仮面舞踏会の前夜、秋の月が雲に隠れるノクターン侯爵邸。イリスとセドリックの婚約発表を明日に控えたこの夜、東棟の奥まった一室に、一筋の灯りが揺れていた。シルヴィア・マーナの私室——表向きは女官長の執務室とされるこの部屋は、実は亡きリディア・ノクターン夫人の遺品が密かに保管される空間でもあった。
亜麻色のロングヘアを普段より緩く結い、シンプルなダークグリーンのローブに身を包んだシルヴィアは、古い本棚の前に立っていた。三十二歳の彼女のブルーグレーの瞳には疲労の色が滲み、いつもの厳格な姿勢からは少し崩れている。黒縁眼鏡の奥の目は、暖炉の炎に照らされて物思いに沈んでいた。
彼女の手には一冊の革装丁の本——リディア夫人の日記があった。十年以上前のものでありながら、その内容は今のノクターン家の命運を左右しかねない秘密を孕んでいる。
「リディア様…」シルヴィアは小さくつぶやいた。「あなたの娘さまを守る時が、ついに来たようです」
◆◆◆
「シルヴィア」
扉を軽くノックする音と共に、懐かしい声が聞こえた。シルヴィアは素早く日記を隠し、姿勢を正して振り向いた。
「お入りください」
扉が開き、ノクターン侯爵エドガーの姿が現れた。灰色が混じった黒髪を厳格にオールバックにし、ダークネイビーの執務用衣装に身を包んだ彼は、鋼のような銀の瞳で室内を見渡した。痩せ型の高い体躯は、相変わらず威厳に満ちていた。
「久しぶりだな、私室に招かれるのは」エドガーは静かに室内に入った。
「侯爵様」シルヴィアは一礼した。「何かご用件でしょうか?」
「明日の婚約発表会の最終確認だ」エドガーは冷淡に言った。「イリスの衣装は?」
「本日午後に最終調整を終えております。白と銀を基調とした正装です」
「髪飾りは?」
「リディア様がお使いになっていた銀の薔薇のかんざしを」
エドガーの表情が一瞬硬くなった。「妻の形見か」
「はい。お嬢様の成人の儀に備えて、リディア様が…」
「分かった」彼は言葉を切った。「他に問題はないな?」
「はい、すべて順調です」
エドガーは満足げに頷き、暖炉の方へ歩み寄った。その時、彼の目が書棚の隙間に置かれた小さな木箱に留まった。
「あれは…」
シルヴィアの心臓が一瞬止まりそうになった。箱の中には、リディアの最も重要な遺品——イリスの異能に関する記録が入っていたからだ。
「私の薬草コレクションです」彼女は冷静を装って答えた。「東の国から取り寄せた珍しいものを」
「ほう」エドガーは興味を失ったように目を逸らした。「イリスの教育者としても長かったな、シルヴィア」
「はい。お嬢様が七歳の時からですので、十年になります」
「お前は私の妻の親友だった」エドガーの声がわずかに柔らかくなった。「だからこそ、イリスの教育を任せた」
シルヴィアは黙って頷いた。
「だが覚えておけ」彼の声は再び冷たくなった。「イリスは私の作品だ。彼女の未来は私が決める」
「もちろんです、侯爵様」シルヴィアは丁寧に頭を下げた。「ただ、私からひとつだけ」
「何だ?」
「お嬢様の幸せを、どうかお考えください」
エドガーの眉が厳しく寄った。「幸せとは地位と安定だ。感傷など不要だ」
「しかし、お嬢様の中には…」
「十分だ」エドガーは手を上げた。「私の娘をどう育てるかは、私が決める。明日、イリスは完璧な花嫁となり、ロシュフォール家との同盟を確かなものにする」
彼は振り返り、扉へと向かった。
「リディアは感情的すぎた。だからこそ彼女は…」言葉を切り、エドガーは首を横に振った。「とにかく、明日の準備を怠るな」
「かしこまりました」
扉が閉まると、シルヴィアはほっと息をついた。日記を取り出し、再び開く。
