしそれが現実だった。彼は自分の心に正直になることができた。少なくともこの小さな部屋の中では。
「だからこそ、距離を置かなければ」
ヴァルトは窓を開け、夜風を浴びた。冷たい風が彼の熱い思いを冷ます。そうでなければ、彼は壊れてしまいそうだった。
イリスの言葉が耳に蘇る。「明日、話を聞かせて」
「何を話せというのか…」彼は星空を見上げた。「俺にはただ黙っているしかない」
明日は何と答えようか。何の言い訳を用意しようか。あの紫色の瞳に見つめられたとき、彼は嘘をつくことができるだろうか。
獣人は嘘が下手だった。特に、心から大切に思う相手には。
「守るべきなのは、お嬢様の
風が強くなり、彼の黒髪が乱れた。獣の血を引く彼は、本能的に危険を察知する能力を持っていた。そして今、その本能が何かを警告していた。
イリスとセドリックの結びつきは、彼女を幸せにするのではなく、新たな檻に閉じ込めることになるのではないか。
「俺は…何をすべきなのか」
ヴァルトの前に道は二つ。自分の感情を完全に押し殺し、忠実な執事として彼女の婚約を見守ること。あるいは、本当の気持ちを伝え、おそらくは彼女を困惑させ、自分は屋敷を去ることになるだろう。
どちらを選んでも、彼は彼女を失う。
「せめて…そばにいられるだけでも」
彼は窓を閉め、灯りを消した。闇の中で、彼の金色の瞳だけが微かに輝いていた。獣の目。決して人間には成り得ない存在の証。
明日、彼は笑顔を装い、いつもの執事に戻るだろう。それが彼女のためだと信じて。
だが今夜だけは、彼は自分の心の闇と向き合うしかなかった。
◆◆◆
翌朝、イリスが目を覚ますと、部屋はすでに朝の光で満ちていた。いつもより遅い時間だった。
「お嬢様、おはようございます」
シルヴィアが静かに声をかけた。いつの間にか彼女は部屋に入り、カーテンを開けていたのだろう。
「おはよう」イリスは少し眠そうに答えた。昨夜は考え事が多すぎて、なかなか眠れなかったのだ。
「よくお休みになられましたか?」シルヴィアが彼女のナイトドレスを整えながら尋ねた。
「ええ…まあ」イリスの答えはあいまいだった。
「朝食の準備ができています」シルヴィアが言った。「庭でいかがですか?天気が良いですから」
「それがいいわ」イリスは窓の外を見た。確かに素晴らしい晴れだった。「それから…ヴァルトは?」
「ヴァルトさん?」シルヴィアは少し考えるような素振りを見せた。「朝早くから警備の巡回に出ています。執事長のシルクと一緒に」
「そう…」イリスの声にわずかな失望が混じった。
「何かご用でしたか?」
「いいえ、別に」イリスは取り繕った。「ただ、昨日のことでいくつか確認したいことがあっただけ」
シルヴィアは賢明にも、これ以上詮索しなかった。彼女はイリスの朝の支度を手伝い、朝食の準備を整えた。
「それでは庭で」シルヴィアが退出する際に言った。「ユナがご案内します」
イリスが上着を羽織り終えると、ドアの外からユナの明るい声が聞こえた。
「お嬢様、おはようございます!」
ドアが開き、栗色の髪を三つ編みにしたユナが元気よく入ってきた。彼女の顔には、いつもの屈託のない笑顔が浮かんでいた。
「お嬢様、昨日の舞踏会、すっごく素敵だったって皆さん言ってましたよ!」ユナは興奮した様子で言った。「お嬢様のドレス姿、天使みたいだったって!」
「そう…」イリスは小さく微笑んだ。ユナの純粋な喜びは、いつも彼女の心を和ませた。
「それで、それで」ユナはさらに声を弾ませた。「セドリック様とのダンスもとても素敵だったそうですね!お似合いのカップルだって、使用人の間でも評判ですよ!」
イリスはその言葉に、なぜか複雑な気持ちになった。「ユナ」
「はい!」
「ヴァルトは…昨日の夜からずっと何か言ってた?私のこと、舞踏会のこと」
ユナの目が少し丸くなった。「ヴァルトさんですか?」
「ええ」
ユナは少し考える素振りを見せた。「ヴァルトさんは…あまりお話しされる方じゃないですけど」彼女は慎重に言葉を選んだ。「でも、昨夜は何だか暗い顔をされてましたね」
「暗い顔?」
「はい」ユナはうなずいた。「夜遅くに、庭を一人で歩いてらっしゃって。何かすごく考え事をしてるみたいでした」
イリスはその情報を胸に刻んだ。「そう…ありがとう、ユナ」
「あの…お嬢様」ユナが少し躊躇いながら続けた。「もしかして、ヴァルトさんと何かあったんですか?」
彼女の勘の良さに、イリスは少し驚いた。「何もないわ」彼女は取り繕った。「ただ、昨日の警備について聞きたいことがあっただけ」
「そうですか…」ユナはそれ以上追及せず、彼女を庭へと案内した。
朝食は静かに過ぎていった。イリスは食事をしながら、何度も庭の入口を見やった。ヴァルトが現れるかもしれないと期待して。
しかし、彼の姿はなかった。
「本当に警備の巡回?」イリスは疑問に思った。それとも、彼は彼女を避けているのだろうか。
昨夜のヴァルトの様子を思い出す。あの冷たさ、あの
「まさか…」イリスは突然、ある可能性に思い至った。
ヴァルトは嫉妬していたのではないか?
その考えは荒唐無稽に思えた。彼はただの執事で、彼女はノクターン家の令嬢。二人の間には越えられない壁がある。それに、ヴァルトがそんな感情を持つはずがない。
「でも…」
イリスの胸に、小さな希望が灯った。それは自分でも理解できない感情だった。ヴァルトが彼女に特別な感情を持っているかもしれないという考えは、なぜか彼女の心を躍らせた。
「お嬢様」
シルヴィアの声に、イリスは我に返った。「はい?」
「午後のピアノのレッスンまで、お時間がございます」シルヴィアが言った。「何かなさりたいことはありますか?」
イリスは少し考え、それから決意したように言った。「ヴァルトを捜したいの」
シルヴィアの表情が微妙に変化した。「ヴァルトさんを?」
「ええ」イリスはきっぱりと言った。「昨夜の舞踏会について、彼の意見が聞きたいの」
シルヴィアはしばらくイリスを見つめ、それからゆっくりとうなずいた。「わかりました。彼の居場所を探してみましょう」
イリスは胸の高鳴りを感じながら、立ち上がった。今日、彼女はヴァルトと向き合うつもりだった。彼の本当の気持ちを知るために。そして、おそらくは自分自身の気持ちを理解するためにも。