「リディア様…あなたの忠告は正しかった」彼女は小さくつぶやいた。「イリス様の中の力が目覚め始めています」
◆◆◆
十分後、シルヴィアの私室の扉が再び叩かれた。
「シルヴィア様、わたしです」少女の声がした。
「ユナ?入りなさい」
扉が開き、栗色の三つ編みをした少女が入ってきた。元気な印象の丸顔にそばかすが散る彼女は、茶系の制服メイド服に身を包み、両手を前で組んで緊張した面持ちだった。
「何かあったの?」シルヴィアは眼鏡を直しながら尋ねた。
「あの、お嬢様のことで…」ユナは口ごもった。「さっき、お嬢様のお部屋に夜食をお持ちしたときに、変なことがありまして」
シルヴィアの背筋が伸びた。「どんなこと?」
「お嬢様が窓辺に立っていて、月を見ながら『明日、雨が降るわ』って言ったんです」ユナは困惑した顔で続けた。「でも、天気予報は晴れだって執事長が言ってたんですけど…」
「それだけ?」
「いえ、それから…」ユナは声を落とした。「お嬢様の瞳が、一瞬だけ銀色に光ったような…」
シルヴィアは椅子から立ち上がり、本棚に近づいた。「他に誰か、それを見た人は?」
「いません。お嬢様もすぐに普通に戻って、『気のせいよ』って言いました」
「ユナ」シルヴィアは少女の肩に手を置いた。「このことは誰にも言わないで。特に侯爵様には」
「はい…でも、お嬢様は大丈夫なんですか?」ユナの琥珀色の瞳には純粋な心配が浮かんでいた。
「大丈夫」シルヴィアは微笑んだ。「ただ、明日はお嬢様から離れないでいなさい。何があっても側にいて」
「わかりました!」ユナは元気よく頷いた。「あの、もう一つ…」
「なに?」
「ヴァルトさんも何か知ってるみたいです。お嬢様と秘密の会話をしてました」
シルヴィアは静かに頷いた。「ありがとう、ユナ。もう遅いから、休みなさい」
ユナが去った後、シルヴィアは小さな木箱を取り出した。鍵をかけて開くと、中には古い羊皮紙に書かれた文書と、水晶でできた小さなペンダントが入っていた。
「時が来たのね」彼女はペンダントを手に取った。「イリス様の異能が目覚め始めている。感情の凍結…そして未来視」
彼女は羊皮紙を開き、リディアの優美な筆跡を見つめた。
「『我が娘イリスには三つの力が宿る。感情を凍らせる力、凍った感情を解き放つ力、そして時を垣間見る力。だが全ての力には代償が伴う。感情を凍らせれば自らの心も凍る。感情を解けば周りの人々の感情も暴走する。そして未来を見れば…最愛の人を失う』」
シルヴィアは震える手で羊皮紙を閉じた。これがリディアの残した最後の警告だった。そして、エドガーからひた隠しにしてきた真実。
「リディア様は自分の異能で未来を見た」シルヴィアは呟いた。「そして、その代償として命を落とした…」
暖炉の火が弱まり、影が部屋を包み始めた。シルヴィアは窓辺に立ち、月の出ていない夜空を見上げた。
「エドガー様がリディア様の遺品をイリス様から隠したのも、異能の覚醒を恐れてのこと」彼女は静かに言った。「でも、もう遅い。イリス様の中の力は、もう目覚めつつある」
彼女はペンダントを握りしめ、決意に満ちた表情を浮かべた。
「明日の婚約発表会…イリス様の予言通り、雨が降れば、すべてが始まる」
シルヴィアは箱を元の場所に戻し、密かに鍵をかけた。十年以上にわたって守ってきた秘密。家庭教師として、そして亡き友の遺志の守り人として、彼女はついに行動の時を迎えようとしていた。
廊下からは、使用人たちの急ぎ足が聞こえる。婚約発表会の準備は最終段階に入っていた。だが、明日の祝典は、誰もが想像していないような結末を迎えることになるのかもしれない——シルヴィアにはそれが見えていた。
彼女はろうそくの火を消し、部屋を後にした。廊下の暗がりの中、彼女の決意だけが静かに光を放っていた。